第二の証言
仄香が戻ってくるのと入れ替わりに、貴司は浴室に立った。
コルクボードの下に嵌まっている小さな鏡を覗きこみながら、仄香はしっとり濡れた髪をタオルでこすっている。不快そうに眉を寄せていた。
「どうかした? 仄香」
「髪にオイルがついちゃって、洗っても取れないの。本当にしつこい」
「そういうときは髪ごと切ったほうが早いよ」
電話横のペンスタンドからハサミを持ってきて差し出す。仄香はそれを受け取らず、髪をひとつに束ねた。
「じゃあ、切ってくれる?」
人の髪を切るのは初体験だった。数マイクロメートルの誤差もなく再生するとわかっていても、きれいな長髪にハサミを入れるのは心が痛んだ。やや躊躇しながら、ハサミを地肌に触れそうなところまで差し入れ、太いひと房を根元からばっさりと切断する。切り取った髪はたちまち白煙に変わる。
「こんな感じでいいかな」
「うん、いい感じ。結構うまいよ」
鏡に映った仄香には薄く煙がかかっていて、ちょっと満足そうに目を細めている。
髪の再生を待たず、続けてハサミを入れていく。じょきり、じょきりと小気味いい音が鳴り、黒髪がするすると流れ落ちて、地面に達する前に消える。と同時に、切った部分からするすると黒髪が生えて肩口に落ちる。まるで枯れることのない滝だ。落差が大きすぎて滝壺のない有名な滝が南米にあったような――思い出した、エンジェル・フォールだ。
もうひとつよみがえってきた記憶があった。遠い昔、修也が語っていたこと。
――エンジェル・フォールって「天使の滝」とも読めるだろ? そんな名前だから過剰な幻想を抱いてるやつが多い。でも実際はエンジェルって探検家の名前がついてるだけなんだ。勝手にロマンチックな解釈をするのはいつだって門外漢なんだよ。
知らないからこそ、美しく解釈しようとする。幻想を壊さないために、あえて知らないでいるという選択も間違ってはいない。それでも僕は、剥き出しの現実を見たかった。
仄香、と呼ぶ。
「修也の事件について、みんなの知ってることをまとめることにしたんだ。それで、仄香の話も聞きたい」
仄香は目を見開いて、鏡の向こうの僕を見た。硬い表情になっている。
「わたしの話……」
「あの日、どうやって修也が殺されたのかを突き止めるには、なるべく多くの情報を集めないといけない。もしかしたら君だけしか気づいてない事実があるかもしれないし、できれば話を聞かせてほしいんだ。別に犯人を突き止めろとか、犯行方法を考えろとか言ってるわけじゃないよ」
「わたし、別に大したことは知らないよ。みんなと同じことしか」
「それでもいいんだ。全員の証言を統合したほうが精度は上がる。……終わったよ」
「ありがとう」
機械油のぬめりが消えて、仄香の髪はもとのつややかさを取り戻していた。
二人はダイニングテーブルで向かい合う。僕はメモ代わりのチラシを差し出した。
「これが貴司から聞いた情報。他に知ってることがあったら、何でも言って」
ところが口を開くそぶりを見せず、仄香は食い入るようにチラシを見つめていた。複雑な思考を繰り広げているようで、視線が部室の見取り図や箇条書きの上をうろうろと泳ぐ。
彼女の態度が不審であることにやっと思い至った。
「仄香、あの……」
「修也くんがどうやって殺されたのか、突き止めたかったんだよね?」
と、いきなり顔を上げたのでどきりとする。おまけに小さくて並びのいい歯を見せてにっと笑ったものだから、僕の混乱は極致に達した。仄香のこれほど無邪気な笑顔を見たのはいつ以来だろう。
「わたし、わかっちゃったかも。犯行の手口」
「本当に?」
「本当に」
仄香はチラシに描かれた部室の見取り図の、非常階段側の窓を指さした。簡単な鉄格子のイラストと、鍵が締まっているというマークを添えてある。
「ここ、鉄格子が嵌まってるでしょ。普通の人はこんな隙間通れないけど、〈沼の人〉なら通れる。自分の心臓を刺してから窓の外に投げればいいんだから」
考えてもみなかった角度からのアプローチに瞠目した。
「それって犯人は僕たちの誰かってこと?」
「ううん、そうは言ってないよ。一応は可能、って話」
窓辺に移されていた椅子のことを思い出した。あの上に立って腕を鉄格子の外に伸ばしたのだとしたら。
しかし、本当に可能なのか。僕は犯人の行動をトレースしてみる。
修也を殺害したあと、犯行に使ったものとは別に持参したナイフを自分の胸に突き立てる。身体はみるみる蒸発して残されたのは心臓のみ。晴れて鉄格子を通過できるサイズになったわけだが、重大な問題がいくつも残されている。
「心臓だけになったとして、犯人はどうやって鉄格子を通って脱出するの?」
「方法はたくさんあると思う。例えば、ナイフに紐をくくりつけて、その反対側におもりを結んでから窓の外に垂らすの。心臓だけになったあとは、おもりが重力に引かれて自動的に脱出できる。どう?」
「それじゃナイフが心臓からすっぽ抜けるよ。それに、たとえナイフが抜けなかったとしても、窓から出た後は心臓ひとつで転がってるしかないじゃないか。校内で臓器が発見されたとは聞かないけど」
「誰かが持ち去ったんだよ」
「共犯者かあ……」
これでは埒が明かないと、苦しい推測をばっさりと両断できる事実をここで開示することにした。
「その方法で鉄格子を通り抜けたとしても、窓の鍵は締められないよ」
「鍵? あれ、このキノコの絵ってまさか」
「クレセント錠のつもりだったんだけど……修也の死体が発見されたとき、部室の窓には鍵がかかってたじゃないか」
「そうだったっけ……じゃあ、無理か。内側から窓の鍵を締める人がいないし」
「まあ、いい線行ってると思うよ。そういうタイプの脱出方法がないと、合鍵の存在を視野に入れないといけないから。修也が合鍵を作ってたとは思えないし」
「合鍵って、そんなこと学校に無断でしていいの?」
「当然、駄目だろうね。修也の性格からしてものぐさするために作ったって線はありだけど、使ってるところを見たことがないのは不自然だ。万由里に渡したとも思えない」
「万由里さん?」
「そう。自分の彼女に鍵を渡すのって定番だけど、万由里が部室の合鍵を喜んで受け取りはしないと思う。煙草臭いから近寄りたくないって言ってたし」
「すると、誰も修也くんを殺せないってことにならない?」
「そうなるね」
部室の鍵を開けてくれた用務員の谷中さんにはアリバイがあった。終業式のあと、備品の購入について外部の業者と打ち合わせしていたのだ。そのあいだマスターキーは谷中さんのウエストポーチに収まっていたので誰も使えない。この時点で、物理的に犯行が可能な唯一の人間はいなくなっていた。
僕はどんな事実が明るみに出てもありのまま受け入れるつもりだった。他殺でないと証明されるのもひとつの結末。その場合、今度は修也が自殺に至った動機を追い求めることになるだろう。
これ以上有用な証言は得られそうにないと判断し、話を切り上げることにした。
「話してくれてありがとう。……あ、そうだ。ネイが話してたけど、もとの身体に戻る方法はサナコが知ってるらしい。サナコを捕まえて問い詰めれば僕たちは人間になれるんだって」
「そうなんだ、あと一歩だね」
仄香はまたにっと笑う。その輝くような笑顔にわずかな翳りを見た気がして、尋ねずにはいられなかった。
「仄香は、本当にもとの身体に戻りたいの?」
「……どういうこと」
「なんていうか、あんまり嬉しそうに見えなかったから」
「……わたし、怖いのかもしれない」
「怖い?」
「みんなと離れ離れになるのが」
膝の上に置いたタオルを握りしめるようにして、仄香はうつむいていた。
「この身体だったからこうして協力してきたし仲良くやってきたけど、人間に戻れたらその理由もなくなる。みんな今までの記憶を捨てて、それぞれの人生に戻っていくんだと思う。でも、わたしは……戻る場所がない」
シングルマザーだった母親が自殺して、一人残された仄香が叔父夫婦に引き取られたのは小五の秋。〈黒の女〉に襲われた一ヶ月後のことで、まだ貴司と倫明とは出会っていなかった。
――お母さんね、わたしがおかしいって言ってたの。
きっと倫明の母親と同じく、娘の変化に戸惑って精神を病んでしまったのだろう。叔父夫婦との生活にも幸せを感じていないようだ。戻る場所がない、と言っているのだから。
「なんで、お母さんを……」
湿っぽい声にはっとして仄香の顔を見ると、泣いていた。ぽろぽろとこぼれる大粒の涙は頬を伝う途中で消滅していった。
「死んじゃ嫌だったのに、わたし……なんで……」
貴司や倫明が現れる前から僕たちは一緒だったんだから、心配しなくていい。
と、気の利いた台詞は口から出てこなくて、僕はただ狼狽していた。仄香の明るい笑顔を見たのは久々だったけれど、泣き顔のほうは初めてだ。母親の亡くなったあとも涙を見せず毅然と振る舞っていたのに。
最悪のタイミングでドアが開いて、風呂上がりの貴司が入ってきた。
「朔、入っていいぞ――って、仄香どうした。朔に振られたのか?」
僕は無神経の権化たるこの男を睨みつける。何も知らないくせに。
「冗談でもそんなこと言うな」
「すまんすまん、そんなに睨むなよ」
貴司はソファに座ってテレビをつける。ありがたいことに仄香の泣いている理由は訊いてこない。
「で、朔。風呂入んないのか?」
「うん――先に倫明呼んでくる」
「あいつは放っとけ」
ぶっきらぼうに突き放す貴司の言葉は聞き入れないことにして、そろそろ気分が落ち着いてきた仄香から逃げるようにリビングを出ると、二階に上がった。倫明と二人きりで話ができるのは手ごろな口実のある今しかない。
倫明の部屋のドアをノックすると、「あ?」と尖った声が返ってきた。
「風呂入らないの?」
「俺はいい」
「わかった。ついでに話したいことがあるんだ。開けてくれる?」
しゃこんと軽い擦過音がしてドアが開けられた。ドアの内側には倫明が自分で設置したと思しきプラスチックの閂がある。
「わざわざ鍵締めてたんだ。誰を警戒して?」
「決まってるだろ」と僕を招き入れてから再び施錠する。「あのブロンド女だよ」
「ネイか。その反応はちょっと過剰じゃないかな」
「どう考えても怪しすぎるだろ。おまえらみたいにほいほい心を許すほうが信じられねえよ。あいつがすべての黒幕だとしてもおかしくないのに」
「黒幕って――ネイが〈黒の女〉とグルだって言いたいのか」
「それどころか、あいつ自身がサナコって考えることもできるんだ。真の吸血鬼なら姿かたちを変えるくらい造作もない」
「それはないよ。少なくとも、僕たちを罠にかけようとしたやつらはネイとは無関係だ。土の中に埋まってるのを知らなかったのか、わざと埋めてあったのか、どちらにしてもネイの仲間とは思えない」
「ネイ、というのが本当の名前だと思うか?」
「嘘をつく理由がない」
「ネイはNEIって表せて、ノット・イナフ・インフォメーションの略語でもある。十分な情報がありません。あいつには後ろ暗いことがあって匿名希望ってわけだ」
僕は黙って肩をすくめる。その反応が不満なのか、倫明はふんと鼻を鳴らしてベッドに寝転がった。
「で、なんだ。訊きたいことがあるんだろ」
「うん。修也の件だけど、正直言ってどう思う? 他殺か、自殺か」
「他殺に決まってんだろうが。ぶん殴るぞ」
「他殺って、誰がどうやって」
「そりゃまあ、正真正銘の吸血鬼だよ。霧になったり壁を通り抜けたりできるんだし」
「僕たちは吸血鬼に血を吸われたんじゃなくて、特殊な沼に落とされたんだってネイは言ってた。ってことは、本物の吸血鬼なんて存在しないってことにならない? サナコは僕たちのことを、〈吸血鬼もどき〉とかいう名前じゃなくて〈沼の人〉って呼んでたらしいから」
「〈沼の人〉ねえ……」
倫明はぼんやりと呟いたが、突然目を瞠ってベッドから飛び起きた。心なしか顔が蒼白になっている。
「あいつは、本当にそう言ったのか?」
「う、うん」
くそっ、と叫んだかと思うと、倫明は手近な壁をいきなり殴りつける。鈍い音とともに壁の揺れる衝撃がフローリングを伝わってきた。机の危なっかしい位置にあったペンスタンドが落下して、シャープペンシルやハサミが床に散乱する。
「どうしたんだよ、倫明」
「〈沼の人〉……直訳すれば『スワンプマン』だ。おまえも聞いたことあるだろ?」
ずっと昔に科学の本で読んだ覚えのある話だ。
ある男がハイキング中、突然の雷に打たれて死ぬ。ところがその瞬間、近くの沼に落ちたもうひとつの雷が沼に化学変化をもたらし、奇跡的に男とそっくりの人間が構成される。スワンプマンと呼ばれるそれは、見た目から記憶まで何もかも男のコピー。何事もなかったかのように沼から出ていくスワンプマンは、そのまま家に帰り、死んだはずの男として生活を営んでいく。
果たしてスワンプマンは男と同一人物なのか、それともまったく別の人間なのか――人格の同一性についての思考実験らしいが、普通に考えて男とコピーは別人だろう。
〈沼の人〉がスワンプマンをもとにした命名だとしたら――
「俺たちは、スワンプマン――」
暗い目をした倫明は机の引き出しの奥に手を突っ込み、薄べったい箱を取り出した。発泡スチロールの板の窪みに収まってずらりとナイフが並んでいる。セラミックの小さな砥石で一本ずつ刃先を研ぎ始めた。
「沼から生まれた偽物だ」
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