第三の証言

 不安を紛らわせるように、倫明は執拗にナイフを研ぎ続けている。

「ずっと願ってたんだ。どうか俺たちが吸血鬼であってくれって。俺たちの正体が吸血鬼だとしたら、異形に変わってしまったとしても俺たちは俺たちでいられる。俺は唯一無二の俺だって信じられる。……そう信じるしかなかった。だって俺が俺じゃなかったらどうしようもねえんだから」

 僕は僕じゃない。

どこかに本物の僕がいる――

 足元からじわじわと這い上がってくるこの感情は何だろう。恐怖とも少し違う。自分が何者でもないという衝撃、僕が僕を信じられなくなる疑心暗鬼、そしてすべてを包み込む圧倒的な虚無感。

 悔しいことに倫明の説には説得力がある。これまで散々推測してきてもなお、僕たちが人間に戻るビジョンは欠片も浮かんでこなかった。僕たちの身体は非人間的であること以上に、非生物的だ。どこを傷つけても瞬時に再生し、呼吸も睡眠も食事もいらない。自然界の理でもあるエネルギー循環の輪から疎外されている。まるで岩や川や沼のように。

 僕たちが生き物であるはずがない。

 沼の化学変化によって生じた、単なる複製だ。

「ネイはこのことを知っていながら、もとに戻れると請け合ってた?」

「サナコに協力してたのに事情を知らないわけがない。あいつには裏がある、絶対」

 一本仕上がったらしく、倫明はナイフを電灯の光にかざして片目で見つめる。銀色の刃が濡れたようにぬらりと光る。

「俺、あの倉庫で見たんだよ、子供」

「子供?」

「暗かったし顔も隠してたけど懐中電灯の光で一瞬見えた。女子の手だよ、あれは。ブロンド女のオリジナルかもしれない」

「スワンプマンが生じたのにオリジナルは生きている、ってことになるけど」

「雷はオリジナルの上には落ちなかったんだ」

〈沼〉の仕組みは知らないのでひとまず納得するしかない。倉庫で出くわした小柄な影。あれはネイのコピー元の人間なのか。

 暗い予感を振り払うように、投げ出してあった本題を再び提示する。

「僕たちが吸血鬼じゃないとなると、壁抜けできる吸血鬼の存在自体が疑われるよ。修也を殺せたやつがいなくなる」

 倫明は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「それでも、誰かが殺したんだよ。俺たちに動機はないし修也は自殺しない。俺は、倉庫にいた男が怪しいと思う。俺たちの敵イコール修也の敵だ」

「あいつが〈沼の人〉だったらこちらの勝ち目は薄いな。ほとんど一人で僕たちを壊滅させたんだから」

「いや、あいつは人間だ。俺たちにも勝算はある」

「どうしてわかるの?」

「あいつに切りつけたナイフが血で汚れたままだったんだ」

 消滅しない血――それは人間であることの証明だ。人と人ではないものが手を組んで何をするつもりだったのだろう。


 倫明のもとを訪ねた当初の目的を思い出し、折り畳んだチラシを差し出した。

「修也の事件に関する情報をまとめるつもりなんだ。ここに書いてないことで、何か思い当たることがあったら教えてほしい」

 複雑にうねる前髪をいじりながら倫明は紙面を眺める。すると、ある一点を凝視したまま「嘘だろ?」と呟いた。どうしたのかと訊くと、倫明は貴司の証言の一部を指さした。

 曰く、『鉄格子に外された痕跡はない』。

「犯人は人間じゃあり得ないってことか?」

「最初からそう言ってるじゃないか。警察も疑わないくらい完全な密室なんだから」

「いや、そうじゃなくて……」

 少し言葉を切ると、倫明はぽつりと言った。

「足音がしたんだ。修也を待ってるときに」

「あのときは音楽を聴いてたはずだけど」

「もちろん足音そのものは聞いてない。ただ、誰かが歩き回ってるような振動があった。あのときは気のせいだと思って無視してたけど、もしかしたらあれが犯人だったのかもな。だってあの時間、部室棟は無人だったはずだろ?」

倫明が来たとき、修也は生きていた?

「僕か貴司か、仄香の歩いた振動とも考えられるよ」

「いや、俺の感覚だと気配は背中のほうからした。四階の他の部屋は全部無人だったし、職員室から鍵は一本も持ち出されてなかったんだから、これは間違いない」

 もし倫明の主張が正しいとしたら――と考えて嫌な予感がした。

「倫明、ドアの前でどのくらい待ってた?」

「二曲分だから十分。ずっと音楽聴いてたから正確にわかる。一周目の終わりに貴司が来て、曲が終わったあとにおまえと仄香が来た」

「ちょうど五分の曲を二回聞いたってことか。ちなみになんていう曲?」

「悪逆ヒドゥンの『心臓ディスコーダンス』」

 アーティスト名にも曲名にも馴染みがない。そう言うと、倫明は少し妙な顔になった。

「ふーん、知らないのか」

「バンドにはあまり詳しくないんだ。リピート再生するほどいい曲なの?」

「俺はこういうやかましい曲をよく聴くんだ。頭の中空っぽにするのに便利だからな。別にいい曲ってわけじゃない」

「辛辣だね」

「まあ、嫌いでもないけどさ。学生のアマチュアバンドにしては結構上手いし、歌詞も独特で面白い。俺たちの心臓の足並みはそろわない、ってフレーズがあるんだ。〈沼の人〉の心臓って常に同じペースで動いてるだろ? しかも鼓動の早さはまちまちだから、心臓の足並みがぴったりそろうことは未来永劫ない。偶然だろうけど面白いよな」

 ちょっと興味が湧いてきたので、『心臓ディスコーダンス』なる曲を倫明のプレイヤーで聴かせてもらう。イヤホンを両耳に入れて再生した途端――

 爆発。閃光。絶叫。


 ――俺たちの心臓の足並みは揃わない!


 一打一打で音が爆ぜるような重いドラムに、稲妻を思わせる鋭さのギター。引き絞りすぎて喉が千切れそうなボーカル。それは「いい曲」なんて生温い表現を許さない代物だった。お世辞にも美しい曲ではないけれど、摩天楼が一気に崩壊するような壮絶さが漂っていて、そういう意味では美しいと言えなくもなかった。

 断末魔のようなシャウトが響く。


 ――殺せ! おまえの明日のために!


 ぶつりと演奏が途切れたので、プレイヤーを操作してもう一度初めから再生する。爆音の幕の向こうから呆れたような声が聞こえた。

「何だ、気に入ったのか?」

 まあね、となおざりに応じながらボーカルに耳を澄ませる。高音域で声が割れているのでわかりにくいが、聞き覚えのある声だ。いったいどこで聞いたのだろう。

 プレイヤーを倫明に返して、ひとつ気になっていたことを訊いた。

「結局、ディスコもダンスも登場しなかったけど、どういうこと?」

「知らねえよ。踊りながら歌ってるんだろ――そういえば、今の状況にぴったりのフレーズがあったな」

 殺せ、この旋律を乱す者を――倫明は鋭く研いだナイフを握りしめて呟いた。

「あいつは俺たちを滅茶苦茶にしようとしてる。おまえたちは気づいてないみたいだけど、俺にはわかる。もし何かあれば、俺がこの手で息の根を止めてやる」

「ネイを封印するってこと?」

「ああ、でも貴司には言うなよ。絶対に止めろって念を押されてるからさ」

 貴司がわざわざ釘を刺したのは、それだけ倫明の暴走を危惧しているからだろう。こういった場合、幼稚園からの幼馴染だという貴司の直感は信用できる。


 ひとまず倫明の証言をメモして一階に下りた。一人きりになりたかったので一階の和室にこもり、畳の上に広げたチラシの余白にペンを走らせた。


 ・十二時〇分――ホームルーム終了。

 ・十二時〇~五分――仄香、部室到着。鍵を取りに職員室へ。

 ・十二時五~十分――倫明、部室到着。部室前で待機開始。

 ・十二時十~十五分――貴司、部室到着。倫明と会ってから修也を探しに教室へ。

 ・十二時十五~二十分――朔&仄香、部室到着。

 ・十二時十五~二十分――貴司、部室到着。

 ・十二時二十分――死体発見。


 事件当日のタイムテーブルが完成した。時刻に関してはあまり正確ではないが、出来事の順序はこれで間違いない。

 注目すべきは部室前に倫明がいた時間の長さだ。倫明が部室に到着してから死体発見まで、部室には何者も侵入できない。もし万由里が犯人だったとすれば、犯行時刻は十二時ジャストから最大でも十分。そのあいだに脱出を完了しなければならない。果たしてそんな芸当が可能なのか?

 そもそも、修也はいつ部室に来たのだろう。血の飛び散り方からして、そして警察が自殺と判断したことからして、犯行現場は部室のはずだ。普通の速度で歩いて職員室へ行き、鍵を取って部室棟の四階まで上がるだけで三、四分はかかる。実質、犯人に与えられた時間は最大でも七分。しかも十二時五~十分ごろ、万由里は涼しい顔で弁当をつついていた――数分前に人を殺したその手で。

 そんなことはありえないし、考えたくもない。

 さらに倫明の証言を加味すると謎がますます深まる。倫明が部室に着いてからは、全員で突入するまで誰も部室に入っていないし、出た者もいない。つまり、「部室の中で歩き回っていた何者か」は忽然と消えてしまったことになる。

 と、そこまで考えて愕然とした。

 現実的な観点からすれば、足音の主は修也でしかありえない。

 倫明がドアの前で修也を待ちわびていたとき、当の彼は部室の中で息をしていた。ドアの内側から鍵をかけて、窓も締め切った暑い室内を歩き回っていたのだ。汗ばむ手にカッターナイフを携えて――


 もう止めよう。

 精神がすり減るような作業を切り上げてシャワーを浴びることにした。汗で身体がべとつくようなことは原理上ないけれど、今日に限ってはオイルや砂ぼこりが全身に付着していたので、肌を流れる湯が気持ちいい。

 リビングに戻ると、ネイと仄香が並んでソファに座り、テレビを見ていた。

「貴司は?」

「二階の部屋で休んでるって。余ってる部屋があるらしいから」

 四人で過ごす夜を楽しみにしていたけれど、いろいろあって精神的に疲れていた。先程の和室にこもって時間を潰すことにする。畳の上で目をつぶって全身の力を抜くと、意識を失うまではいかなくとも、限りなく眠りに近いものに浸ることができる。

 やがて声が聞こえてきた。意識が連続している僕はそれが夢だと知っている。


 ――おまえは自分が確固たるもので永遠に変わらないと思ってるだろ? その顔とか髪型みたいに、小学生のときにかっちり定義されたままの連続体だと。


 懐かしい声。かつて聞いた修也の声だ。


 ――長い目で見たら変わると思うよ。でも、身体が精神を規定するっていう説はある程度正しいと思う。少なくとも、変化の速度はゆっくりになる。


 夕日に染まった部室で僕はそう反論した。

 話の起点になったのは「テストの点が上がらないのは成長が止まっているせいだ」という僕の軽い冗談だった。そこからどう転んだか、アイデンティティをめぐる真面目な議論に発展したのだった。

 修也は身振りを交えて諭すように語った。


 ――いいや、速度も人間と変わらないはずだ。人間といわず吸血鬼といわず、思考するやつらは小さなきっかけで変わるんだよ。何かを楽しいと思ったり、美しいと思ったり、好きだと思ったり……そういった感覚をインプットされるたびに、思考のベクトルに少しずつ変化がもたらされるわけだ。自分を形作る物差しそのものが影響を受けるせいで、思考体は自分の変化を観測できない。人も変わるし自分も変わる。だからチャンスは一瞬しかやってこない。それを逃したらおしまいだ。自分が自分でいられるのはその瞬間だけなんだからな。


 修也はコーラの空き缶を両手で構えた。


 ――ポイントを入れるのは今の俺だ。投げたあとの俺じゃない。


 バスケットボールよろしく投擲すると、缶は放物線を描きながら部屋を横切ってごみ箱へ――


 ――こぉぉぉぉん。

 いびつな鐘を突いたような金属音が現実のものだと気づいた瞬間、畳から跳ね起きていた。

 暗い部屋に立って音の出所を探る。どうやら窓の外から聞こえてきたようだ。こんなところで瞑想にふけっている場合じゃなかったと後悔する。僕たちを罠にかけ、倫明を執拗に追った敵が存在することは明らかだったのに。

 廊下に飛び出すと、玄関に佇んでいた仄香がこちらを振り向く。

「さっきの聞こえた?」

「……うん」

「倉庫で出くわしたやつらかもしれない。様子を見に行くよ。上の二人を呼んで……」

「いいの、わたしたちだけで行こう」

「え……」

 仄香は僕の右手を握って、足早に玄関へ歩き出した。

 やっぱりおかしい。今日の仄香は積極的すぎて怖いくらいだ。でもその手を振りほどくことはできなくて、なすすべもなく夜闇に足を踏み出す。

 仄香が囁くように訊いてきた。

「音、どっちから聞こえた?」

「和室の窓のほうから……裏手だと思う」

 玄関の脇からこぢんまりとした庭を横切って、家の裏手に出る。ブロック塀の上には金属のフェンスが設置してあり、フェンスと家のあいだには細い通路があるのみ。人影は見当たらない。

 僕はブロック塀とフェンスの隙間に足をかけ、つかみどころのない板状のフェンスに四苦八苦しながらもよじ登った。

 向こう側には幅の広い川があった。十メートルほど離れた対岸にはガードレールを挟んで道路が走っており、街路灯が煌々と光っている。一方、こちら側のフェンスはなめらかに護岸へ繋がっていて、真下を覗きこむと右から左へ流れる黒い水面が見える。

「誰もいない。歩道もないし、護岸に人が張りついたりもしてない」

「川を渡ったんじゃない?」

「割と深いんだ、この川」

 雨の日にはさらに水位が上がって凶悪な濁流と化す。剣崎を彼岸へさらっていったのもこの川だ――怖気のようなものが走り、あるはずのないものが見える。

 護岸にしがみつく、濡れて白く関節の浮かび上がった手。

 油を流したような黒い水面から目を離せなくなる。

 もしかしたら彼は、今もここに――


「おーい、朔、仄香」

 間延びした声に意識を引き戻された。もちろん白い手なんかどこにも見えない。化け物が幽霊を怖がってどうする、と笑い飛ばそうとしたができなかった。

 明日が剣崎の命日だと思い出してしまったから。

 うすら寒い気持ちで地面に飛び降りる。懐中電灯を持った貴司が近づいてきた。

「二人で何やってたんだ? 夜の逢瀬か?」

「不審な音がしたんだよ」

貴司の軽口には応じないことに決める。

「僕たちが出たことにどうして気づいたんだ?」

「あのドアの音は大きいからな。防犯のためだろうが、開け閉めすれば家中に鳴り響くようになってる。で、何か見つけたのか?」

「なんにも。猫一匹いなかった」

「猫ならあっちにいたぞ」

「あ、ほんと?」

 大山鳴動して鼠一匹とはこのことだ。猫が屋根から飛び降りるときにフェンスにぶつかったとか、そんな下らない理由に違いない。脱力感がこみ上げる。

 三人は家の正面を回ってみたが、貴司の見かけた猫はすでにいなくなっていたので、玄関から各々の定位置に戻って朝を待つことにする。

 畳の上に寝転がり目を閉じて、僕はランダムに浮かび上がってくる記憶をさまよう。

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