第37話

佑麻は、グラスとワインボトルを片づけると、ドナの頬にかかる髪を指の背で優しく掻きあげた。


 ワインで火照るその頬に、ワインの香る唇に、触れたいという欲求を辛うじて押さえ、車から持ってきたブランケットで彼女を包む。そして、最後の目的地へ向かうために、彼女を背負うとブドウの果樹園を抜けて、高台の方へゆっくりと歩いていった。背中では、ドナが寝言を呟いている。


「kahit ano pa. Pede naman akong maging sayo. Isama mo na ako kahit saan, at pag-aari mo ako! Jerk!!

(なんでもいいから、私をさらって自分のものにしちゃえよ。ばかやろう)」


 もちろんタガログ語だから、佑麻にはその意味がわからなかった。


 上がっていった先には遠くが見渡させる丘がある。

 ドナをその芝生に寝かせると、佑麻は自分も横になり彼女の頭を腹に乗せた。そこから景色を眺める。ブドウの木々が連なり、丘に沿って茂るその様子はまるで外洋のたゆやかな波のうねりのようだ。フランスのブドウ園もこんな風景なのだろうか。

 やがて日が傾き、今日一日のふたりをにこやかに照らしてくれた日差しが、山並みの向こうに隠れようとしている。山辺は赤く、天空はダークグレーに、時とともにその色を濃くしている。そして日が隠れると、夜の帳が下り、天空の世界は一変する。

 満天の星が漆黒の夜空に溢れ、いつからいたのだろうか、その妖艶な月が、電灯ひとつないブドウ園のうねりを照らし出す。月光は、ドナのまつ毛にもその光をからめたが、彼女はまだ眠れる森の美女よろしく規則正しい寝息を立てて目を閉じている。


 佑麻はドナを起こしたくなかった。いったん起きてしまえば、再び時が動きだし、別れの時までのカウントダウンが始まる。ここで彼女が眠っている限り、時は止まりいつまでも一緒にいられる気がしていた。だがやはり、残酷な現実は避けることができまい。


「ここどこ? 天国?」


 ドナが目を覚ました。


「いや、ワイナリーのブドウ園さ」


 ドナは半身を起こし、月に照らされるブドウ園を見入っていた。


「きれいね。Strange, I feel like I’m in the bottom of the sea.(何か不思議な感じ。海の底にいるみたい。)」


 彼女もまたこの景色に、佑麻と同じものを感じていたのだ。


「日本の思い出に、この景色を見せたかったんだ」


 佑麻は、『もう日本には来ることはないだろう』と聞こえたかかと後悔し、あわてて言葉を続ける。


「あの月はフィリピンと同じかい?」

「見ている月はひとつのはずだけど、同じとは思えないわ」

「向こうの月は、どんなだろうね」


 『あなたの目で確かめに来たら』


 佑麻はそう言ってくれるはずのドナの言葉を待った。

 しかし、ドナは何も言わない。ふたりとも深い静かな海底に沈んでゆくような、そんな時間が過ぎていく。

 やがて、ドナが静寂を破って口を開いた。

「ユウマ。あなたとの出会い方は最高とは言えなかったけど、日本であなたと過ごした日々は、本当に最高の思い出になったわ。一生忘れません。心からお礼を言います。ありがとう」


 礼を言うドナであったが、その言葉は佑麻の心に素直にしみ込んでいかなかった。


「It’s getting late now, Shall we go home ?(叔母が心配するから、そろそろ帰りましょう)」


 ドナに促されて佑麻は立ち上り、ブランケットを肩に羽織ったドナの手を引いて丘を下った。

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