第28話

 ドナは、一階のリビングに降りていった。


 体温を測り、薬を飲ませたいが、当然体温計も薬もどこにあるかわからない。探すのをあきらめて、とにかく水分補給だけはさせなくてはと、水を求めてキッチンへ移動した。

 しかしここでもドナは戸惑ってしまう。かろうじて蛇口の位置はわかるが、今まで見たことのないオール電化のキッチンで、お湯を沸かしたくてもさっぱり使い方がわからない。仕方がないので、コップに生水だけ満たして運び、佑麻に水分を十分取らせた。その後は厚手のかけ布団で体を包む。こうしておけば20分ほどで発汗してくるはずだ。


 汗を拭きとる準備にまたキッチンへ降りたが、やはりお湯を沸かす方法がわからない。蛇口のノブをいろいろ試していると、蛇口から直接お湯が出ることを発見する。タオルを取りにバスルームへ。シャワーでなくバスタブ中心のバスルームを初めて見た。

 もともとフィリピン人は、朝出かける前に手早くシャワーを浴びるのが習慣だ。ジプニーに乗り合う女性達の髪がまだ濡れたままというのが、朝の通勤の日常風景である。熱いお湯で満ちたバスタブにつかって、バスルームで長い時間を費やす日本人が不思議に思える。トイレを覗くと、ウオシュレットがついている便器は、もはやシンプルな陶器の質感とは程遠いマシンと化していた。


 こうして佑麻の家の中を散策すると、あちこちから日本の日常の生活が見てとれる。ドナは、『人間が生きる』という本質は、祖国とまるで変わらないものの『暮らす』というディティールが大きく異なっていることを感じていた。

 もし、自分がこの家で暮らすことになったとしたら、この家のひとつひとつを素直に受け入れることができるのだろうか。佑麻も私の家に来たらきっと同じ問いを自分に投げかけるに違いない。


 熱いお湯にタオルを浸し、佑麻のベッドへ運んで行った。果たして、彼は汗でびっしょりになっている。ドナは、濡れた彼のパジャマを丁寧に脱がせ、彼の下着にも手をかけた。


「ドナ…」


 佑麻が弱々しい声で抵抗する。


「大丈夫、佑麻。I’m a nurse. I know what to do. Just follow my instructions.(私はナース。私の言うとおりにしてね)」


 ドナは、熱いタオルで佑麻の全身の汗を丁寧に拭き取る。いつもの白い肌が熱で赤みを帯びている。胸元の汗でチェーンについたリングが光った。幾度か見ているリングだが、不思議なデシャヴーを感じた。

 あっ、ドナはもう一度フォトフレームを見直す。写真の中の母親がこのリングを薬指にしていた。

 この男の子はどこまでマザコンなのだろうか。ドナはそんなことを思いながら、佑麻に乾いた下着とスウェットスーツを着せた。そしてまた水を飲ませる。

 ドナは、発汗と着替えを3時間にわたり3回繰り返した。3回目には、平熱とはいかないまでも熱は下がったようで、佑麻の息遣いもだいぶ落ち着いてきた。

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