再構成の後

 覚醒は突然だった。

 夢のようなものを見ていた気もするけれど、もう思い出せなくなっている。再構成された脳はすぐには働いてくれない。脳より先に完成した眼球をぐるりと動かして周囲を見渡す。油を垂らしたように霞んでいた風景がしだいにくっきりとした輪郭を備えるようになる。

 僕はコンクリートの床に寝そべっているようだ。投げ出された両脚がするすると伸びていき、やがて爪先まですべてが元通りになる。もちろん裸で、服は見当たらない。

 身体を起こして立ち上がる。

「おはよう、朔」

 振り返ると貴司が立っていた。右手に持っている杭は、僕の心臓に刺さっていたものだろう。両手に抱えた服を僕に渡す。

「ほら、さっさと着替えろ。逃げるぞ」

 状況が上手く呑み込めないままパンツとTシャツとズボンを身に着け、貴司のあとを追って倉庫から出た。空はまだ暗かったので、意識が途切れてからそれほど時間は経っていないらしい。

 仄香とネイが倉庫のすぐ外に立っていたけれど、倫明はいなかった。

「倫明は?」

「あいつだけうまいこと逃げ出したらしい」

と、黄色いサンダルの片方を掲げてみせる。

「そういや足速かったよな倫明。身長の割には」

「で、僕たちを襲ってきたやつらは?」

「それなんだが……よくわからないんだ。俺が起きたときにはもうあの二人はいなくなってた」

「じゃあ、貴司を起こしたのは……」

「わたし」

仄香が小さく手を挙げた。

「ドラム缶の下敷きになっちゃってなかなか抜け出せなかったし、倉庫の様子もよくわからなかったんだけど……脱出してから貴司くんとネイちゃんの心臓を見つけて杭を抜いたの」

「あの二人がどうなったか覚えてる?」

「ううん。でも、倫明くんを追いかけて倉庫を出ていくのはわかったよ」

 謎の二人組は、僕たちの活動停止ボタンである心臓を一刺ししてから夜闇に消えた。倫明を追うために。ということはつまり、やつらは僕たちを一人たりとも逃がすつもりはないのだ。ドラム缶の陰に隠れた仄香は見落とされていただけで。

「やつらはじきに戻ってくる。倫明の無事はさっき電話で確認した。あと救出しなきゃならんのは俺たち自身だ」

「そうだけど、ネイのことはどうする。ここに放っておいていいのか?」

 ふと横を見ると、ネイはきょとんとして二人のやりとりを眺めていた。仄香が訊く。

「ネイちゃんはこれからどうするつもり?」

「わたしはあなたのお姉ちゃんではありません」

「あ、ごめんね……あなたはここに留まるの? サナコってご主人に会いたいならここで待ってればいいと思うけど」

「ここにサナコはいません」

「……え、あれって違う人?」

「知りませんが、少なくとも味方ではないでしょう。ここに残るつもりはありません」

 答えに詰まって仄香は口ごもった。ネイは続ける。

「あなたたちはサナコに会いたいのですか?」

「……うん」

「わたしはサナコがどこにいるか知っています。どうか協力してください。サナコに会いたいのはわたしも同じですから」

 僕たち三人は妙なしかめ面をお互いに見合わせた。ネイの提案を素直に受け取っていいものか迷っていた。何年も地下に閉じ込められていたネイに〈黒の女〉の動向を知る手段が本当にあるのだろうか。

 とりあえず僕たちはネイを連れて、ここから一番近い倫明の家へ向かうことにした。


 道路と面したゲートは来たときと変わらず封鎖されていて、仄香のデニムシャツも引っかかったまま風ではためいている。

「取れないのかな、あれ……」

 仄香はゲートの上で悪戦苦闘していたが、まもなく諦めて道路側に飛び降りた。

 街灯にぽつりぽつりと照らされた寂しい県道を黙ってひたすら歩き、住宅街の倫明の家にたどり着いたときには九時を回っていた。

 ごく一般的な二階建ての民家。インターホンを鳴らすと玄関から倫明が姿を現した。

 貴司はひょいと片手を上げる。

「よお、俺たちを見捨てた倫明くん」

「うっせえよ、早く上がれ。……って、そっちのやつも連れてきたのか」

 倫明は訝しそうな眼をネイに向けた。

「俺たちに協力してくれるそうだ。ひとまずおまえの家でかくまってくれ」

「うちの家に上げろってか。こいつがあっち側じゃない証拠でもあんのかよ」

 ネイは何も言わずじっと倫明を注視している。

「……ああもう、わかった。どうせうちには誰もいねえしな」

「家の人はどこか出かけてるの?」と僕は訊いた。

「ババアは実家に戻ってる。まあ当分は戻ってこないだろうな。俺が怖いから」

「何で……」

「修也が死んだの、俺がやったんじゃないかって思ってんだ。馬鹿みたいだろ? それを親戚に吹聴して回ってるのも馬鹿だし、そうやって自分の足元崩していってることに気づいてないのも救いようがねえよ」

 それなら君が対処してやればよかったのにと思うけれど、きっと倫明に母親を助けるつもりはない。親が自分を助けてくれないことを痛いほど知っているから。

 玄関を通って靴を脱いだ。僕の家は土足なのでちょっと新鮮な感じだった。

 僕たちはリビングに入る。ダイニングテーブルではインスタント食品の空き箱や缶詰のゴミが饐えた匂いを放っていたので、テレビの前に敷かれた絨毯に車座になった。

「えーと」貴司が代表して話し始める。「ネイ、まずはおまえが何者なのか聞きたい。協力するのは本当に味方なのか確かめてからだ」

「それは必要なことなのですか」

 ネイのコバルトブルーの眼はやや焦点がずれているように見えるが、貴司の顔は見えているらしい。思ったより視力の回復が早い。

 貴司が頷くと、わかりました、とネイは話し始めた。

「わたしはサナコのために働いていました。さらってきた子供をヌマに落としたあと、引き揚げるのが役目です」

「ヌマって何だ? 小さい湖のことか?」

「そうです。ストーンサークルがあったでしょう。あの中心にはかつて〈沼〉がありました。落ちた人間をわたしたちのような不老不死に変える、とても粘性の高い液体です。巨大なゼリーが地中に埋まっているのを想像してみてください。わたしの仕事は、子供が落ちたのを見届けてから〈沼〉に飛び込み、不死化した子供を引きあげることでした」

「ってことは、吸血鬼じゃないんだな? サナコは俺たちの血を吸ったわけじゃないんだし」

「吸血鬼伝説の大半はブラム・ストーカーによる創作です。もとから存在していた『よみがえる死体』のエピソードと、串刺し公ヴラド三世のイメージが混ざり合ったもの。伝説のそもそもの発端は、死んだと思われていた人間が生き返ったことで、これは生理学的に解釈できるありふれた現象です」

 思っていたよりネイは饒舌だった。金庫から出て本調子を取り戻したらしい。

「ですから、わたしたちは世にいう吸血鬼とは大きく異なります。血を吸うわけではありませんし、太陽や十字架やニンニクに弱いわけでもありません」

「じゃあ、吸血鬼とはまるで違うんだな」

「そうでもありません。大半は創作だと言いましたが、一部の人間は実際にわたしたちに会っています。〈沼〉は太古の昔から存在していましたから、吸血鬼の物語の根底にはわたしたちの逸話があってもおかしくありません。わたしたちは真の意味で吸血鬼なのです」

 ちょっと待て、と倫明が口を挟む。

「俺たちが世にいう吸血鬼じゃないってのはわかった。だったらサナコってやつも、コウモリに変身したり壁抜けしたりできねえのか? 修也はあいつに殺されたんじゃないのかよ」

 ネイはわずかに首を傾げて思案すると、淡々と答えた。

「何を言っているのかよくわかりませんが、サナコは人間です」

「に、人間……」

 倫明は絶叫するように口を開けたまま絶句している。代わりに僕は訊いた。

「サナコがノーマルの人間なら、どうして〈沼〉のことを知ってるの?」

「あの土地がサナコのものだからです。もともと彼女の父の会社が倉庫兼車庫として購入した場所だったのですが、遺跡が発掘されて開発コストが高騰したり、業績が傾いたりと不運が重なって、果てには倒産しました。両親が姿をくらましたあと、サナコの手元に残されたのは大した金にもならないあの土地だけでした。彼女が〈沼〉を見つけたのはそのあとです」

「遺跡っていうのはまさか、あのストーンサークル……」

「ええ。岩は〈沼〉を囲むような形で地中に埋まっていました。おそらく大昔に誰かがあれを封じ込めたんでしょう。岩石の構成からしてこの近辺からは産出しないものなので、遠い距離を運んできたのだと考えられます」

 土地の主が新たに岩を埋め込んだわけではなく、もともと埋まっていたのか。岩の滑らかさからして人工的に加工されたものだろうとは思っていたが、現代の技術が使われていないとなるとさらに不気味に思えてくる。

 太古の昔、途方もない時間をかけて岩を削った人々の原動力となったのは、恐怖だったのかもしれない。彼らは〈沼〉の恐ろしさを知った上で封じ込めようとした。

「だけど、サナコは〈沼〉に落ちたら不死になるなんて知らなかったはずだ。どうやってサナコは〈沼〉の性質を知ったの?」

「それはわたしにはわかりません」

「サナコが僕たちを〈沼〉に落とした理由は?」

 ネイはしばらく黙り込んだあと、目を伏せて応えた。

「わたしにはわかりません」

「おい!」

 倫明が唐突に立ち上がって怒鳴った。

「さっきから聞いてりゃ何だよてめえ。わからないわからないって、どうでもいいことはべらべら喋るくせに」

 と、ネイのぼろぼろのワンピースの胸倉をつかんで揺さぶった。

「サナコが人間って何の冗談だ? だったら修也は誰に殺されたんだよ。あの部屋に出入りできんのは本物の吸血鬼しかいないだろ!」

「倫明、落ち着け」

「おまえがサナコの仲間ってなら俺たちの敵だろ! 敵にのこのこついてきて嘘八百並べやがって何のつもりだてめえは!」

 完全に頭に血が昇った倫明を貴司は羽交い絞めにして、ネイから引き離す。ワンピースの状態はますます悪化していて、もはやボロ布だった。

 仄香は騒ぎに巻き込まれないように立ち上がり、僕にそっと耳打ちする。

「洋服がどこにあるかわかる? ネイに新しい服を貸してあげないと」

「ああ、僕がとってくるよ」


 僕は二階にある倫明の自室に上がった。ベッドと勉強机のまわりにごちゃごちゃと物があふれた部屋。ゲーム機と漫画が危ういバランスで積み上がっているあたりは修也と癖が似ている。

 勝手に箪笥をあさり、なるべく新しそうなTシャツとジーンズ地の短パンを出した。それから一階に下り、仄香が廊下にいたので畳んだ服を渡した。ネイは風呂に入っているらしく、控えめな水音が聞こえてくる。

「朔はネイのこと信じてる?」

「うん、信じるしかないと思う。ネイはいろんな事情を知ってたし、全部が嘘だとは思えない。でも、正しいからこそわからないことも増えた。……結局、誰が修也を殺したのか」

「現場が本当に密室だったのなら、修也くんは自殺したってことになるけど」

「自殺なんてありえない」

「そう言うと思った」

 ふっ、と吹き出しそうになる寸前で仄香は口を押さえた。

「ごめん、笑うとこじゃないね。みんなそう答えるからおかしくて」

「ああ……」

 貴司、倫明、僕。誰に訊いても判で押したように「修也は自殺しない」と答えたのだろう。僕たちは滑稽なくらい修也を信用している。不器用で裏表がなく、そのせいで損ばかりしていた友人のことを。

 仄香は顔を背けるように脱衣所に入ると「ここに服置いとくからね」とネイに声をかけてリビングに向かった。僕は少しのあいだ、立ったまま彼女の後ろ姿を見送る。なぜか、時が巻き戻ったような懐かしい気持ちになっていた。


 倫明はリビングのソファで瞑想にふけっていた。

 貴司がダイニングテーブルの上をかいがいしく掃除しているので、僕と仄香も手伝う。ゴミ袋を足で踏みつけて圧縮しながら訊いた。

「貴司、今夜はここに泊まるつもり?」

「ああ。俺の家はここからはちょっと遠いし、明日また倉庫に行くつもりだから」

「仄香は?」

「こんな真夜中に一人じゃ帰れないよ。朝までここにいる」

「僕が送って行こうか?」

「襲う側からしたら、子供が一人から二人に増えただけでしょ」

 それもそうだ。僕たちは変質者にとっての脅威とはなりえない。つくづく年齢不相応な自分の身体に嫌気がさす。

 それにしても、全員がこの家に残るのか、と僕はちょっとわくわくしていた。

〈吸血鬼もどき〉は眠らない。瞑想していて夢うつつになることはあっても意識は失わない。そのため夜はとにかく退屈な時間帯で、本を読んで勉強してゲームするという終わりのないループに飽きると、こっそり家を抜け出して他のメンバーに会いに行くことがあった。それでも四人がそろって夜を明かすのは初めてのことだ。

 テーブルを拭き終えて、皿やコップがシンクに散乱したキッチンにとりかかる。

 倫明の注意がこちらに向いていないことを確認すると、この部屋に入ってからずっと気がかりだったことを小声で口にした。

「テーブルにあった食品のゴミだけどさ、あれ、倫明のものじゃないよね?」

「あれは、あいつの母親のだ」

 貴司は量の少なくなった洗剤をスポンジに垂らしながら、淡々と語った。

「父親が出ていってからまともなものを食ってないらしい。俺は何も食わないって倫明が宣言したもんだから、自分一人のために料理する気にはなれないんだろう」

「だからって、あれじゃ……」

「ああ。片付けをしないのは倫明に対する嫌がらせだろうが、明らかにやりすぎだ。精神的に不安定なのかもしれない」


 祝家がめちゃくちゃになってしまった原因は倫明だ。中学時代、荒れに荒れて自暴自棄になった倫明から暴力を振るわれた父親は、息子に愛想をつかして家を出た。残された母親も、得体の知れない生き物と化した息子を受け入れられなかった。

 壁のコルクボードに飾ってある家族写真を見る。母親の腕に抱かれている幼い倫明、小学校の遠足の写真――それ以降はない。まるで家族の歴史が断ち切られてしまったかのように。

 可哀そうとは思わない。ただ深く共感する。

 彼と同じく、親から存在を抹消された一人として。

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