邂逅の記憶
鍵本修也は自殺した、ということになりそうだった。
事実がどうだろうと、警察がそう判断したという事実に変わりはない。吸血鬼による殺人事件など初めから起こらなかった。世を儚んだ少年が一人、学校で命を絶ったという合理的なストーリーを社会は選択すると予想していたし、真犯人を捕まえろと無茶な文句をつけるつもりは初めからなかったから、当然の帰着といえた。
四人は警察に応接間で一人ずつ事情聴取を受けた。捜査員が僕たちの年齢不相応な姿にそれほど疑念を抱いた様子はなかった。「六年前の捜査」に参加していた警官たちがいなかったのは幸いと言える。六年前と姿の変わらない僕たちは怪しさの塊だから。
たとえ「栄養失調で成長が遅れているんだろう」と好意的に解釈してくれたとしても、病院に連れていかれては一発で異常がばれてしまう。なんせ血が蒸発するせいで採血すらできないのだ。僕の血液型はとても珍しいタイプのもので、血液センターからよく献血依頼が届くのだが、無視するしかない。同じ血液型を持つ弟は封書が届くたびに快く応じるので、人の役に立てない自分を省みて情けなくなる。
ようやく解放されたころにはもう陽が傾いていた。部活動は中止になったらしく、校内に生徒は見当たらない。代わりに、捜査員と思われる殺気立った大人たちがひしめいていた。
僕と貴司は押し黙ったまま、自転車を校門まで押して歩く。仄香と倫明は並んで後ろを歩いている。仄香は自転車に乗れない。倫明は乗れるが、幼児用自転車以外はペダルに足が届かず、それはプライドが許さないのか頑なに徒歩を選んでいる。
ようやく貴司が口を開いたのは、校門にたどり着いたときだった。
「ごめんな」
唐突な呟きに頭が反応しきれなかった。
「え、何が……」
「修也が死んだのは、俺のせいでもあるんだ」
無意識のうちに背後の二人に目をやっていた。歩幅の違いで倫明と仄香はずいぶん遠くにいたので、貴司の声は聞こえていないようだ。
それきり言葉を途切れさせたかと思えば、「お人好しだったよなあ」と詠嘆する。
「僕もそう思うよ」
あえて僕は何も聞かなかった。新鮮すぎる感情には手をつけないほうがいい。もっと時間が経って、胸の内でほどよく事実を消化できたころに改めて訊こう。
十字路で三人と別れ、高さを最低にしてあるサドルに跨ると、思い切りペダルを踏んで走り出した。生温い夜風は胸に渦巻く疑問を吹き飛ばしてはくれなかった。
夜、自室のベッドに寝そべってテレビをつけてみたが、まだ事件のことは報道されていなかった。テレビの電源を切ると、部屋の唯一の光源が消えて真っ暗になる。部屋はしんと静まり返り、鈍くなりつつある聴覚では捉えられなかった音も聞こえるようになった。
階下で複数の男女が談笑する声がする。父と母と弟の満、そして来客が十人以上いるらしい。アルコールが入ってボリュームを増した会話が微かに床を振動させる。
今日は年に数回の、大株主たちを招いて開かれる親善会。
主催者であり、ASAホールディングス代表取締役である父も、その妻である母も、優秀な「一人息子」である満も、ゲストを精一杯もてなす日。僕にとっては自室に閉じこもって「存在しない兄」としての役目を果たすのに終始する日だ。僕は夕食どころか食事のいらない身体だし、そもそも一階のパーティー会場で三階の一室に息を潜めている人外の気配を感じとれる者はいない。いるとしたらそいつは人間を辞めているのだから、どちらにせよ問題ない。
暗闇の中でマットレスの柔らかさを背中に感じながら、修也のことを思う。
〈吸血鬼もどき〉の四人が、修也と最初の邂逅を果たしたのは中学一年生のときだ。
中学校に進学した当初、四人はそれほど目立った存在ではなかった。他の生徒よりやや小柄というだけで化け物扱いはされない。
けれども、身体が小さいと柄の悪い連中に目をつけられる確率が跳ね上がる。成長期が大幅に遅れた倫明にとっては切実な問題だった。
倫明のベビーフェイスは女子の庇護心を大いにそそったらしい。クラスの女子からはちやほやされることが多く、それが不良たちの嫉妬と憎悪に火をつけた。
梅雨が明け、新入生たちも学校生活に慣れてきたころ、倫明は放課後に襲撃を受けた。帰り道、後ろから喉根っこをつかまれると道路脇の田圃に放り込まれたのだった。泥まみれになった彼を嘲笑う数人のクラスメイト。倫明は状況が呑み込めず、しばらくぬかるみの中に腰を下ろしていたらしい。
僕がたまたま子供用自転車で通りかかったのは、倫明が制服のズボンに染みこんだ泥を手で拭っているところだった。
ブレーキをかけて止まり、何やってるのと率直な疑問を投げかけた。
――田圃に落とされた。
――誰に?
――知らないやつ。
倫明にとってたいていの人間は「知らないやつ」だった。弁当のおかずを分けてくれる女子も自分を田圃に突き落としたクラスメイトも。彼は自分の身に降りかかったことを本気で理解していないようだったが、僕は泥まみれの倫明を見た瞬間に悟っていた。ああ、彼は苛めに遭っているのだ、と。
僕は口さがない子供だった。思ったことを口にしなければ気が済まない十三歳だった。
――君、苛められたんだよ。
――俺が?
――剣崎あたりにやられたんじゃない? あいつはそういうやつなんだ。弱そうなやつを適当に見繕って、殴ったり蹴ったり突き落したりして満足する手合い。面倒くさいのに目をつけられたね。
――ヨワソウナヤツ。
と、怪奇音が聞こえて僕は凍りつく。ヨワソウナ、ヨワソウナヤツ。それは憤怒にこわばった倫明の唇から洩れている。きっと口の中には地獄があるのだ。口を開いたが最後、彼は「もどき」ではない真の怪物に変わってしまうのだと思った。
倫明は汚れた靴に視線を落とすと、うってかわって口元を緩めた。
地獄から借りてきたような暗い笑顔。
――ほんとに弱いのはどっちだよ。
夏休み一週目の台風の日、倫明はその台詞を身をもって証明してみせた。
土砂崩れを数件引き起こした暴風雨に支配されたあの日、なぜ倫明と剣崎が橋の上で出会うことになったのかは見当もつかない。
偶然にしろ必然にしろ、遭遇した彼らは乱闘を始めた。その末、二人そろって欄干にぶら下がるはめになった。鉄製の手摺りに必死にしがみつく剣崎の足に、倫明がつかまっている形だ。倫明はブランコのようにゆさゆさと前後に揺れ、可哀想な剣崎の恐怖をあおった。数メートル下では濁流が渦巻いていた。
――おい、くそ、止まれ、死にてえのかよ。
剣崎は涙交じりに叫んだが、もちろん倫明に死ぬつもりはなかった。死ねないのだから仕方がない。剣崎にたっぷりと恐怖を与えるつもりだったのだろう。まさか殺すつもりはなかったと信じたいが、倫明との付き合いが長くなるにつれて疑いが首をもたげてきた。あの倫明が中途半端な復讐で溜飲を下げるだろうか。吸血鬼は冷血で冷酷なのだと日頃から彼は主張していたから。
疲れ果てた剣崎が喚くのを止めたころ、誰かの声が降ってきた。
――おい、大丈夫か?
鍵本修也だった。当時はクラスメイトだったが、僕も倫明も話したことはなかった。
レインコートを着た修也は、剣崎の手をつかんで引っ張り上げようとした。しかし、余計に加えられた倫明の重量のせいで持ち上がらない。
第三者が現れて興ざめしたのか、そいつは頼んだ、と言い残して倫明は川に飛び降りようとした。一人だけなら持ち上げられるという計算だった。
だが、間髪を入れず修也の鋭い声が飛んだ。
――馬鹿っ、やめろ!
ここで修也は信じられない行動に出る。
自分の両手にぶら下がった二人を、河原のほうに思い切り放り投げたのだ。
三、四メートルほど空中を斜めに落下する途中、二人は空中分解した。倫明は護岸に積まれた廃材に激突。剣崎はかろうじて葦の群生に引っかかっていて、見たところ無傷のようだった。
それに引きかえ倫明の惨状はひどいものだった。修也は階段で転びそうになりながら倫明のもとへ駆けつけ、華奢な胸に刺さった金属棒を抜こうとした。修也は泣き咽んでいた。汗と涙で顔を濡らし、今助けるからなと何度も繰り返していた。
倫明はその様子をじっと眺めていたが、肺が再生すると同時に声をかけた。
――それ、向き逆なんだけど。
修也は顔を手のひらで拭って目を瞬いた。
――引っ張ると余計に突き刺さるんだよ。いいから手離せ。自分でやるから。
倫明が金属棒やらワイヤーやらを全部取り除いたころ、修也ははっと気がついて護岸の下に目を向けた。そこにはもう一人のクラスメイトが引っかかっているはずだった。
剣崎は消えていた。
そして、二度と姿を現さなかった。
凄まじい濁流に遠洋まで押し流されてしまったらしい。修也の通報で大人数の捜索が行われたが、剣崎は最後まで見つからなかった。ただ、下流の川岸で白いスポーツシューズが片方だけ見つかり、それが唯一の遺品となった。
たまたま剣崎が川に流されるのを見た、と倫明が警察に説明したことで真相は闇に葬られた。修也も同調して口をつぐんでいたが、正義漢としては嘘をつきたくなかったはずだ。しかし、一瞬で完治したとはいえ大怪我をさせたという負い目があったからか、修也は倫明の意向に逆らわなかった。
修也が致命的なミスを犯していたのは事実だ。
まず溺れそうな剣崎を引き揚げて、それから倫明の救出にかかるべきだった。そもそも倫明を助ける必要はなかった。彼は「知らないやつ」の手を借りずとも勝手に助かるのだから。
でも、そんなことを今さら蒸し返しても仕方がない。修也は倫明が〈吸血鬼もどき〉であることを知らなかったのだし、自分のせいで大怪我をした同級生の安否を案じて大泣きしたのだ。責めるのはあまりに酷だった。
結果として、修也は僕たちの秘密を知り、倫明は修也をまるで実の兄のように慕うようになった。
それと同時にある懸念も生まれた。
剣崎と倫明が争っている様子を、家の窓から目撃していた人物がいた。それが世渡万由里だった。事件の真相を悟った彼女は、大胆にも剣崎の葬式で倫明を問い詰めた。
――あいつが死んだのってあんたのせいじゃないの?
そこで強引に修也が割り込んで、彼女の口をふさいだ。
唇で。
わけがわからない。もっと他の方法はなかったのか。葬式の場で面識のない女の子にキスすることでしか倫明は救えなかったのか。疑問は絶えないが、これらの事件から判明したことは、修也は目的に適する手段を選ぶのが下手ということと、世渡万由里はサプライズに弱いということだ。万由里は例の特攻でなぜか修也に惚れ込んでしまった。僕たちとの微妙で面倒な関係もこのとき始まったのだ。
そんなことはともかく、修也は内輪にこもりがちの僕たちにとって唯一の外に開いた窓だった。修也を通して世界を見て、困ったことがあれば助けを求めた。修也のほうは別に僕たちを拒んだりはしなかった。生来の懐の広さで、強靭なのに無力な〈吸血鬼もどき〉の障壁だらけの生活をサポートしてくれた。
そんな修也を僕たちは失ってしまった――永遠に。
喪失感が再び押し寄せてきたとき、階下の雰囲気が変化したことに気づいた。時刻が十時を回って、パーティーがお開きになったようだ。
窓辺へにじり寄って遮光カーテンを細く開けた。外は屋外灯で明るい。
来賓が玄関からステップをぞろぞろと降りて、洋風庭園の石畳の道を玄関のほうへ歩いていく。父と母と満は彼らを見送って全員に頭を下げていた。
満の横顔が目に入る。最近はあまり話していないが、ずいぶん成長したなと思う。背はすらりと伸びてスーツとワインレッドのネクタイも決まっている。これでは僕が兄だと言い張れるはずもない。
しかも、一卵性双生児の兄だと。
満がちらりとこちらを見上げた気がして、反射的にさっと窓辺を離れた。再び暗闇に包まれる。
僕の居場所がここにしかないのと同じように、倫明の居場所もあそこにしかない。ゆくゆくは社命と数千人の社員の生活をあの背中に載せ、ASAホールディングス代表として煌々と照らされた道を歩くことになる。
同じ遺伝子を持ちながら、僕たちはまったく違う運命をたどっている。でも、別に満を恨めしく思ったり入れ替わりたいと思ったりはしない。僕はこの暗闇に満足しているし、何より満の幸福を心から願っているからだ。地位と財産と完璧な幸せを手に入れて、人外の双子の兄のことなんか早いところ忘れ去ってほしい。
そうなったら晴れて僕はこの家を去るのだ。名前を捨て、世界を放浪し、最終的にはどこかの山の中でひっそりと暮らそう。おそらくは無限の寿命が尽きる日まで。
まあ、旅立つのはまだ先のことだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます