第一の証言

 キッチンの掃除を終えてしまうと全員やることがなくなった。ものを食べないので夕食の団欒はなし。トイレも睡眠もなし。ただ身体を清める習慣はそのままだ。

 仄香は浴室へ行き、倫明は自室にこもったので、リビングには僕と貴司とぼんやりと絨毯に正座しているネイが残された。

「あのさ、ネイ」

「何でしょうか」

「君はどうして吸血鬼もど――っていうか、僕たちって血を吸わないんだから吸血鬼はおかしいと思うんだ。他の呼び方はないの?」

「サナコは〈沼の人〉と呼んでいました」

「ああ、〈沼〉に落ちたから。そのまんまだ。で、僕が訊きたいのは、君はどうして〈沼の人〉になったのかってことだよ。君もサナコに落とされた子供の一人なの?」

「ええ」

 詳しく語ろうとはせず、ネイは沈黙した。

 やはりネイは何かを隠していると確信する。それもひどく重要なことを。

「君はサナコに仕えてたんだよね? 君をその身体にしたのがサナコなら、君がサナコのために働くのは変だと思うんだ。宿敵みたいなものだし、君が本気で解放を望めば、人間の女から逃げることくらい簡単じゃないか」

「逃げられませんでした。わたしは〈チョーカー〉を嵌められていましたから」

「首に巻くやつ?」

「いいえ、心臓に装着するものです。無線機の信号を受け取ると起動し、心臓に複数の針を刺し込みます。すると〈沼の人〉は心臓だけになって機動力を失います。サナコは無線機を常に持ち歩いていて、わたしが命令に逆らうとすると直ちにスイッチを入れました」

〈沼の人〉が死に物狂いで襲ってきたら、たとえ非力な子供であっても危険だ。それなら急所を押さえてしまえばいい。サナコの管理システムは合理的だ。

「でも、電波が届かなくなるまで逃げることはできたんじゃないか?」

「いいえ。〈チョーカー〉がある一定の距離から離れると無線機が警報を鳴らすので、すぐに発覚してしまいます」

「その〈チョーカー〉、君が持ってるの?」

「いいえ。心臓にも金庫の中にもありませんでした。サナコが回収したのでしょう」

「回収して、新しい手下の心臓に装着したとか?」

「それはわかりません」

 これ以上質問を重ねたところでますますネイの口が重くなるだけだ。質問タイムは諦め、漫画を読んでいる貴司を手招きした。

「話したいことがあるんだ」


 ダイニングテーブルで向かい合わせに座ると、僕は切り出した。

「修也を殺した犯人、誰だと思ってる?」

 貴司は面食らったように目を瞬かせた。

「いきなりだな」

「壁抜けのできる本物の吸血鬼が存在しないってわかった時点で、あの部屋が密室だったという前提が崩れたんだ。だって修也は……」

「自殺するわけがないからな」

「そう。ってことはあの密室には穴があって、修也を殺した犯人が存在することになるけど、肝心の部室に出入りする方法が思いつかない。貴司はどう思う?」

「俺もわからん」

 それもそうだと思う。現場を目撃していれば部屋が密室だったのは自明だ。

「まあ、もしかしたら抜け道があるかもしれないし、解決のためにみんなの持ってる情報を集めようと思ったんだ」

「それで犯人を突き止めるつもりか?」

「正直言って、犯人はわからなくてもいい。ただ他殺なのか自殺なのか、それをはっきりさせたいんだ」

 もちろん犯人は憎い。けれども捜査権のない僕たちには、犯人を見つけたとしても告発まで持っていく力がない。証拠も情報もほとんど警察が押さえている。それなら、せめて修也の人間性が最後まで変わらなかったことを確かめたい。

「自分勝手なわがままかもしれないけど」

 僕は笑ったが修也は笑わなかった。神妙な面持ちで頷く。

「そういうことなら協力しよう」

 まずは事件当時の部室の状況をなるべく正確に再現することにした。

 鍵屋のチラシを裏返して、ボールペンで中央に縦長の長方形を描く。

 長方形の下辺にはドアがあって、発見時には鍵がかかっていた。上辺と右辺には外側に鉄格子の入った窓。上辺の窓は理科棟に、右辺の窓は非常階段に面している。

「非常階段って自由に入れたっけ?」

「地上からは自由。だが、鍵があるから階段から部室棟には入れない。部室棟の内側からは外に出られるが」

 非常階段は地上から四階までつづら折りに続き、高さ一メートルほどのコンクリートの手摺りがついている。各階で部室棟と接続していて、階段をてっぺんまで上ると屋上へと続くドアがあるが、そこには常に鍵がかかっている。

「犯人が非常階段で逃げ出したって可能性は?」

「俺が思うに、ゼロだな。部室の隣の非常口は内側から施錠されてた。それにわざわざ三階以下の非常口を使う理由はない。堂々と一階玄関から出ていけばいいんだ。部室棟に人は少なかったんだからな」

「部室の窓はどうだった?」

「両方、錠が下りてた」

 自分の記憶が間違っていなかったことを確認すると、僕は声を低めた。

「鉄格子はちゃんと嵌まってた?」


 想像していたのはこういう真相だ。

 犯人は修也を殺害したあと、窓の鉄格子を取り外して外に出る。何らかの特殊な方法で外側からクレセント錠を下ろし、鉄格子を元通りにする作業をこなして、非常階段から地上に下りる。

 熟練の泥棒もかくやというほどの技量が要求される手口だが、四階分落下する恐怖をものともしない者であれば平常心でやり遂げられるかもしれない――例えば、〈沼の人〉のような。


 ところが、貴司は予想に反して首肯した。

「ああ。がっちり嵌まってたぞ。ボルトが外された形跡もないし、ペンキの塗装も切れ目なく繋がってた。それに、もし鉄格子が取り外された痕跡があったなら、俺たちはもっと疑われてしかるべきだろ?」

「……それもそうだね」

 逃走経路がふたつ潰されてしまった。残るはドアのみ。

 ドアを施錠するには室内側からつまみを回す、あるいは廊下側から鍵を差し込んで回すしかない。ドアロッカーやチェーンのように補助的な錠はついていない。

「どうにかして廊下から鍵をかけられないかな。糸とか、針金とかを使って」

「鍵開けの名人だったら、あのボロい錠くらい針金で簡単に回せるだろうが、少なくとも俺には無理だ。糸っていうのは、錠のつまみに糸を回してドアの外から引っ張るとか、そういうやり口か? 少年探偵団っぽいトリックだな」

「針金よりは現実的かなと」

「うーん……十分に実験を重ねてから実行したんだったら、可能かもしれない。だが、どうしてそいつはそんな練習をしてたんだ?」

「そりゃ、密室を作って修也を自殺に見せかけるためだよ」

「おまえは、これが計画的な犯行だと考えてるのか?」

「違うの?」

「いいか、修也が一人であの部屋にいることを知ってたのは誰だ? 俺たちが修也に呼び出されたのは終業式の直後。あいつが部室に入って襲撃を受けるまでにほとんどタイムラグはない。これが意味しているのは、今回の犯人は場当たり的に犯行に及んだってことだ」

「衝動的な犯行……」

「つまり犯人は修也の後をつけてたんだ。部室に入るのを見届けてから乱入し、椅子に座っていた修也の首筋を掻き切って、何食わぬ顔で部室を出ていった。カッターの指紋なんかあとで拭いてやればいいし、修也の手に握らせて血だまりの中に落としてやれば疑われることはまずない」

「鍵の問題があるじゃないか」

「犯人は前もって準備せずとも、密室を作り上げるための道具を持っていた」

 合鍵だ、と貴司は言い放った。

「部室の合鍵?」

「そうだ。基本的に部室の鍵を管理していたのは修也だっただろ。放課後になると職員室から鍵を取ってきて部室を開け、下校時刻になれば鍵を返しに行く。俺たちにはめったに任せてくれなかった。部員じゃないからな」

 ルーズな性格の修也も持ち物の管理には生真面目だった。部室には修也の私物を含め、多くの資料と出土品が乱雑に転がっているが、どれも名前をつけられてリストアップされていた。あの部室は修也にとってもうひとつの自室であり、宝物庫でもあった。なので、修也は合鍵を作って部室を自分の所有物にしたかったのだ、という説には頷けるが。

「修也が合鍵を使ってるところ、見たことがないんだけど」

「合鍵は自分のために作ったものじゃないからだ」

「じゃあ誰のために?」

「万由里だ」

 貴司の発言を理解するのに数秒かかった。

「……万由里が犯人だと思ってるの?」

「そうとしか考えられない。俺たちに合鍵を渡さなかった以上、渡す相手はもっと親しい相手。あいつは友達が多いほうだったが、合鍵を渡す仲となると限られてくる。一番妥当なのは、彼女だろ?」

「そうだけど、でも……」

 万由里に疑いの目を向けたくなる気持ちはよくわかる。万由里はここ最近、修也に相手にされない不満を溜めこんでいた。その怒りが元凶たる僕たちではなくて修也に向かったとしても不思議ではない。

 しかし、僕はそれを否定しなければならない。

「万由里にはアリバイがある。ホームルームが終わって教室で僕と喋ってたんだから」

 初耳だというように貴司は眉を上げた。

 あのとき、万由里は取り巻きと一緒に弁当を広げていた。僕は教室から出ていこうとしたところを引きとめられ、いくらか時間を浪費したことを覚えている。

「犯行がその前に終わっていたと考えたらどうだ? ホームルームが終わってすぐさま教室を飛び出して、犯行を終えてから堂々と教室に戻ってきたんだ。トイレにでも行ってきたというふりをして」

 確かに、ホームルーム以降の万由里の足取りははっきりしていない。僕は夏休みに向けてロッカーの中身を検めていたから、そのあいだは教室の様子をろくに見ていなかった。凶行を行える空白期間があるかどうかを調べる必要がある。チラシに「犯人は万由里?」と書き加えた。

 僕はリビングを見回して、仄香がまだ戻ってきていないことを確認した。

「あのさ、貴司、事件のあとで何か言ってたじゃないか。俺のせいだとか、パイロットになりたいだとか」

「……ああ、そんなこともあったな」

 貴司はちょっと照れ臭そうに笑ってから、罪悪感に駆られたように目を伏せた。

「もとの身体に戻りたいと修也に言ったのは、俺なんだ」

 ああ、だから「俺のせい」なのか。

 事件の直後、修也を殺したのは身辺を嗅ぎまわられることを嫌った〈黒の女〉だと思われていたから。

「俺はパイロットになりたかったんだが、航空大学校には身長制限がある。もし制限のない海外の学校に行ったとしても、この身長じゃまず仕事にならない。コックピットに座ると前が見えないようなちびっこに、乗客の命を任せるやつはいないからな。だから、なんとしても戻らなきゃならなかった。修也に話をしたときは、ああも熱心に調べてくれるとは思わなかったが」


 僕は激しいショックを受けていた。

 将来の夢。人生設計。およそ普通の人生を送れる見込みはないとはなから諦めて、頭の中から締め出してきたもの。それを手に入れようと貴司はあがいていた。僕が未来のイカの姿を夢想しているあいだも、現実の道を一歩ずつ進んでいた。

 どうしてそこまで現実的になれる?

 どうして狂気の世界に落とされてもなお正気を保っていられる?

 答えはわかっていた。貴司は僕と違って、強いから――波のごとく押し寄せる虚しさに耐えられなくなる前に思考を放棄した。


「……本当に修也は、お人好しというか、単純というか」

「馬鹿と言った方が適当だ。ああ、これじゃ単なる悪口か」と貴司は笑う。「お互い、もとに戻れるといいな」

「そうだね」

 ぎこちなく頷いたところで、絨毯にちょこんと正座するネイの存在に気づいた。

 僕と貴司は顔を見合わせる。どうやら向こうも同じ考えに至ったらしい。

「……訊いてみるか?」

「僕は別に大丈夫だけど、貴司は……」

 ネイの返答ひとつで最後の希望が潰えてしまう可能性がある。知らないままにしておいたほうが幸せなことだってあるかもしれない。

 しかし、貴司は力強く頷いた。

「俺も大丈夫だ。訊いてみよう」

 貴司は立ち上がってネイの前に行くと、膝をつき合わせて正座した。

「ネイ。訊きたいことがあるんだが、いいか」

「ええ」

「はっきり言ってくれ。俺たちはもとの身体に戻れるのか?」

 ああ、言ってしまった。どんなときもメトロノームのごとく単調な拍を打っている心臓が、にわかに動きを速めたような錯覚に陥った。もとに戻れると言ってほしい。せめてさっきみたいに「わからない」と突っぱねてほしい。

 ネイは首を右側に二度くらい傾けた。

「その方法はサナコが知っていると思います」

「人間に戻る方法を、か?」

「ええ」

 貴司はしばらく呆然とネイを凝視していたが、僕のほうを振り向いて泣き笑いのような表情を浮かべた。

「……だとさ」

「よかったね。あとはサナコを見つけるだけだ」

 僕たちは肩を叩き合って笑った。でも、貴司の表情にはどこか陰が差しているように見える。ネイの言葉を完全には信じられないのかもしれない。

 ネイの発言の信憑性について尋ねようとしたとき、貴司は僕の顔に目をとめて言った。

「おまえ、人間に戻れるのが嬉しくないのか?」

 それは僕のほうが訊きたかったことなのに。

「嬉しいに決まってるじゃないか」

「ふうん、そうか」

 口ではそう応じたものの、貴司は僕が喜びを覚えていないことに確信があるようだ。居心地の悪さを感じ、内なる自分に対して質問を発したくなる。

 どうして僕は人間に戻りたくないんだ?

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