ウィンダム編2・12章
【12】
片腕の男が走っている。
血止めはされているが、それでも出血が続く腕。
薄く霧の漂う夜の道を、男はただひたすら走る。
石畳の道。
ウィンダムの裏路地。その何処か。
月さえも無い夜。
霧が、揺れ、かき混ぜられ――流れる。
突然、足に衝撃。
男は前のめりに転んだ。
受身さえもろくに出来ず、石畳の上に倒れる。
片腕でふらつく身体。それでも男は立ち上がった。
己の足を見る。
両足に、長い針が突き刺さっていた。
誰かが投げたのか?
しかし、何処から?
男は周囲を探りながら足の針を抜いた。
微かなにおいに気付く。
麻痺毒のにおいだ。
立ち上がった足が震えている。
油断した。
腕を切り落とされ、気が動転している。
自分の腕を切り落とした男の顔を思い出す。制服を着ていた。あれは自由騎士団の制服だ。
あの距離で、腕を切り落としてくるとは……信じられない。
しかも首を狙ってきた。腕を犠牲にしなければ首を持っていかれていた。
どれほどの腕前だ。
針を床に落とす。
霧が揺れる。
正面。
霧の向こうに、誰かが立っている。
霧がゆるりと割れる。
立っていたのは女だ。太股が殆ど見えているショートパンツにビスチェのような形状の服を着た女。
年齢のよく分からない、だが、確かに美女だ。
女はにこにこと子供のように無邪気に笑っている。
笑顔で立っているその様子は、この場所とは酷く不釣合いだ。
「はぁい」
女は片手を上げて笑った。
「こんばんはぁ」
男は答えない。
残った腕に武器を構えた。
「やだぁ、好戦的なのね、おにーさん」
きゃははは、と女が笑う。
笑う女に向けて、武器を――
手が動かなかった。
足の麻痺毒はまだ身体に回っていない筈だ。
かすかに甘いにおいに気付く。
女のにおいに混じって届く甘いにおい。
「きゃはは」
女がもう一度笑った。
「私、外から来る人って結構好きなの。表の人も大好きだし、裏の人もそんなに嫌いじゃないの。出来たら仲良くしたいなって思うんだ、いつも」
身体は動かない。
甘いにおい。
空気に混じる、毒。
霧のように忍び寄る。
「おにーさん」
女が笑う。
明るい笑みを浮かべる口元。細められた目。
「ちょっと、酷過ぎない? ギルドのルール、完全無視してるよ。いくらウィンダムが自由の街だからって、外からの人がこれだけ暴れちゃ……ちょっと、ねぇ?」
だから。
「死んで?」
そう言う瞬間まで、女の笑みは明るく、可愛らしいと言えるものだった。
男は逃げる方法を探す。
女を殺し、逃げるのが一番望むべき結末だが、それは無理だ。
逃げる方法を――
耳元で風が鳴った。
風は形を持って喉にまとわり付く。
それは細い、丈夫な糸が首に巻きついたのだと、首に感じる力で理解した。
背後に、誰かが立っている。
誰かは男の首に糸を絡め、いつでも引ける位置で立っていた。
誰かが立っているのは分かる。
だが、それが誰か想像も出来ない。
気配を感じない。
人がいるのは分かるのに、気配を感じない。
ただ目の前、女が笑う。
「ねぇ、少しおしゃべりしない、おにーさん?」
女が近付く。
「私たち――知りたいんだぁ。おにーさんの裏側にいる人」
突きつけられる人差し指。
真っ赤に塗られた爪が見えた。
「竜の子供を密輸して、どうするつもりだったの? 他にも竜の部品を輸入している人たちがいるの分かってるんだ。それと仲間? ――ねぇ、何が狙い?」
答えない。
「おしゃべりは出来るでしょ? ね、お話して。もしかしたら気が変わって、おにーさんの事、助けたくなるかもしれないから」
――きん、と。
石畳の上に金の光が弾けた。
何処かから放られたそれはコイン。
女はそれを視線で追い、こちらを見た。
正しく言うと、背後、男の首に糸を絡めている人物を見たのだろう。
女は一歩引き、金の光を拾った。
それを掌に乗せ――女は大げさに息を漏らした。
「翼の無いウィンダム金貨」
それが何かの呪文のように、首元に絡まる糸から力が抜けた。
男は支えを失い、地面に座り込む。
ようやく糸を操っていた人物を見た。
こけた頬の痩せた男だった。
女が金の光を放り投げてくる。
それを片手で受け止め、痩せた男は顔を顰めた。
「――運が良いな」
金の光が降って来た。
座り込む男の前で金が跳ねる。
跳ねた光は金貨だった。
風竜の紋章が刻まれた、ウィンダムで使われる金貨。
ただしその金貨は半分に断ち切られ、紋章の風竜は翼を失ったかのように見える。
翼の音がした。
深くなった霧の向こう、数度、翼の音が響く。
そして、足音。
第四の、人物。
「貴方がこの金貨を投げた人?」
女が不機嫌そうに言う。
「この金貨の意味を分かって投げた?」
「――えぇ、充分に」
多少訛りのある言葉だ。
異国人なのだろうか。
断ち切られた金貨。
示す意味は、失われた自由。
裏世界に属する者たちはこの金貨を与えられると同時に沈黙を守る。
「“協議会”の指示により、今後、我等が行う行動に一切の関与は禁じられる」
「……分かった」
糸使いの男が頷いた。
蛇が鳴くような音を立てて糸が動く。
「アサシンギルドは今度動く事は無い」
その台詞を最後に糸使いの男が動いた。すぐさま霧に溶け、姿が見えなくなる。
もう、と声を漏らした女も身を翻した。こちらも一瞬後に気配は消えた。
残されたのは座り続ける男と、霧の中の人物。
「――助かった」
男は霧の中に声を掛ける。
「ウィンダムのアサシンたちが動くなんて予想外だったな。でも良かった。これで動きは封じられるんだろう? ならば次は何を――」
「ひとつ、殺し過ぎ」
霧の中の声。
「ふたつ、無駄過ぎ」
続く。
「みっつ……愚か過ぎる」
目の前に足が現れる。
見下ろす、瞳。
青みが掛かった銀の瞳は、まるで氷のようだった。
「もう少し役に立つと思ったのだけど……」
「お――おい、まさか……」
男はその目を呆然と見つめ、何を言われたのか考えた。
しかし答えを出すより先に己の身体の異変に気付く。
残された一本の腕。
それが勝手に動き出す。
手に持った武器。
鋭い刃を、己の首元に突きつける。
助けを求めるために口を開こうにも動かない。
身体の自由が封じられている。
身体の動かし方を忘れてしまったようだ。
「仔竜一匹取り戻せない役立たずは、要らない」
ため息。
「他の鍵を用意しないとならない」
あぁ忙しい。
ため息交じりの声がそう続けた。
刃の先端が首に刺さる。
肉に刃が食い込む。
声を出したい。
助けてくれと願いたい。
だが、何も出来ない。
男が手を伸ばす。
「遅い」
こちらの手を掴むと、遠慮なく喉に刃を差し込む。
喉が裂ける。
血が流れる。
首が、落ちる。
「――……」
地面に転がった生首の髪の毛を掴み、持ち上げる。
滴る血を気にした様子は無く、男は背後を見た。
霧の中、微かな翼の音。
「さぁ、もう一仕事だ」
小さな鳴き声が、応えた。
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