反撃の夜

 昼の帝王として君臨していた太陽も、午後六時となるとだいぶ傾いて、夜の生き物である僕たちにとって最適な環境が現れる。おかげで、むっつりと黙ったまま延々と県道沿いを歩いてきた四人の雰囲気も緩んできた。

「前から思ってたことがあるんだけどさ」

 一人で先頭を歩く倫明がぽつりと言った。

「太陽が苦手ってのは、俺たちが吸血鬼だという最大の根拠じゃないか?」

「賛同しかねるな。一般人だってUVカットに余念がないし、日なたより日影のほうを好むのは現代人の性みたいなものだろ」

 貴司はそう反論すると、振り返って仄香を見る。

「それにしても、仄香の太陽嫌いは徹底してるな」

 仄香はレース生地の黒い日傘を差し、小さい影の中にすっぽり身を隠している。上半身は長袖のデニムシャツで覆い、紺のプリーツスカートから伸びた脚は黒のロングソックスに包まれて、いかにも暑苦しい格好だ。日光の侵入を全力でブロックしている。

「別に暑くないから大丈夫。もう慣れたの」

「慣れたっていうか、感覚がないんだろ。気をつけろよ。俺たちの身体は使わない感覚器官を退化させるようにできてるらしいからな。まだ触覚は残ってるか?」

「うん。温度感覚だけが薄くなってるみたい」

「味覚はどう?」と僕は訊いた。「最近、物を食べてる?」

「全然。もう何を口に入れても吐き出しちゃう。何の味もしないのに、舌に食べ物が触れる感触だけがあって気持ち悪い」

「僕もそうだよ。今じゃ水も飲めなくなってる。飲んだところで身体に吸収されてる気もしないし……思うんだけど、太陽が苦手なのは汗が蒸発しないからじゃないかな。汗だって肉体の一部なんだから、汗腺から滲みだしたらすぐさま再生するんだ。すると熱が逃げなくて体内にこもる」

「体温が上がったって、温度は感じないんだから平気なはずだよ。単純に、太陽に対して拒否反応があるって考えたほうが矛盾は少ないと思う」

「君、いつから倫明党に鞍替えしたんだ」

「わたしなら最初から党員だけど」

 仄香の悪戯っぽい笑みに、僕の中に残された人間らしい心が妖しくざわめく。これは冗談だと見なしていいのだろうか。

「そうでしょ、倫明くん」

 ところが、その呼びかけに対して前方の倫明は無反応だった。僕はにわかに元気を取り戻す。

「ほら君、党首から見放されてるじゃないか」

「倫明くん」

 仄香はもう一度大きな声で呼びかけた。微笑は引っこみ、冷たい仮面に戻っている。倫明はのろのろと振り返った。

「呼んだか?」

「わたし、倫明くんに何回呼びかけたと思う?」

「三回だろ」

「二回だよ。あとの一回は幻聴?」

 倫明は黙り込んで正面を向いた。咎めるように仄香が言う。

「まだ耳栓を使ってるの? それ以上進行すると聞こえなくなるのに」


 倫明の難聴がひどくなり始めたのは中二になってからだ。修也が万由里と親しくなり始めたころ、修也が〈吸血鬼もどき〉の一派と距離を置くようになるにつれ、倫明は再び殻にこもるようになった。剣崎を殺したという噂を聞きつけて不良が群がってくることも増え、嵐のような轟音に耐えるため、倫明は耳栓を使い始めた。肌色の柔らかいタイプのものを耳の奥にねじ込めば周囲からはそれとわからない。罵声も喧騒もシャットアウトされた静寂は心地いいらしい。

 しかし〈吸血鬼もどき〉の面倒な特性として、「使わない感覚は衰える」というものがある。長く耳を塞いでいれば音が聞こえなくなる。倫明もその例外ではなかった。


「耳栓はしばらく我慢しろ。刺激を与えてやりゃ感覚もだんだん回復する」

 貴司の口調はまるで父親が息子を諭すようだった。

 倫明はぷいとそっぽを向いて、ふてくされた息子の一般的な行動をとる。すなわち路傍の石を蹴っ飛ばした。

 それから腕にナイフを入れる。普通の息子は自分の腕を三枚下ろしにしたりしない。

「外でやるのは駄目だろうが」

「切れ味を確かめてんだよ。これから決戦なんだろ?」

 貴司は何も言い返せないまま引き下がった。

 腕の皮がべろんと垂れ下がって蒸発し、剥き出しになった骨の表面に赤い筋肉と黄色い脂肪がまといつく。その上を刃を研ぐかのように幾度もナイフでなで斬りにしながら、倫明は唇をかたく引き結んでいた。


 しばらくして、スマートフォンを操作していた貴司が前方を指さした。

「あれだ」

 森と道を隔てるように延々と続いていたフェンスが途切れ、金網のゲートが現れる。奥には一車線くらいの舗装された道が伸び、ゆるやかなカーブの果てに消えている。

「鍵かかってるね」

 ゲートに設置された閂は南京錠で封鎖されている。ゲートの高さはフェンスと同じ三メートルほど。貴司は金網に手をかけて軽く引っ張った。

「乗り越えるか。車通りも少ないし大丈夫だろう」


 周囲を警戒しつつ四人はフェンス内に侵入する。アスファルトに降り立った途端、森のひんやりと湿った空気に包まれた。

 貴司と倫明は森の奥へ足を進めていたが、仄香がゲートの上でもたもたしているのに気づいて僕は引き返す。何があったのかと訊くと、

「服が引っかかっちゃった」

 仄香のデニムシャツの胸にささくれ立った針金が絡みついていた。僕はゲートをよじ登って引っかかりを外そうと手伝ったが、生地がゲート同士の隙間に入り込んでいるため、服にダメージを与えずに解決するのは無理そうだ。

「これ、高かったのに……」

「いったん服を脱いだら?」

「そうする」

 仄香は三メートルの空中で四苦八苦しながらシャツを脱いだ。下にはタンクトップのTシャツを着ていたが、服が乱れていたので裾から白い腹が覗き、もうひとつ不可解なものも見えた。

 地面に飛び降りて、ポーチから折り畳み傘を取り出す仄香に訊いた。

「お腹の傷って前からあったの?」

「あ、これね」

 仄香はをTシャツをめくりあげる。腹の上部に三センチほどの切り傷があった。「ダッシュ」みたいに斜めに刻まれた、禍々しい存在感を放つ赤い線。今にも血が溢れてきそうなほど真新しくて生々しい。

「よくわからない。この身体になる前はなかったと思うんだけど。でもなぜか、この傷だけは絶対に治らないの」

「ふうん、不思議だね」

 傷に顔を近づけて観察しようとすると、さっとTシャツの裾が引き下ろされた。そっぽを向いた彼女の顔にはやや血の気が戻っている。

「……あんまりじろじろ見ないで」

「あ、ごめん」

 確かに紳士的とは言えない振る舞いだった。でも、僕たちは高校生らしい欲とは無縁なんだからこれくらい、と心の中で呟く。

 森の奥から貴司の声が響いた。

「二人とも早く来い。ばらけるのは危険だぞ」

 値の張ったらしい上着を仕方なくここに放置して、僕と仄香は先行する二人に合流した。さっきの出来事を説明しながら歩いていると、森の切れ目が見えた。


 ざっと五十メートル四方ほどの開けた空間の隅に、コンクリート製の堅牢そうな建物がある。高さは二階建てくらいで、正面には塗装の剥げた大きなシャッターがふたつ下りていた。

「倉庫かな。ずっと使われてないみたいだ」

「いや、ここには今も誰かが住んでる」

 と、貴司は言い切って建物側面のドアを指さす。ドアの前はアスファルトが途切れていて赤土色をした地面が覗いているが、そこにはくっきりとした足跡があった。ここ数日のうちにつけられたものらしい。

「誰かいるんだ、あの中に」

「それより先に、あのストーンサークルを調べない? 建物の中を調べるのは時間がかかりそうだし」

「確かにな」と貴司は頷く。「それに、いきなりご対面というのは心臓に悪い」

 無言で周囲にプレッシャーを放っている倫明を引きずるようにして、僕たちはストーンサークルに向かった。

 サークルを構成する岩は高さおよそ一メートル、広さ二畳くらいの楕円形。イギリスのストーンヘンジを想像していたのでちょっと拍子抜けした。このサイズでは公園の遊具と言われても信じてしまいそうだ。

 岩はくすんだ藍色で、石英らしき透明な結晶が混ざってざらざらとした質感だった。天然石にしては不自然なほど滑らかなフォルムに手を触れてみる――

 電撃が走った。

 とっさに飛びのいたので、大きめの石ころに足を取られて転倒する。青空に炸裂する七色の花火。右手の焼けるような熱さ。久しぶりの仕事にはしゃぐ痛覚神経。

「どうした朔。熱中症か?」

 のろのろと身体を起こしながらも、鮮やかな衝撃に心が囚われたままだった。

「……い、岩に触らないほうがいいよ。熱いから」

「ああ、日に焼けてるのか。火傷くらいですっ転ぶとは触覚が健康な証拠だな、うん」

 貴司は妙な納得の仕方をしていた。ようやく冷静に戻って訊く。

「ところで、このストーンサークルの意味は何だと思う?」

「さあ。理由が何であれ、ここまでするのは並大抵の労力じゃないな」

 貴司は岩の頂上から麓へと続く傾斜を指でなぞった。土に埋まった部分を爪先でほじくると、角度を大きく変えることなく地下へと連続していることがわかる。

「この岩が球形に近いとすれば、地表に出てるのはほんの一部だ。目測で直径三メートルはあるし、だとすると相当な重量になる」

 そんな代物を十数個ばかり運んできて円形に埋めこむ目的なんて想像もつかない。伊達や酔狂でこなせる工事ではないし、それなりの労力と経済的負担が必要なはずだ。

 ふと、図形としての円の特徴を思い出す。

「中心を調べよう」


 僕と貴司はサークルの中心に足を運んだ。

 夏の日差しにすくすくと成長して広場を覆っている雑草の中に、黒々とした穴がぽっかりと口を開けている。直径は一メートル弱。穴の側面はえぐれていて、入り口は狭くても地下には広々とした空間が存在しているようだ。

「深さはわかるか?」

 淵が崩壊するのを恐れて膝をつき、ペンライトで内部を照らした。

「かなり深い。軽く五メートルはある」

 その空間を言い表すなら「ラグビーボール状」としたほうがわかりやすいのかもしれないが、僕が連想したのは「甕棺」だった――死者を収める土器。

 すると、サークルの円周上にいた仄香が呼んだ。

「ねえ、こっち来て。変なものがある」

 変なものがあるというより、あるはずのものがなかった。

 仄香が見つけたのは側面が欠けた岩。なめらかな曲面を形作る岩肌の一部のみがごっそりと削れ、バスケットボールがひとつ入るくらいの窪みができていた。

「何か意味があると思わない?」

 うーん、と唸りながら腕組みをする貴司。

「たまたま削れてたってほうが自然だと思うが」

 そこで興奮気味に割り込んできたのは倫明だった。

「こいつは目印だ。サークルを構成してるのは全部で十三個ある岩。十三ってのはキリスト教における悪魔の数字だ。裏切り者ユダは十三人目の使徒だろ?」

「そいつはよくある間違いだ。イスカリオテのユダは十二人目だぞ」

「どっちでもいいだろ今は。とにかくキリスト教において特別な数字なら、その産物みたいな吸血鬼にとっても特別なはずだろ。十三個の岩のうちひとつを傷つけてるってことは『悪魔の数字』を完成させないという意志がある。そして、傷物のひとつを除けば岩は十二個。十二……こいつは十二使徒に表されるように聖なる数字だ。意味が百八十度変化して、このサークルは邪悪なものから聖なるものへと浄化されたわけだ」

「で、結局何が言いたいんだ」

「いいから黙って聞いてろ。この陣が吸血鬼を封じ込めてたってことは明らか……あ、いや逆だ。吸血鬼自体が邪悪なものだから、こいつはさらに力を高めるための仕掛けになる。そっちに大きな穴があっただろ。あそこに吸血鬼が棲んでたんだ。ところが、誰かが岩のひとつを砕いて魔方陣の性質を反転させてしまう。怒り狂った吸血鬼はそいつをぶちのめして土に埋めた」

 よくもまあ適当な理屈をすらすらと。僕は呆れるより先に感心した。

「で、その誰かさんが埋められたのはここの真下だ」

「どうしてそう思うの?」

 仄香が続きを促したのは、単に彼の屁理屈を楽しんでいたからだろう。

「このあたりだけ土が盛り上がってるし、土の組成もちょっと違ってるだろ。これはそう遠くない昔に掘り返した跡だ。しかも、埋められたやつはまだ生きている」

「埋められたのに?」

「そいつも吸血鬼なんだ。十三個目の岩の下に埋められてるのは、同族なのに自分を殺そうとした『裏切り者』――ユダなんだからな」

「いや、だからユダは十二人目……」

 貴司の突っ込みに耳を貸すことなく、倫明は膝をついて地面を掘り始めた。長い年月に凝り固まった土壌を、指と腕の骨をシャベルにして乱暴に削っていく。傍観しているのが我慢ならなくなった僕と貴司も加わり、三人で作業を進める。何も出てこないことは火を見るより明らかなのに。何という時間の浪費だろう――そう思っていたのだが。


 十分後、大型金庫のような長方形の扉が露出した。

「ほら見ろ、ここに封印されてるんだよ」

「そんな馬鹿な……」

 貴司は絶句して足元の金庫を見つめていた。

「だが、この中に吸血鬼がいると決まったわけじゃないだろ。開けられないかぎり中に何が入ってるのかはわからないぞ――ほら」

 と、貴司はレバーを引いて扉が開かないことを示した。

 それには取り合わず、倫明は金庫の前に屈みこむ。ダイヤル錠を回転させ、十分に可動性が残されているのを確認しながらぶつぶつと呟いた。

「数字はゼロから九十九か。まあ十三が入ってるのは確実……」

 何らかの憶測に基づいて開錠に挑んでいるようだったが、待てど暮らせど努力が報われる様子はなかった。これでは完全に陽が暮れてしまいそうだ。

「あのさ倫明、そろそろ……」

「待て」

 倫明は片手を上げて制し、どういうわけか扉に片耳をつけた。

「音が聞こえる。中に何かいるんだ」

 半信半疑といった様子で貴司と仄香も頭を寄せた。僕も参加してそれが本当だと知る。

 指一本で弱々しく金庫の内側を叩く音。

 こんこん、一拍開いてこんこんこん、さらに一拍開けてリズミカルにこんこんこんこん。何かを訴えているかのような響きだ。

 数分間まんじりともせずに音を聞く。ある決まった旋律が何度もリピートしているらしい。二回叩いて一拍休み、三回叩いて一拍休み。そんなパターンが六回続いたあとにやや長めのブランクがある。そしてまた繰り返し。

「この全休符は区切りのサインだ。意味のある暗号はこれらに挟まれた部分。こいつはたぶん……」

「ダイヤル錠の開け方?」

「だな。二、三、四、七、一、三。ダイヤルの数字は二桁だからふたつずつ区切るのが妥当だ。二十三、四十七、十三。まずは右回りに」

 倫明はダイヤルを回し始める。右回りに二十三に合わせ、左回りに四十七、右に十三と続けてレバーを引く。ぎしっ、と隙間に詰まっていた土が軋んだ。まさか――

「開いた!」

 三人で力を合わせると扉はゆっくりと持ち上がる。

 ぱっ、と白煙が上がった。

 金庫のまわりに漂う質量をもった霧。それはやがて凝縮し、高さ一メートル強の物体が金庫の底から立ち上がった。


 細い手足。華奢な肩。ほっそりした体つきの裸の少女が。

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