第21話

 佑麻は彼女を、暗い大きなホールの中へ導く。

 そしてラバーを敷き詰めたフロアに彼女をひとり残して、佑麻はさらに暗い奥の部屋へと消えていった。今度は、不思議な冷気が、ドナの全身を包んでいた。

 やがて、聞いたことのないような足音が聞こえ、巨大なシルエットが近づいてきた。ドナは息をのんで身を固くするが、しばらくしてそれが佑麻であることに気づく。

 思わず安堵のため息をついたが、その息が白くなっているのを不思議に思った。

 佑麻が膝まずいて、ドナに何かを差し出した。

「I didn’t mean to frighten you. Can you change your shoes? It’s gonna be more comfortable to you if you wear this deck shoes.(驚かせてごめん。このデッキシューズにはき替えてくれると嬉しんだけど)」


事態が飲み込めぬまま、ドナは靴をはき替えた。


 そして、立ち上がったところで、ホールのライトが一斉に点いた。

 白い水銀灯に、さらに白い氷面が光って眩しい。ドナはここがアイススケートリンクであることに気づく。

 フィリピンでは、アイススケートリンクはとても珍しい。彼女も過去に一度しか見たことがない。しかもそれは、ワールドショッピングモールの中にある小さなものだった。ここは、それの何倍も広く、そして何倍も輝いていた。佑麻を見ると、彼はパーティースーツのまま、足にはごついアイスホッケーシューズを履いて立っていた。彼が巨大に見えたのは、このスケ―トシューズのせいだった。


 佑麻は、ドナの手を取ると、ゆっくりと氷上へいざなっていく。ドナは滑りやすい氷面に何度も転びそうになりながらも、佑麻に支えられながらなんとか進む。リンクの中央に着くと彼は言った。


「Donna, I admit, I'm not a good dancer on the floor, but not on ice.(ドナ。パーティーフロアでは無理だけど、氷の上なら僕はとてもいいダンスパートナーになれる)」


 ホールいっぱいに、セリーヌ・ディオンが歌うタイタニック号のテーマ曲が流れ始めた。佑麻は曲に合わせて、ドナを操りながら滑らせ、リフトし、ペアダンスを踊った。

 ドナは、氷の上は初めての経験である。デッキシューズとはいえ、最初は滑りやすい氷面にバランスを失ったが、やがて佑麻に体を預けてさえいれば、スケーティングができることを悟った。

 心地よい風を全身で受ける。景色が流れていく。天井が回転する。佑麻に支えられ、操られ、抱きかかえられながらも、彼の体を自分の体の近くに感じて滑るスケーティングは、ドナをして、別世界にいるような心地にさせる。ゆっくりとスピンして、やがて曲の終りを迎えると、ドナを氷上に立たせながら佑麻がいった。


「悲しませてごめんね。誘っておきながら、みんなに君のことをなんと紹介したらいいのかわからなかったんだ。でもこれからはこう紹介することに決めた」


 佑麻は、誰もいないメインスタンドに向かって大声を張り上げた。


「Attention, ladies and gentlemen. I represent to you. Ms. Donnalyn Estrada. A lady that makes my days complete, make my world keep moving.(みなさまにご紹介いたします。私が出会った最高の女性ミス ドナリィン・エストラーダです)」


 そう言いながらうやうやしくお辞儀をする佑麻に、ドナの胸はキュンと鳴った。

 彼女は氷上を飛び上がると長身の彼にしがみついた。


「あぶないよ、ドナ」


 佑麻は笑いながらドナの体を抱きかかえる。

 そんな彼の頬を両手で押さえて、ドナは自分の顔をゆっくりと近づけていった。それが二人の初めてのキスだった。佑麻は氷の上にいるのにもかかわらず。心が熱く溶けていく。やがて彼女は顔を離すと、佑麻の唇に薄くついた自分のチークを、細い人差指でふき取った。


「Kuya Yuma, Sabi ko na nga ba salbahe ka eh.(佑麻。やっぱりあなたは悪い奴だわ)」


 佑麻は、抱きかかえたドナを、いつまでもいつまでも下さずに、ふたりだけのスケーティングを楽しんだ。

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