隠れ家にて

 僕は貴司の名を呼びながら必死に梯子にとりついた。だが腕力が足りず、両足はコンクリートの壁を擦るばかりだった。

 ふと右足に上昇する力を感じた。振り向くと、仄香が僕の足をつかんで持ち上げてくれている。仄香に向かって小さく頷くと、一気に身体を持ち上げた。

 暗い四角をくぐった先は一階とそっくりの空間だった。違う点は、ベッドと衣類ケースがいくつか置かれ、人の生活に十分な設備が整っているところだ。

 乱れたベッドカバー、脱ぎ捨てられた衣服、インスタント食品の空き箱、ハンガーに吊るされたタオル、ごみを集めたビニール袋――そして、横倒しになって水がこぼれているペットボトル。床には小さな水溜まりができていた。また、ペットボトルの近くには包装の破けたあんパンがあった。齧りかけで袋の中に半分ほど残されている。

 衣装ケースの前に落ちている衣服に既視感を覚えていたら、はっと気づく。貴司が今日着ていた服だ。急いで駆け寄って服を引っかき回す。

 心臓。貴司の心臓はどこだ?

 さっきの様子だと、貴司は自分が消滅していくのに突然気づいたようだった。心臓を何者かに刺されたのではない。身体の蒸発が始まったことに貴司は驚いていた。

 倫明の場合と同じで、衣服を残して身体だけがそっくり消える怪奇現象。

 いったい、僕たちに何が起こっているのだろう。


「どこにいるんだ、貴司」

 僕の呼びかけは自然と呟きじみたものになってしまう。ここに貴司はいないと本能的に感じていた。

 すると足元から仄香の声が聞こえてくる。「貴司くんは?」

「……消えちゃったよ」

「本当に? そこには誰もいないの?」

 そこでネイの声が割り込んできた。

「窓と換気口を調べてみてください」

 貴司の上げたブラインドの向こうには大きな窓があって、ガラスの手前まで張り出した太い木の枝が威圧感を与える。クレセント錠はしっかりと下りていた。

 換気口ってどこだろう、と周囲を見回していると、窓と反対側の壁にだらりと垂れた鎖を見つけた。先端に絡みついた黒い繊維状のもの。上に視線をずらしていくと、鎖は長方形の壁の穴に繋がっていた。もともとは換気扇が嵌まっていたようだが、今はプラスチックの枠が残っているだけで、頑張れば大人が一人通れるくらいの穴になっている。

「……あっ」

 僕は救いようのない大馬鹿だった。どうして何より先に脱出経路を確認しなかったのか。貴司をさらった犯人が今も近くをひた走ってるかもしれないのに。

 鎖を両手でつかんで体重をかける。しっかりと固定されている。それも当然だ。この鎖は昨夜僕たちを襲った重量級の罠と繋がっているのだから。

 あの謎の男が罠を落下させた方法はこうだ。

 鎖の一方を罠にくくりつけ、もう一方を換気口と出入り口の穴に通し、輪にしたロープで鎖と金庫のレバーを繋ぐ。僕たちがやってきたらロープ部分に火をつけて焼き切れるのを待てばいい。レバーが焦げていたのはこのためだ。

 穴の向こうは倉庫の天井付近だった。鎖は天井の滑車を経由して床まで垂れ下がっている。眼下に人の姿はない。犯人はとっくに脱出したらしい。

 一階まで飛び降りたほうが早いが、潰れた肉体の再生に時間を食われる気がしたので、代わりに部屋に戻って穴から顔を出した。

「貴司を連れ去った犯人が逃げた。早く追いかけないと」

「わかった」

 と、すかさず部屋を出ていったのは仄香。ネイは動かずに僕を見上げると落ち着き払った物腰で言った。

「箪笥に何か入っていませんでしたか?」

 ショックで本来の目的を見失うところだった。貴司の服を集めてベッドの上に置き、衣装ケースの中身を床にぶちまけた。詰め込まれていたのはどうでもいい物品ばかり。古いボールペンや蛍光マーカー、消しゴム、化粧品、リップクリーム、メモ帳。

 ほとんど真っ白なメモ帳をぱらぱらめくっていたら、意味ありげな単語を見つけた。

『雀部章』

 そのあとに走り書きされているのは電話番号だろうか。

 メモ帳から顔を上げたとき、ベッドの脇の壁に、細長いタオルを縦にぴったりと貼りつけた一角を見つけた。タオルは上からガムテープで何重にも固定してある。

 何かを隠している?

 気になったのでガムテープを剥がしてみる。最近貼られたものなのか簡単に剥がれ、下から鏡面が現れた。作りつけの姿見。頭に疑問符を浮かべて首をかしげた僕が映っている。住人の狂った論理のようなものが窺えて気味が悪かった。


 他にめぼしいものも見当たらなかったので、メモ帳と貴司の服を持って一階に下りた。

 メモ帳の記述を見せるとネイは言った。

「サナコと会っていた業者の一人でしょう。一度、名前を聞いたことがあります」

「何の業者なのかを教えてほしいんだけど」

「わたしにはわかりません」

 ネイがお決まりの台詞で質問をかわしたとき、仄香が戻ってきた。

「誰もいなかったよ」

「ごめん。もっと早く確認しておけばよかった。犯人は倉庫側の鎖を伝って一階に下りたんだ。二人とも鎖の音を聞いてない?」

 仄香もネイも首を横に振った。

 この気温でペットボトルからこぼれた水がまだ乾いていないのは、ペットボトルが倒れてからそう時間が経っていないことを示している。犯人は貴司を連れ去って二階から脱出したのだ。

 二階に残された品々から、犯人の正体も判明する。

 ペットボトルに残された水、齧りかけのあんパン――〈沼の人〉は飲み食いをする必要がない。この部屋にいたのは昨夜僕たちを襲った大人の男で、しかも人間だ。鎖にしがみついてゆっくり降下しなければ怪我をする。ダンボールか何かをクッション代わりに飛び降りたとしても大きな音が聞こえたはずだ。

 何の音もしなかったってのは変だな、と考えたところで問題点に気づいた。

 部屋を出ると罠に繋がった鎖を調べる。鎖は複数の固定具でがっちりと結わえつけられていたが、滑車を通ったあとはそのまま二階の部屋に続いている。

 罠の側は固定されているけれど、あちら側は固定されていない。

 と、すると――

 鎖を引っ張った。軽い手ごたえとともに鎖はずるりと下がり、さらにたぐり寄せると滑車から離れて落下してきた。鎖はうねりながら滝のようにコンクリートの床を叩いた。

「鎖は使えない……」

 これでは体重をかけた瞬間に地上まで真っ逆さまだ。

 周囲を見回しても当然ながらマットレスやクッションなどは置かれていない。金属部品の詰まった段ボール、塗料の缶やドラム式の延長コード。身体を打ちつけたらひどい傷を負いそうなものばかりだ。壁の周囲はとっかかりのないのっぺりしたコンクリートなので、飛び降りるしか脱出の手段はないはずなのに。

「朔」

 振り向くと、仄香は虚ろな表情で立っていた。

「犯人、本当に二階にいたの?」

 息が詰まって返事ができなかった。

 考えれば考えるほど確信は強まっていく。あの部屋は絶対に密室だった。犯人が逃げる余地がないとすれば、犯人はいないと考えるのが正しい。つまり――

 貴司は消滅した。

 僕たちの知らない法則の犠牲となって、ただ存在が掻き消えた。

 今朝の衝撃からまだ立ち直っていないのに、現実は容赦なく第二波を叩きこんできた。倫明に続いて貴司も消えた。僕たちは一人ずつ消えていく。まるで初めからそう決まっているかのように淡々と――

 目を閉じようとした。世界と切り離された暗闇に隠れようとした。

 その前に、力強い声に引き戻された。

「朔、サナコを探そう。倫明くんと貴司くんのためにも」

 仄香が何を言いたいのかわからなかった。

「……サナコを見つけることが、二人を助けることに繋がるの?」

「密室から犯人が脱出する方法はなかったんだよね。だったら、犯人はもとから部屋にいなかったって考えるべきだと思う。遠く離れたところから〈沼の人〉を消滅させる手段があって、犯人はそれを使える」

「まさか、壁抜けができる吸血鬼の話を信じるって?」

「そうとは言ってない。ただ、そんな不思議な方法があってもおかしくないよ。だってわたしたちの存在自体、不思議の塊みたいなものでしょ」

 身も蓋もない台詞に僕は苦笑する。

「貴司もそんなことを言ってたね。確かにありえる。狼男を銀の銃弾で殺せるみたいに、〈沼の人〉に有効な〈銀の銃弾〉があるとすれば――」

 仄香が台詞を引き継いだ。

「――それを知っているのは〈沼〉の所有者のサナコ。犯人はその〈銀の銃弾〉をサナコから教わった。だから、サナコに訊けば二人を生き返らせる方法がわかるかもしれない」

〈銀の銃弾〉を見つけることさえできれば、すべての謎は一気に氷解する。修也の事件と同一犯なら、密室内の修也を殺した手段も判明するかもしれない。

 自分の思いつきに浮き立っているようで、興奮気味に仄香は訊いた。

「ネイ、そういうものって本当にあるの?」

「わたしにはわかりません」

「わからないんだったら、あるかもしれないでしょ。早くサナコに会わないと」

 仄香の言葉は底抜けに前向きだった。

 それでも僕は、ネガティブな可能性に目を向けてしまう。

 犯人にサナコが〈銀の銃弾〉を伝授している以上、犯人はサナコ側である可能性が高い。というより、一連の襲撃自体がサナコの仕組んだもので、犯人はサナコの刺客として動いたのではないか?

 サナコが敵側となると状況は一転する。サナコが悪意を持って僕たちを攻撃しているのなら、のこのこと会いに行けば一網打尽にされる恐れがある。

 それでも自分の考えを告げることはできなかった。仄香があまりにも希望に満ちた目をしていたから。代わりにネイに訊いた。

「ネイ、『雀部章』からサナコの居場所を引っ張り出せる?」

「ええ」

 コバルトブルーの瞳が薄闇に輝いた。


 ――まず、電話を掛けさせてください。

 ネイはそう頼んできた。自前のスマートフォンを使うのは危険なので、県道を引き返す途中で見つけた電話ボックスを使うことにする。百円玉を入れて番号をダイヤルしたのは僕だが、受話器を手にしたのはネイだ。

「……もしもし、雀部さんでしょうか。わたしはネイです――はい、今日の正午に――わかりました」

 爪先立ちして受話器をフックに戻すと、ネイは僕を見上げた。

「今日の正午に、倉庫に来るそうです」

 訊きたいことは色々あったが、何を差し置いても突っ込むべきところがある。

「……ネイ、さっき名乗ったよね?」

「はい。雀部はわたしを知っているのではないかと考えました」

「さっき打ち合わせしたじゃないか。ネイが復活したことは伏せて、僕たちが個人的に連絡を取りつけたことにしようって」

 ネイの存在は最後の切り札として隠しておく予定だった。サナコの情報をネイから得ることで交渉を有利に進めるために。ネイの生存がサナコに伝わって、再び金庫送りになることを防ぐためでもあった。

 そんな僕の配慮は、ネイ本人にあっさりと反故にされた。

「雀部とは面識がないから、他人のふりをして会うことができる――って言ってたのは嘘だったの?」

「雀部はサナコからわたしのことを聞いているはずです。たとえ知らなくても、わたしに会えば雀部は納得する。わたしがいなければ、見ず知らずの子供に秘密を明かそうとはしないでしょう」

「君も見ず知らずの子供だと思うけど」

「いいえ。雀部にはわかります」

 ネイはぴしりと言い放った。取りつく島もない。

 電話ボックスの外で待っていた仄香が遠慮がちに提案した。

「ネイの言う通りだったら、わたしたちは隠れてたほうがいいんじゃない? ネイが情報を引き出してくれるんだから」

「ああ、そうだね」

 雀部の前に姿を現すのはリスクが高い。僕と仄香の顔を雀部は知らないだろうが、容姿の特徴くらいは知らされているかもしれない。僕たちが動いていることをサナコが知れば、復讐を恐れて先に手を打ってくる恐れがある。ネイが表に立ってくれるならそれが一番だが――

 ふと気づいたように仄香が訊いた。

「そういえばネイ、どうしてサナコに会いたいの? 心臓に〈チョーカー〉を嵌められたり、何年も金庫に閉じ込められたりしたんでしょ?」

 ネイはじっと仄香を見つめ返したまま何も言わない。

 底の知れない沈黙に、にわかに不安がこみあげてくる。

 二人の主従関係がどんなものだとしても、ネイがサナコに対して良い感情を持っているとは思えない。むしろ深く恨んでいるだろう――殺してしまいたいほど。

 ネイはサナコに復讐するつもりだ。

 自分の正体をわざと雀部に明かすことでサナコに連絡を取らせ、無理やり「元主人」を引っ張り出す。全部自分に任せてほしいと主張し、僕たちを差し置いて一人でサナコと会い――隙をついて復讐を果たす。

 その前に必要な情報を引き出さなくてはならない。抜け駆けされては困る。

「やっぱり、僕も雀部と会うよ」

 案の定、仄香は目を丸くしていた。

「危ないよそんなの。倉庫で会うんだったら、わたしたちだけ二階から見張っておけばいいでしょ。見つかったら窓から逃げればいいんだし」

 それでは不測の事態に備えられない。もし雀部とともにサナコが登場したら、いきなりネイがサナコに襲いかかるかもしれないのだから。本気になったネイを制止できるのは〈沼の人〉である僕と仄香だけだ。そして、仄香にこんな役目を負わせるつもりはさらさらなかった。

「仄香は隠れといて。いざとなったらすぐ警察に連絡できるように」

「……わかった」

 僕たちは来た道を引き返す。腕時計を見ると、会見まで二時間を切っていた。それまでに「奥の手」を用意しておかなくてはならない。

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