第38話

帰国までの残った数日は、ドナは叔母のノルミンダの立てたスケジュール通りに過ごした。東京ディズニーランド。福井の親戚訪問。京都散策。たぶん生涯二度と訪れる機会のない日本の観光を貪るような、貪欲な数日間だった。


 

そんな忙しい合間でも、時折ドナが見せる遠い視線をノルミンダは見逃さなかった。そして、京都から帰りの新幹線で隣に座るドナが、まさにそんな表情をしていたのだ。

「Ate Baby.(アテ・ベイビー)」

 ドナは叔母をそう呼んだ。


「Masaya ka ba na kinasal sa hapon?(日本人と結婚して幸せ?)」


 突然の問いに戸惑いながらも、ノルミンダは答えた。


「今の結婚生活に不満はないわ。ただ…」


 叔母は視線を窓の外に移しながら続けた。


「フィリピンで一緒に暮らせたらいいのにと、時々想うの」

「どうして暮らせないの?」

「私は、17歳の頃から、日本に来て働いているの。いわゆるジャパユキさんね。

 そのうち仕事に慣れてくると、若くて可愛い私はどの店でもトップだったのよ。信じられる。平井、錦糸町、上野。どの街の店へ移っても、大勢の男たちが、私を口説こうと通ってくるの。

 そのうち生意気になり、嘘をついていい相手か悪い相手かも見境がつかなくなってしまった。そのせいで、いろいろな経験もしたわ。やがて30歳を越えて全盛期も過ぎると、疲れてきて目抜きの街から少し落ち着いた街へ店を変えてもらった。

 そこで出会ったのが今の旦那なの」


ノルミンダはミネラルウォーターを口に含んだ。


「私の一目惚れだったわ。お酒も飲めないのに、付き合いで初めてやって来た彼にときめいちゃったの。初めてとは言わないけれど、久しく忘れていた感覚ね。

 錦糸町のクイーンとも呼ばれた私が、今までのノウハウを総動員してアピールしたけど、その時は電話番号も教えてくれなかったし、指名もしてくれず帰ってしまったの。私に興味がないのだとあきらめて1週間もたった頃、突然彼が店にやって来て私を呼んでくれたの。

 ビックリしたわ。ベテランの私がうぶな新人みたいに顔を赤くして、お酒も飲まずお互いのことを恐る恐る話し始めたの。そのうち店の時間では足りなくて、閉店後にカラオケボックスで夜明けまで話し、それでも足りなくて朝のマクドナルドで話し、彼のことがだんだんわかってきた。知れば知るほど好きになっていったの。

 当時の彼は、幸せな結婚とは言えなかったらしいけど、奥さんも子供も居たので、彼がどんなに好きでも、死ぬ時に一緒に居られる女にはなれないとあきらめてはいたの。

 けど1年ほどたったある日、『君と未来の話をしにきたよ』と言ってカバンひとつで私のところにやってきたのよ。もともと前の奥さんの親族の会社の役員を勤めていたから、家も仕事もすべてを投げ捨ててきたと思う。

 それから彼は、新しい仕事を一からはじめて私と私の家族のために働き、そして尽くしてくれているの。もういい年なのに大変だったと思うわ。そんな彼に自分の国で死ぬ安らぎまで捨てろとは言えない。ジャパユキの私たちにとって、日本人と結婚するということは、自らの祖国を捨てなければできないことだったのよ」


 ノルミンダはドナの手を取って握りしめた。


「ドナ。あなたはジャパユキさんじゃないわ。未来のあるフィリピーナでしょ。あなたの未来はフィリピンにあるの。Kaya ang taong iyong mamahalin at gagawa ng iyong kinabukasan ay walang iba kundi nasa pilipinas lamang…(だからあなたと未来を語れる相手はフィリピンにしか居ないのよ)」


 ノルミンダの真剣な言い様に押されて、ドナはただうなずくしかなかった。

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