消滅する少年

 ――行こう、朔。


 黒いワンピースを着た仄香が僕の手をとって歩き出す。一様に黒い服を着た大人たちをかきわけて進む。浴びせられる不躾な視線がぴりぴりと痛かった。

 ――式の途中なのに、止めたほうがいいんじゃないの? お母さんに何が起こったかよくわかってないんだろうな、まだ小学生だし。それにしても五階のベランダから……苦しかったでしょうね。どうかな、一瞬だったんじゃないかな。

 大人たちがはるか頭上で囁き交わす言葉も、僕の胸を詰まらせた。

 苦しい。仄香も苦しいのかな。

 僕を引っ張る手は死人のように冷たくて、力強かった。

 だだっ広いホールを通って、僕たちはとうとう葬儀場の外に出てしまう。


 ――駄目だよ、戻らなくちゃ。

 ――何で?


 母親の葬式を途中で抜け出してしまうのは悪いことだ、という確信があったけれど、仄香の毅然とした態度を見ていると基準が揺らいだ。やっぱり仄香が正しいのかもしれない。彼女はいつだって正しかったから。

 葬儀場の建物を出ると湿っぽい雨の匂いがした。

 二人で知らない街を歩く。仄香と歩調がぴったりと重なったので、僕はわざとアスファルトを強く踏みしめて大きな足音を鳴らした。すると仄香も合わせて地面を叩く。水溜まりを踏んでも気にせず、リズムに合わせてだんだんだんとがに股で歩いた。

 知らない公園のブランコに並んで座る。雨上がりで板は濡れていたけれど仄香は気にしなかった。


 ――どうして人は死ぬのかな。


 唐突に、仄香が質問してくる。僕は言葉に迷ってたどたどしく答えた。


 ――そう決まってるから、だと思う。早かったり、遅かったりするけど、いつか死ぬようにできてるんだ。

 ――じゃあ、わたしたちはどうして死なないの?

 ――そう決まってるから。

 ――わたしは違うと思う。わたしたちが死なないのにはわけがあるんだよ。きっと、人が死ぬのにも理由があるし、死なないのにも理由がある。それを探さなくちゃ。

 ――だったら、会おうよ。一緒に誘拐されたあの二人に。連絡先はわかってるんだ。みんなで探せば理由が見つかるかもしれない。


 僕の提案に仄香はぱっと顔を明るくして、ブランコから立ち上がった。


 ――一緒に探そう、朔。


 仄香は僕に手を差しのべた。


 気ままな「夢もどき」の世界に浸かってずいぶん経ったころ、控えめなノックの音とともに仄香の声がした。

「朔、朝だよ」

 腕時計を見ると午前六時。〈吸血鬼もどき〉――もとい〈沼の人〉が出歩くにはちょうどいい時間帯だ。小学生がうろついていてもラジオ体操かなと思われるだけで済むし、闇に乗じて襲撃される心配もない。

 リビングに向かうとネイと貴司がすでに集まっていた。ネイは昨夜と同じポーズでソファに座っている。貴司は毎朝の日課だというストレッチに励んでいた。おはようと挨拶して、ぐいぐいとアキレス腱を伸ばす貴司に訊いた。

「倫明は?」

「まだ部屋にいる。ノックしても返事がなかったから、耳栓でもしてるんだろう」

「それは困ったな。鍵かけてるだろうし」

 倫明はドアの閂を内側から締めているはずだ。無防備な状態でいるときにネイに襲われることを警戒していたから。瞑想している上に耳栓までされては起こしようがない。

「ま、もう一度行ってみるか」


 二階に上がると、倫明の部屋のドアを貴司が強く叩く。

「倫明、出てこい! 起きてるのはわかってるんだぞ!」

 やかましい音にも部屋の主は沈黙している。ふと僕は思い立ってドアレバーを押し下げながら引いてみた。かっ、と閂の抵抗する手ごたえがある。

 貴司は手を止めて僕のほうを向いた。

「ここ、ぶち破っていいか?」

 なぜ僕に許可を求めるのか。

「……まあ、いいんじゃないかな」

 倉庫に再突入する人員は多いほうがいい。昨晩、敵から見事逃げ切った倫明はとりわけ貴重な人材だ。あとで怒られるかもしれないけれど、ここは勘弁してもらおう。

 貴司がドアレバーを引っ張り始めたので手を貸す。仄香も加わって『大きなカブ』みたいに三人がかりで力をこめると、べりっ、と粘着質なものが剥がれる音がしていきなりドアが大開きになった。

 カーテン越しに朝日の差しこむ部屋には、誰もいなかった。

「倫明?」

 掛布団がくしゃくしゃに丸まったベッド。倒れそうなゲーム機と漫画の山。部屋の中は昨晩と何ひとつ変わらなかった。

 部屋に足を踏み入れると、ベッドの上に短パンとTシャツが放り出されているのが目に入った。倫明が昨日着ていたものだ。しかも白っぽく汚れている。

 よく観察すると、白く見えていたものは細かい砂だとわかった。服の中から外まで、まんべんなく砂が付着していて、ベッドの上にも散らばっていた。

「倫明くんは何がしたかったの?」

 仄香の言葉にはっとして部屋を見回す。

 川を見下ろせる大きな窓にはクレセント錠が下りている。物置の引き戸を開けると、布団やダンボール箱がでたらめに詰め込まれていた。下手くそな収納の仕方をしているので、人の入るスペースは上に十分あったけれど、倫明が隠れていたりはしなかった。

 そして入り口の閂。対になったパーツをドアと枠にそれぞれ粘着テープで固定するタイプらしい。先程の突入でドア側は外れているものの、枠に残ったほうはきちんと接着を保っていた。

 ふたつの出口は、ふたつとも塞がれていた。

「……密室だ」


 またもや現れた密室に三人は沈黙した。

 悪夢の世界に迷い込んだ気分だった。密室で殺された修也、そして密室から消え失せた倫明。修也の事件が「密室殺人事件」なら、倫明のケースは何と表せばいいのだろう。殺されてもないし人間でもないから、「密室人外消滅事件」とでも呼ぶか。いや、あまりに語呂が悪すぎる――

「陽の光を浴びると灰になる……」

 貴司が突然呟いたので、現実から遠ざかっていた僕の頭ではうまく呑み込めなかった。

「……どういうこと?」

「一般的に言われる吸血鬼の弱点だ。日光に弱くて、陽の光を浴びたら灰になる。太陽が昇ってきて朝日を浴びたから倫明は灰になったんじゃないか?」

 そんな馬鹿な。

 この身体になってから六年間、ただの一度も太陽に身を焼かれて苦しんだ経験はない。倫明だって同じはずだ。太陽が嫌いなのと太陽が致命的なのは、根本的に違う。

 僕が黙って首を振ると、貴司は苦笑した。

「確かに馬鹿らしいが、こう考えることもできるだろ。俺たちは〈沼の人〉の性質を完全には理解してない。何らかの条件が重なると灰になるとか、そういう未知の特性があってもおかしくないんだ」

 そう主張されると何も言えなくなる。〈沼の人〉の存在自体が科学の外にあるのだから、道理に合わない現象が起こってもそういうものだと納得するしかない。原始人にスマートフォンの原理は理解できないのだから――何という素晴らしい逃げ道だろう。

「じゃあ雨乞いでもしようか。倫明が戻ってくるかもしれないし」

「何だそりゃ」と首をひねる貴司。

 そのとき、開け放たれたドアの向こうにネイが現れた。貴司は鋭い声を上げる。

「ネイ。おまえ、俺たちにまだ隠してることがあるんじゃないか?」

「わたしが知っているのはここまでです。サナコはすべてを知っています」

「ああ、わかったよ。サナコを捜せば全部わかるんだな?」

「ええ」

 仄香は微笑みを浮かべると胸の前で両手を合わせ、でも、と明るい声を上げた。

「倫明くんの悪ふざけかもしれないよね。だってここ、倫明くんの家でしょ?」

「まあ、そうだね」

「確かにな」

 僕と貴司がぎこちなく首肯して、この件は解決したような雰囲気になった。

 ぱちん、と貴司は手のひらを拳で打つ。

「ネタばらしにやってきたら、今度こそぶん殴ってやる」


 雀がにぎやかに鳴いている。昨日のように禍々しい気配は早朝の森には皆無だった。

 県道を歩いているとフェンスにいまだ引っかかっているデニムシャツが見えてきた。一晩野ざらしにされて心なしか薄汚れているようだ。

「あれ、また着るつもりある?」

 仄香はちょっと首をかしげて、かぶりを振った。

「いらない」

「じゃあ、しばらくそのままにしとこうか。目印としてちょうどいいし」

 フェンスをよじ登って侵入し倉庫へ向かう。昨日と同じ轍を踏むわけにはいかないので慎重に周囲を警戒していたけれど、人の気配はなかった。

 倉庫の入り口前に着いたところで、貴司は腕組みをしてネイに訊いた。

「で、サナコを見つけるにはここで何をすればいいんだ?」

「サナコはずいぶん前にこの倉庫を放棄しているようです。〈沼〉がなくなっているのがその証拠で、彼女は〈沼〉をどこかに移動させた」

「移動? そんなことができるのか」

「おそらく〈要石〉を砕いて仮のサークルをつくったんでしょう。〈要石〉の一部を〈沼〉に接近させることでトラックの荷台などに誘導してから、〈沼〉の四方に〈要石〉をそれぞれ配置して自由を奪った」

「〈要石〉?」

「あの岩のことです」

ネイはストーンサークルを指し示す。

「〈沼〉と反発する性質を持っています」

 ネイの埋まっていたところの真上の岩が一部砕かれていたこと、そして〈要石〉に触れたとき皮膚が焦げるほどの熱を感じたことを思い出す。僕たちは〈沼〉の産物だから〈要石〉にも弱いのかもしれない。

「わたしの埋められているあいだに状況が変化していなければ、この倉庫の中にサナコとの連絡手段が残されている可能性があります」

「連絡手段っていうと、電話番号とか? おまえは知らないのか」

「わたしには教えられていません。サナコの番号を知っているのはごく限られた者たちだけです」

「サナコの居場所もそいつらに訊けばわかるんじゃないか?」

「わたしは他人の前に姿を現すことを禁じられていたので、彼らの名前や素性を知りません。サナコが会っていた仲介業者のうち数人の顔は見ましたが」

「仲介業者?」

「行きましょう。人が来るといけません」

 貴司の質問を無視すると、ネイは先頭に立って倉庫へと歩き出した。


 ドアは昨日と変わらずあっけなく開いた。ドラム缶やダンボール箱を踏み越えてまっすぐに空間を横切り、磨りガラスの嵌まったあのドアの前へ。重々しく横たわる罠はよく見ると粗末なものだった。たくさんの鉄パイプを金網の籠に通し、針金で不器用に固定しただけ。三人がかりで横に押すと、ぎぎぎと生理的に嫌な音を立ててドアの前のスペースが空いた。

 ネイがドアノブを引くと、簡単に開いた。

「誰もいないな」

 がらんとした六畳ほどの空間。倉庫側のスペースと比べると天井は低く、奥行きも短い。簡易テーブルとスツールがふたつ中央にあって、エアコンも設置されていたので、倉庫よりは快適に過ごせそうだ。何よりドアと反対側の壁には大きな窓があった。すぐ間近に迫った森が見える。

 ネイは奥の壁に設置されていた大型金庫を開け、背伸びしたりしゃがんだりして調べてから、こちらを振り向いて言った。

「空っぽでした。どうやらサナコは完全に倉庫を捨てたようです」

 ネイの後ろから覗き込むと、金庫の中に物はなく、底に数枚の紙切れが落ちているだけだった。金庫のレバーに黒い焦げがあるのは空き巣の仕業だろうか。

「ってことは、手掛かりゼロ?」

「まだ心当たりがあります。この部屋はサナコの仕事場ですが、上には住居として使っていた部屋があります。そっちも調べてみましょう」

「ここ、二階あるんだ」

「階段は向こうにあります」

 ロッカーのある壁をよく見ると、巨大なホッチキスの針みたいな梯子が中くらいの高さから天井まで続いている。

「あなたたちに協力してほしいのは、このためです。誰か上がって調べてください」

 僕はネイの身長と梯子の下端の高さを比べてみる。なるほど、ネイが手を思い切り伸ばしたらぎりぎり手が届くが、彼女の腕力では身体を持ち上げられない。

「じゃ、俺かな」

四人の中で一番背が高い貴司が手を挙げた。ジャンプして下から三番目の梯子をつかむと、そのまま壁を蹴って足を梯子にかけ、すいすいと上がっていく。

 梯子の先には黒い四角があった。白い天井の一部が黒く変色している、のではなくて、二階への入り口が蓋のような何かで塞がっているらしい。

「何だこれ、開かないぞ」

「状況が変わっていなければ、それはただの跳ね上げ扉です。押せば開くはずですが」

「いや、鍵穴がついてる」

 ネイは首をかしげた。

「わたしがいなくなったあとに改造したのでしょう。扉を壊せますか?」

「なんか道具あるか?」

 僕は落ちていたモンキーレンチを放り投げた。受け取ったレンチで貴司は鍵穴付近を叩く。ひと叩きするたびに蓋の隙間は増えていき、最後に鋭い音がして蓋が跳ね上がった。

「よーし」

 貴司の姿は天井の穴に消えていく。

「暗いな。……あ、ブラインドか」

「箪笥の引き出しを調べてください」とネイは天井に向かって声をかける。

「箪笥っていうか衣類ケースだな。えーと……」

 引き出しをスライドさせる音がして、あっ、と何かを発見したような声が上がったと思うと、たちまちそれは悲鳴に変わった。

「うわあっ、うわああああっ!」

 苦悶というより驚愕に近い叫び。凄まじい音量が下の部屋にも反響する。

「た、貴司。どうした?」

「あああああっ! 消える! くそっ、やりやがったなこの――」

 声は風船がしぼむように小さくなっていき、途切れた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る