始まりの密室
修也の右手の先にはカッターナイフが鈍く光っていて、隣には『古代史研究部』とプラスチックのネームプレートのついた鍵。どちらも固まりかけた血がこびりついて、グロテスクな様相を呈している。
ほんの一時間前まで普通に会話していた友達が、物言わぬ死体に成り果てた。しかも、おそらくは自分の手で首を掻き切って。
しばらく身体が動かなかった。外界の刺激に鈍くなっていたはずの精神が、思いもよらないほど強い力で揺さぶられている。それを意外に思っている自分もいた。
他の机を見ると、修也の右斜め前の机に小山ができていた。銀のキーホルダーや手鏡などの雑多な品々。あれ、これは確か――
「君たち!」
谷中さんは血相を変えて、死体を隠すように両腕を広げた。
「わたしは先生方を呼んでくる。君たちは外で待ってなさい」
警察が来れば当分ここに戻れない。部屋の隅々まで網膜に焼きつける。
すると妙なものに気づいた。暗いほうの窓の下に、壁にぴったり背をつけた椅子が置いてあったのだ。窓掃除でもするつもりだったのかな、と考えたところで、修也が大の掃除嫌いだったことを思い出した。
谷中さんは僕たちを追い出すと、部室を施錠して慌ただしげに階下へ向かった。職員室へ行くのだろう。押し黙った四人が残される。
「……どういうことだよ」
最初に声を発したのは、僕たちの中でもっとも修也に懐いていた倫明だった。哀しむというより憤っている。貴司は冷静に応じた。
「どうもこうも、おまえもあれを見たんだろ。修也の手の近くにカッターがあった。あいつは自分で頸動脈を切り裂いたんだ」
「俺たちに話があるってあいつは言ってたんだ。自殺なんかするわけねえだろ」
「だったら、誰がドアに鍵をかけたんだ?」
倫明は言葉に詰まって沈黙する。
「鍵はテーブルの上にあった。谷中さんの持ってるマスターキーを除けば、この部室に合鍵はない。窓はふたつとも鍵が締まってて、おまけに鉄格子が嵌まってる。誰かが隠れられる場所もなかった。しかも、血は修也のまわりにしか落ちてない――修也は首を切られたあと、机から動いてないんだ。犯人が出ていったあと鍵を締めることもできない」
現場は非の打ちどころのない密室で、修也の自殺を疑う根拠はどこにもない。
それでも倫明は、断固として反論した。
「知ってるか? 吸血鬼は壁を通り抜けられるんだ」
この中に犯人がいる。
倫明はそう主張しているわけだが、残りの三人によって黙殺された。
六年前に僕たちを襲った〈黒の女〉を倫明は吸血鬼だと信じ込んでいて、〈黒の女〉に血を吸われて同化した僕たちも吸血鬼なのだ、と言い張っていた。人の血を吸わなければ早晩灰になって消滅してしまう、とも。
貴司は話にならないというようにそっぽを向いた。
「壁を通り抜けられるだの、蝙蝠に変身できるだのは伝説上の話だ。そもそも俺たちは吸血鬼ですらない」
この台詞が癪に障ったらしく、倫明はポケットから黒いものを取り出した。軽い金属音とともに刃が飛び出す。 地面を蹴って、その小さい身体からは予想がつかないほど高く飛び上がった。ぎらつく光の軌跡が貴司に向かっていく。
切り裂かれた首の左側面から噴き上がった血が、ひび割れたクリーム色の壁やリノリウムの床に降りそそいだ。僕と仄香は慣れた動きで血液のシャワーの直撃を免れた。
床に崩れ落ちた貴司に、倫明は吐き捨てた。
「これでも吸血鬼じゃないっていうのかよ」
「まあ、現実と虚構は」貴司はごぼっと血を吐いた。「いろいろと齟齬があるもんだ」
廊下を惨劇に彩った血液はだんだん薄れていく。よく観察すれば血が干上がって細かい粒子になり、貴司の傷へと吸い込まれるように飛んでいくのが見えるだろう。服の繊維に染みこんだ血も、ナイフにへばりついた白っぽい脂肪もすべて蒸発して、あるべき場所へと戻っていく。
「ったく、谷中さんが戻ってきたらどうすんだ」
そうぼやきつつ、貴司が立ち上がるまでにそう時間はかからなかった。頸動脈を切断されてから十秒程度。
「何度も言っただろ。俺たちは吸血鬼じゃなくて〈吸血鬼もどき〉だ。限りなく似てるが、別物なんだ。血を吸われた記憶があるか? 壁を抜けられるか? 太陽を浴びたら灰になるか? 俺たちは成長せず死なないだけの普通の人間だよ。まあ、普通っていうのは語弊があるが」
僕たちは吸血鬼ではないけれど、〈吸血鬼もどき〉ではある。それは否定できない。
引き裂かれモザイク状になったあの日の記憶。
四人とも自分が襲われた場面をはっきりと覚えてはいなかった。それでも、互いの記憶を照合し、散らばった断片を拾い集めていくと、一人の女――〈黒の女〉の姿が浮かび上がってくる。
僕の記憶の中では、〈黒の女〉はマスクをして、黒いコートに身を包んだ黒髪の女性だった。顔も声も思い出せないが、さらわれる直前にかけられた言葉は今でも僕の耳朶にこびりついている。どんな文脈で発せられた台詞なのかはわからないが。
――口がないと、物が食べられないでしょう。
倫明は牙を収める様子もなく、しつこいほどに自説の展開を続けた。
「確かに、俺たちは本物の吸血鬼とはほど遠いけど、〈黒の女〉が吸血鬼じゃないとは証明できねえだろ。俺たちは不完全だが、あいつは完全な化け物だ。壁抜けくらいやってのけたとしてもおかしくない」
貴司が何かを深く考え込むような顔つきになったとき、僕は修也の言葉を思い出した。
――その苦しみも、あとちょっとの辛抱だ。
突然、頭に閃くものがあった。
「修也、僕たちを助けようとしてたんだ。〈黒の女〉の居場所を調べたりしてたんじゃないか? その途中で〈黒の女〉に見つかって……」
「口封じのために殺された」と倫明が興奮気味に言葉を継いだ。「本物の吸血鬼が壁を通り抜けてやってきて、自殺に装って修也を、六年の歳月を経て戻ってきたんだよあいつは、そうじゃないと説明がつかないだろ、だって」
「仄香はどう思う?」と僕はますます昂っていく倫明をさえぎった。
「わたしもそうだと思う。修也くんは、自殺するような人じゃないから」
「貴司は?」
貴司は倫明の考えとは相容れないことが多かったが、今は受け入れざるを得ないと考えたのだろう。僕を見返して重々しく頷いた。
「俺も、少々疑っていた節はあったことは認める。自殺にしては、部室の状況はどうにも不自然なところがあった」
「手首じゃなくて、首を切ったところ?」
「いや、それも変だが、俺が気になったのは弱点コレクションだ」
机に現れた小物の山は、もともと大きなビニール袋にまとめられていて、誰のネーミングか「弱点コレクション」と呼ばれていた。十字架を模した銀のキーホルダーに、丸い手鏡。乾燥ニンニクのパッケージ。ライターと蝋燭。神社の御守りに破魔矢。はてには銀食器やピラミッド型のクリスタルまで、ありとあらゆる魔除けが集められていた。
これは去年、「僕たちは本当に吸血鬼なのか」という議論に決着をつけようと貴司が提案した、魔除けに拒否反応を示すかどうかの実験のために用意された。僕たちは銀食器に頬ずりし、十字架を見つめ、塩を舐めてニンニクを嗅いだ。仄香は手鏡が怖いからと部屋を出ていったが、それは乾燥ニンニクを燃やした強烈な臭いから逃げたかったからだと僕は考えている。
その後、用済みになった弱点コレクションはがらくたの中に突っ込まれ、そのまま封印されていた。稲佐浜の砂入りの瓶は邪魔だと修也が文句をつけたので、しぶしぶ倫明が持ち帰ったけれど。
「あれをわざわざ引っ張り出して机の上にぶちまけたからには、それなりの理由があったんだと思う。ひょっとしたら修也は、怯えてたんじゃないか」
ビニール袋を必死になって探す修也を想像する。魔除けが必要だったのは追われていたから。恐ろしいものがすぐ近くに迫っていた。
「いつもドアは開けっ放しなのに、今日に限って鍵を締めたのも、恐れていたからだ。……〈黒の女〉が部室に入ってくることを」
すでに人間の枠を大きく外れた僕たちよりも、遥かに規格外の存在。あらゆる障壁をものともせず、施錠された部屋に一切の痕跡を残さず出入りできる、神出鬼没の怪物――
そんなふざけたものに修也は殺された。
最後の望みだった魔除けも意味をなさなかったのか、とやりきれない思いに駆られる。修也は僕たちの不幸とは何の関係もない。普通の人間として普通の人生を送ることだってできた。わけのわからない化け物に殺されて人生を終えるはめになったのは、仲間想いな性格が災いして、友人たちを救おうと行動してしまったからだ。
ふと見ると、倫明の顔つきが変わっている。無感動に冷え切っていた瞳は爛々と光を放ち、暗い情熱が内側で燃えている。
ぶつぶつと呪詛を唱えながら、倫明は自分の左腕をざくざくとナイフで切り裂く。青白い肌には刺身のような切れ目が入り、襞のあいだから赤い涙が流れ出す。
最近は血を見ることに慣れきってしまった。倫明の自傷癖は中学以来ずっと治らないし、実験と称して身体のあちこちを切断する行為は四人とも経験していた。身体を切ったときの血の飛距離と方向を覚え込んでしまい、自由自在に避けられるようになったのはまさしく怪我の功名だ。
貴司は自傷行為そのものは咎めず、ただ「廊下でやるなよ。人に見られるぞ」とだけ注意した。倫明はその忠告に、思い切り動脈に刃を突き立てることで応じる。再び赤い噴水。避けきれなかった生温い一滴が頬を叩く。
「おまえなあ……」
ぼやく貴司の声にかぶさって、階段を上がってくる複数の足音が聞こえた。
谷中さんを先頭に、僕も知っている教師たちが深刻な顔で廊下を歩いてくる。緊急事態だからか、そのスピードは思いのほか速い。
僕はさっと周囲に目を走らせる。床と四人の服に若干の血が残っていた。床の血痕をそれとなく靴で隠し、頬を手のひらで拭っていると谷中さんが到着した。
「警察はもうすぐ来るそうだ。君たちも話を訊かれるだろうから、下で待つといい。ん? 君、服に血がついてないかい」
「いえ、チョコレートです」
我ながら苦しい言い訳をしていると、階段から女子生徒が現れるのが見えた。
世渡万由里だ。
部室の前のただならぬ様子を一瞥すると、彼女は表情を硬くして立ちすくむ。何かを口にするように唇が動く。すると近くにいた教師が飛んできて声をかけた。階下へ降りるよう促したらしく、短い押し問答の末、渋々階段へと踵を返した。
去り際の万由里の横顔には困惑があった。修也がここで殺されたという事実を知ったとき、困惑はすみやかに憎悪へと変わるはずだ。修也がわけのわからない死に方をしたのは、わけのわからないあんたたちがつきまとってたせいだ、と非難を浴びせられる。それだけならまだいいものの、倫明の「悪事」を暴露されてしまったら――
「もう、この学校にはいられないかもね」
谷中さんに連れられて歩く途中で、仄香がそっと耳打ちしてきた。
「倫明が?」
「ううん……わたしたちは運命共同体だから」
胸の冷える思いがした。僕たちは足首を互いにロープで繋がれたまま崖っぷちに立っている。足を滑らせたのが一人でも、地獄に落ちるのは全員だ。
でも、案外悪いことじゃないかもしれない。世間に向けて大々的にカミングアウトしてしまえば、毎年の健康診断から逃げ回ったり夜の街で警官に補導されかけたりと、さまざまな局面で窮屈な思いをすることもなくなるのでは?
楽観的な予想をあれこれ繰り広げていると、胸のつかえがとれて何もかもうまくいくような気分になる。行く手に立ち塞がった数々の困難を、僕はいつもそうやって乗り越えてきた。荒れ狂う運命が通り過ぎていくのを、親指を隠して目を閉じて待つことにした。
災いは外からやってくる。外界へと繋がる窓を閉じてしまえば、そこには見慣れた暗闇が広がっている。太陽の届かない穏やかな空間。吸血鬼に襲われることも、親友が殺されることもない世界が僕を優しく包んでくれる。
ポケットに突っ込んだ僕の両手は、親指を内側にして握りしめられていた。
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