空っぽ黒竜(終)


【1】



 昔々、遠く昔。

 一匹の飛竜がおりました。


 その飛竜は自分がいつ生まれたのかも分かりませんでした。

 自分のどの種類の飛竜かも分かりません。

 父も、母も、兄弟たちも分かりません。


 ただいつもお腹が空いていました。


 肉を喰らっても、水を飲み干しても、ありとあらゆるものを食べてみても、ちっともお腹は満たされません。

 唯一、腹ぺこ飛竜を僅かながらも満たすものは、同族である飛竜たちの血肉のみでした。


 飛竜は同族たちを喰らい続けました。

 満たされる肉を貪りながら、飛竜は考えます。

 きっと、兄弟も、母も、父も。

 仲間たちと同じように、喰らってしまったのだろうと考えました。


 兄弟と戯れる代わりに肉を。

 母に愛される代わりに血を。

 父に導かれる代わりに骨を。


 喰らい続けたのだろうと考えました。




 何匹もの飛竜を喰らい続け、やがて飛竜の身体は何重にも血を塗り重ねた紅を超えて闇の色に染まりました。

 それでも飛竜は喰らい続けます。


 同族たちを喰らえば一瞬だけは飢えが満たされます。

 でも、すぐにお腹が空くのです。

 空っぽのお腹が飛竜を責め立てるのです。


 お腹の中で今まで喰らった飛竜たちが、責め立てるのです。

 

 さぁ喰らえ、もっと喰らえ。

 お前は既に一人で在らず。我等の分の血肉が足りない。

 さぁ、喰らえ、すべてを喰らえ、喰らい尽くせ。

 すべての飛竜を我等と等しく、お前の腹の中に収めつくせ。



 それは怒りでした。

 それは嘆きでした。

 それは嫉みでした。


 それに飛竜は頷きました。

 

 飛竜――黒竜は喰らい続けます。


 食べた分だけ黒竜は大きく大きく。

 食べた分だけ黒竜は黒く黒く。

 

 そして、お腹の中の空っぽは、どんどん大きくなっていきます。

 食べても食べても、満たされず。

 

 始終責め立てる声たちに黒竜は喰らい続けます。

 それでも、お腹はちっとも満ちないのです。

 空っぽのままなのです。



 


 やがて、人間と行動を共にする飛竜たちが現れ始めました。

 黒竜はそれも喰らいました。


 他の飛竜たちよりも、人間と行動を共にしている飛竜たちの方が、ほんの少し、ほんの少しでは在りましたが、お腹が満たされました。


 喰らった飛竜から得た知識で、その人間たちは『片割れ』と呼ばれるものだと知りました。

 飛竜の失われた魂。

 欠けた部分を満たす心。


 嗚呼、確かに片割れを持った飛竜たちは満ちていました。



 黒竜は、その『片割れ』とやらが欲しくなりました。

 魂。

 己の魂。

 それを得られれば、きっと空っぽのお腹もおとなしくなるでしょう。

 この自分を責め立てる声たちも鎮まるでしょう。


 

 黒竜は人間の前に行きました。

 黒く、大きく、異形の飛竜を前に、人間たちは恐れ、攻撃してきました。

 黒竜はそんなつもりはないのですが、やはり腹の中で今まで食らった飛竜たちが責め立てます。


 黒竜はやはり頷きました。


 黒竜は人間も喰らいました。

 沢山、沢山、喰らいました。


 人間たちは更に黒竜に攻撃してきました。

 沢山、沢山、痛みを受けました。


 黒竜を憎む飛竜たちは腹の中で大喜びです。

 人間に傷付けられる黒竜を見て、その痛みに喜ぶのです。


 

 やがて黒竜は封じられました。

 邪悪な存在として、何処かへ。

 だけど封印は嫌ではありませんでした。


 封じられている間はまどろむだけです。

 お腹は空きますが、夢の中のようなもの。

 悪い気はしません。

 腹の中の飛竜たちも一緒に眠っているようで、黒竜を責めません。


 封じられ、黒竜はようやく少しだけ幸せになりました。




 だけど長い長い時の果て、黒竜は目覚めてしまいます。


 人間にもう一度封じてくれと頼むものの、人間に飛竜の言葉は通じません。


 それにお腹の中で騒ぐのです。

 長い長い眠りで飢えていた飛竜たちが暴れるのです。



 黒竜は前と同じように人を喰らいました。人と共にいる飛竜を喰らいました。ことごとく、様々なものを喰らい続けました。



 そしてようやく願いは叶えられました。

 黒竜はまた封じられたのです。





 そのような眠りと目覚めを繰り返しました。

 何度も、何度も。


 何度目かの目覚めの時、周囲を探った黒竜は驚きました。

 人間の数が随分と減っています。

 飛竜の数も随分と減っています。


 情報を得る為に何匹か飛竜を喰らい、今世界で何が起きているのかを調べました。




 小さな国の王様が、世界を統一しようと戦いを続けているのです。

 王様は様々な国を征服し、その国に存在する人間たちを皆殺しにして回っているそうです。


 黒竜は少し考えました。


 その王様も腹ぺこなのだろうか。

 自分が飛竜を喰らって満たされるように、人間を喰らって満たされる存在なのだろうか。


 黒竜はその王様に興味を持ちました。




 長い長い年月の末、黒竜は今まで喰らった飛竜たちの力を操れるようになっていました。

 腹の中の飛竜たちは怒り、嘆き、嫉みながらも、力を貸してくれます。

 その方が彼らにとっても都合が良いのでしょう。

 もっともっと多くの飛竜を、喰らう事が可能なのですから。



 そんな黒竜ですから、こっそりと魔法を使い、人殺しの王様の所に行くのは簡単でした。


 大きな大きなお城の奥に、王様の玉座はありました。

 沢山の兵隊や、騎士や、臣下たちが並ぶであろう立派な広間は、王様がたった一人です。

 王様は玉座に深く腰掛け、眠るように目を閉じていました。



 黒竜は沢山の人を見てきました。

 王様がまだ若い人間の男だと言うのはすぐに分かりました。

 どちらかと言えば可愛らしい顔をした、まだ若い――大人になったばかりぐらいの、人間です。


 黒竜は王様の外見だけでなく、その魂を覗き込みました。


 そして、とてもとても驚いたのです。



 これほど傷だらけの魂を見たことがありませんでした。

 今にも砕け散ってしまいそうな、脆い脆い魂でした。

 黒竜は自分の中の飛竜たちに問いかけます。この魂は何だ、と。こんな魂は見た事が無い、と。


 返って来た答えは迷いを含んだものでした。


 人の魂は寿命がある。せいぜい数百年。それぐらいしかもたない。後は消え去るだけ。

 だけど、その寿命を無理に延ばし、繋ぎとめ、何度も生まれ変わらせた結果がこれだろう、と迷う声が言ったのです。


 もうこの魂は壊れてしまう。

 今にも、ほんの小さなきっかけで、この魂は永遠に喪われるでしょう。


 壊れそうなその魂。

 数多く入った罅の隙間に、黒竜はそれを見ました。


 虚ろを。

 空っぽな、決して満たせぬ箇所を、見つけました。

 それは小さな虚ろではありました。


 だけど、黒竜は虚ろを抱える存在を初めて見たのです。

 自分以外、初めて。


 

 黒竜は潜んでいた姿を王様に前に現しました。



 王様は特に驚く様子も無く瞳を開きました。

 闇色の瞳が黒竜を見ます。

 自分の身体と同じ色の瞳が何だか嬉しくて、黒竜は少しだけ笑いました。


 王様も笑いました。



 ――誰の使いだ、と王様は言いました。

 


「ゴルティアか、それともバーンホーンか、アナシアタか、それともコルガか」


 それが国の名前だと分かりました。

 黒竜はそのひとつひとつに首を振ります。


 やがて国の名前も尽きたのでしょう。

 王様は笑わず言いました。


「なら、誰の使いなんだ? ――誰に頼まれて俺を殺しに来たんだ?」


 殺しに来たのではない、と黒竜は言いました。

 王様は黒い瞳を見開いて驚きました。



 黒竜は王様に聞きたい事が沢山ありました。

 だけど人の言葉は難しくて、巧く言葉になりません。

 ゆっくりと、ゆっくりと黒竜は話し出します。


 王様は黒い瞳をじっと黒竜に注いで、そのゆっくりとした言葉を聴いてくれました。



 ――お前の虚ろは、人を喰らう事で満たされるのか?



 ようやく出した問い掛けに王様は不思議そうな顔をします。


「人を喰らった事など一度も無い」


 ――では何故、人を殺す? 喰らう為ではないのか?


「俺は殺す為に殺すだけだ」


 ――殺すのが目的? 殺して、どうなる?


 

 王様は笑います。

 何だかとても寂しそうな笑みでした。


「死の向こうに彼女が還って来る」


 ――……?


 黒竜はその言葉の意味が分かりません。

 王様もそれ以上の言葉を続けません。

 

 黒竜は王様の魂を見ました。

 相変わらず、今にも砕け散ってしまいそうな脆いものです。



 ――その魂ならば、お前の存在は長くはもたぬぞ。



 黒竜は言います。

 王様は黒竜を見ました。


 やがて静かに頷きました。


「自分の事だ。自分自身が一番よく分かる」


 だが、と王様は言いました。


「今更もう、他に何をして良いのか分からない」


 黒竜は王様の言葉がよく分かりません。

 でも、王様が、決して辿り付けぬ、もしくは決して得られぬものを求めているのは分かりました。

 その表情と、魂の哀しげな震えから、理解しました。


 

 王様の魂が揺れていました。

 罅の入った場所が静かに広がっていきます。

 ぱらぱらと、壊れた魂が落ちていくのが見えた気がしました。


 王様が嘆いているのが分かりました。

 

 その嘆きは黒竜の問い掛けが齎したものなのは良く分かりました。


 ――……すまない。



 黒竜は謝罪し、この場から去ろうと考えました。

 

 だけど、王様が気になるのです。

 壊れそうなその魂が、心が気になるのです。



 ふと、黒竜は思い出しました。


 片割れ。

 

 片割れとなった人間は、その心の一部を飛竜に与えてくれます。

 そして飛竜は満たされるのです。

 欠けたものを得られて、とても満たされるのです。


 ならば、その逆を行っても大丈夫なのでは、と考えました。



 黒竜は自分の一部を切り離し、操る術を心得ていました。

 魂も切り離せると、そう判断したのです。


 黒竜は王様を見ました。


 王様も黒竜を見ました。



 ――力を、貸してやろうか。


「……?」


 ――お前の魂を、我が魂で支えてやる。


 崩れぬように。

 壊れぬように。

 消えぬように。


 王様が苦笑しました。


「何故?」


 問い掛けに黒竜は迷います。


「そんな事を俺にして、お前は何の得があるんだ?」


 黒竜は少しだけ迷って言いました。



 ――まだ、分からない。



「随分と優しい飛竜だな」



 王様は笑いました。

 苦笑ではなく、思わず噴出したような笑い方です。


「何の得も無く、俺の手助けをしてくれるのか? 竜騎士とやらでなく、初対面のお前が、俺の手助けを? ――魂を支えると言うのは、お前の魂を俺にくれてやる事だろう?」


 黒竜は頷きました。


 王様はまだ笑っています。


「遠慮しよう。魂に触れられるなど想像もしたくない」


 王様は「それに」と胸に手を当てました。


「俺の心も魂も、たった一人の女神のものだ」


 ――だが、その女神とやらはいない。違うか?


 王様は沈黙します。

 どうやら図星だったようです。


 王様が欲しがっているもの。

 どうやら、それは女神と呼ばれる存在のようです。


 神。

 その響きに黒竜は何か思い出しかけます。

 遠く昔の事です。

 だけど、黒竜はそれを振り払い、王様に話しかけます。


 ――お前は虚ろだ。空っぽだ。満たされる事を知らぬ。



 我と同じ。



 ――お前が満たされれば、我が満たされる方法も見つかるかもしれない。


 ――その満たされる方法が見つかるその日まで、お前が存在し続けられるように、その魂を支えてやろう。



 そして――



 ――お前が真に満たされた暁には……今度は我を満たしてくれ。



 王様はもう笑っていませんでした。

 困ったような表情で黒竜を見ています。


「……お前を満たすような事が、俺に出来るのか?」


 ――分からない。出来るかもしれない、出来ないかもしれない。



 これは賭けだ。


 ――我と等しい虚ろ。それを持つ、お前に賭ける。



 黒竜は巨大な頭を王様に寄せました。

 王様の手が黒竜の顔に触れます。

 黒竜は瞳を閉じました。



 ――我はお前の力になろう。お前が満ちるその日まで、お前の下僕となり影となり、共に生きよう。


 人にこんな優しく触れられるのは初めてでした。

 心がざわめきます。

 魂がゆれます。

 

 これが喜びと言うものでしょうか?


 触れる手指から黒竜はゆっくりと王様を喰らいます。

 いいえ、喰らうと言う行為とはまったく違いました。

 

 そっとそっと、王様に寄り添ったのです。

 その心の中に、そっと、身体を滑り込ませたのです。 


 忍び込ませ、ゆっくりと、這います。

 その魂にそっと寄り添いました。

 深い罅に身を寄せて、包み、守り、抱きしめます。

 



 やがて黒竜は瞳を開きました。

 王様が驚いた表情で黒竜を見ています。

 恐る恐る、自分の胸を見下ろします。


 ――どうだ?


 黒竜は笑いました。

 王様は言葉も無いようです。

 自分の事は自分が一番よく分かる。その通りならば、王様は今、己の心の、魂の変化を気付いているでしょう。


 黒竜の魂、その大半を差し出しても、王様の魂を癒しきれませんでした。

 それでもこれならば大丈夫。

 壊れずに済む。

 大丈夫。


 黒竜の目には王様の魂を包み込む、黒竜の魂が見えました。

 


 ――これで、我とお前は一対だ。



「……?」


 王様は不思議そうに黒竜を見ました。



 ――魂を遣り取りした。片割れ、とやらになったのだろう?



 王様は笑いました。

 子供のような素直な笑みです。


 黒竜の顔を撫でて、王様が言いました。


「竜騎士の事か? あれは運命とやらでなるものだろう。こんな、竜と人の意志だけで成れるものではない。これは……違うと思うぞ」


 黒竜は何も言わずに笑いました。

 黒竜はちゃんと分かっていました。


 片割れではない、と王様は言うけれど。


 だけど、不思議です。

 腹ぺこのお腹が少し楽です。空腹は収まっていませんが、責め立てる声が少ないのです。

 黒竜の魂と王様の魂。

 ふたつは同時に互いの虚ろを埋めつつあるのです。


 

 黒竜は王様の顔に顔を寄せました。



 黒竜が初めて行う、飛竜の愛情表現でした。


 擦り寄る黒竜を抱きしめて、王様が言いました。


「俺は、ボルトス」


 ボルトス、と、黒竜は王様の名を呼びました。

 とっておきの宝物を貰ったように、黒竜はただ嬉しくなりました。





 それから、黒竜は王様と一緒に戦いました。

 世界中のあちらこちら。

 戦い、滅ぼし、殺し続けました。

 黒竜は死を齎す事を苦痛とは感じません。

 

 王様を背に乗せ、誇らしげに、空を舞い、人間やそれに従う者たちを殺し続けました。


 人間たちは王様の事を『狂王』と呼んでいました。

 争いを好む狂った王。

 いいえ、王様は狂ってなどいません。

 心を重ね続けている黒竜はちゃんと知っています。

 

 それに王様は話してくれました。

 古い時代の御伽噺。

 女神に愛された男の話。

 転生を繰り返す男の話。

 人の命の封印を課せられた女神の話。


 黒竜は王様が悪いとは到底思えませんでした。


 むしろ、王様と女神を会わせてくれない神々や、それの味方をする人間たちが悪いと思いました。


 王様が望む限り、人を殺し続けようと思いました。

 


 腹の中の飛竜たちは大人しいままでした。

 王様の魂のおかげでしょう。黒竜を責め立てる事もしません。黒竜は己の意志で王様の傍にいる事が出来ました。


 とてもとても幸せでした。






 ある日の事でした。

 その日、黒竜は小さな飛竜の姿になっていました。左右に兵士や騎士、臣下たちが並ぶ長い廊下。そこを歩く王様の身体に絡み付くように、小さな姿になって傍にいました。


 王様は沢山の人を殺しました。

 抗う人も殺しました。

 立ち向かう人も殺しました。

 黒竜もいっぱいいっぱい殺しました。


 これだけ人が減れば、女神の封印も弱まるでしょう。

 王様が女神に会える日も来るかもしれない。

 その時、王様の魂は満たされるでしょう。

 そうしたら、次は黒竜の番です。


 いいえ、もしかしたら、王様の魂が満たされたその時、黒竜の魂も満たされるかもしれません。


 黒竜は嬉しくて仕方ありません。


「――黒竜」


 王様が呼びます。

 左右に騎士たちが並んでいます。ぴくりとも動きません。

 鎧の中身は人なのに、表情はちっとも動きません。心を覗けば、王様への恐怖心でいっぱいだと言うのは分かっていましたが。


「お前は俺の片割れらしいな?」


 黒竜は黙って頷きました。

 王様はくすくすと笑っています。


「ならば、片割れらしい事をしてやる」


 何だろう?


「名前を、やろう」


 名前。

 黒竜は驚いて、その肩に乗せていた顎を上げて、王様の顔を覗き込みました。

 

 そう言えば、片割れを持つ飛竜たちは、人間から名前を貰っていました。

 王様は、それを黒竜にくれると言うのです。


 王様は歩きながら言いました。


「俺の名をくれてやる」


 ボルトラック。


 王様は言いました。


 王様の名前はボルトス。音がみっつ、お揃いです。


「ずっと考えていた。――どうだ、悪い名前では無いだろう?」


 黒竜は嬉しくて動けませんでした。

 王様に喜びを伝えようとしますが、巧く口が動きません。

 相変わらず人の言葉は難しいのです。


 嬉しいと、そう伝えようと、何とか人の言葉を出そうとした時。




 緑の光が見えました。




 騎士の一人が剣を持って切りかかってきます。

 緑に光る刃の剣。


 黒竜は王様と騎士の間に身を入れました。

 通常の剣ならば黒竜の鱗を貫けません。例え魔剣だとしても、黒竜の肉を裂く程度で止められるでしょう。


 だけど、緑の刃は黒竜を身体を素通り、騎士の方に向き直った王様の胸を貫きました。


 小さな、吐息のような音がして、王様が血を吐きました。

 黒竜の頭へ、王様の血が掛かります。


 刃が動きます。

 大きく、王様の身体を切り裂いて、剣が、抜けました。


 ゆっくり。

 酷くゆっくりと、王様が倒れました。



 誰も動けませんでした。


 騎士が、緑の魔剣を軽く振るい、血を払いました。



「き――狂王が」

「狂王ボルトスが……死んだ……」


 ざわめき。

 ざわめきが、大きくなります。



 それは歓声に代わりました。


 王様に仕えていたすべてのものが喜び、叫んでいます。



 黒竜は王様の顔を覗き込みました。

 目を見開いたまま動きません。


 血が口の端から流れています。


 顔を寄せると肉体はまだ温かいのです。


 だけど、魂が何処にもありません。

 王様に預けた黒竜の魂も、何処にもありません。


 黒竜の腹の中で、また飛竜たちが騒ぎ始めました。


 黒竜の周囲と同じように歓喜の声。

 憎悪に満ちた、喜びの声です。



 我々から命を、肉体を、片割れを、自由を、全てを奪っておきながら、自分だけが幸せになろうとは何と愚かな。

 喪われて当然。

 当たり前の結末。

 いいやいいや、むしろお前が招いた結末。

 その王の死さえ、お前のせいだ。


 違う、とは言えませんでした。


 黒竜は顔を上げます。

 緑の魔剣の騎士は、いまだそこに立っていました。

 静かな表情をしています。



 殺してくれ、と黒竜は願いました。



 魔剣の騎士はゆっくりと首を左右に振りました。



「俺の剣ではお前は殺せない」


 ならどんな手段でもいい。

 殺してくれ。

 王様と同じ場所に行かせてくれ。


 騎士はもう一度首を左右に振って、歩き出しました。

 黒竜は騎士の背に向かって叫びます。

 殺してくれ、と、もう一度。



 だけど望みは叶えられません。



 魔剣の騎士が消え去ると、人々は更に動き出しました。

 歓喜の声を上げる兵士たちが、騎士たちが、臣下の者たちが。

 王様の屍体に群がります。


 黒竜は王様の屍体に覆い被さります。

 牙を剥き、唸ります。

 誰かが呪文を唱えました。光の呪文です。黒竜を何度か封じた呪文に似ていました。


 普段ならば抗う事も可能だったでしょう。

 ですが、今の黒竜は魂の多くを喪っています。

 王様と共に喪っていました。

 

 黒竜は光によって動きを封じられました。

 

 王様の屍体が切り裂かれ、千切られ、刺され、どんどん小さくなっていきます。

 大好きだった黒い瞳も抉られて、いまはそこに剣が刺さっています。

 手も足も、もうありません。

 黒竜を撫でてくれた手は、もう何処にもありません。



 黒竜は吼える事さえ叶いませんでした。


 外と内の声。

 狂った人々の声。

 狂った飛竜の声。

 黒竜も狂ってしまいそうでした。


 人々の狂気は黒竜へも向かいます。

 剣が、槍が、魔法が。

 痛みと言う痛みの中、黒竜は牙を剥きます。


 死ねない。

 此処では死ねない。

 王様は何処へ行ったのだろうか。

 魂はいまだ王様と共に。

 ならば、あの魂は何処かにある。

 いつか――生まれ変わる。


 ならば死ねない。

 此処では死ねない。



 黒竜は内側の飛竜の声に耳を傾けます。

 獣のような感情に身体を寄せます。

 喪われた魂の箇所に、その感情を受け入れます。


 少しずつ、少しずつ、黒竜は自分が変わって行くのを感じました。

 飢えが酷くなります。

 巧く考えられなくなりました。

 ただお腹が減ります。

 酷く、酷く腹ぺこです。


 人でもいい、喰らいたい、と考えました。


 黒竜は光の戒めを引き千切りました。

 身体を傷つける武器などもう気になりません。

 黒竜は飢えた獣のように、人々に襲い掛かりました。




 心の何処かで、黒竜は考えます。


 名を貰った礼を、まだ言ってない、と。



 一瞬後にはそれさえも忘れてしまいましたが。









 気付けば黒竜はまたもや封じられていました。

 今回の眠りは心地良いものではありませんでした。

 飢えて飢えて仕方ありません。

 お腹の中の飛竜たちと合わせて吼えて、吼え続けました。



 黒竜は既に獣と等しい存在でした。

 飢えのひとつのみで生きる存在。

 喰らう事だけが存在意義の飛竜。


 黒竜は僅かな封印の揺らぎを見つけ、突き破り、外へ至りました。



 外に出て、黒竜は周囲を見回します。

 少し――少しだけ、消えそうなほど弱いけれど、確かに懐かしい魂を感じました。


 ボルトラック、と。


 黒竜は自分の名を呟きました。

 会えるのだろうか。

 己の魂。己の片割れ。己が守りきれなかった、王様。

 

 

 お腹の中は空っぽです。



 黒竜はふらふらと飛び立ちました。




 名を、誰かに呼ばれます。

 それが誰かも分かりません。

 ただ王様ではないのだけど、王様の魂のにおいがするものを持っていました。

 

 王様に会わせてくれるのならば、従おうと思いました。


 ただ、もう、耐え切れないほど腹ぺこです。

 

 早く王様に会いたいと思いました。

 あの黒い瞳で見て欲しいと思いました。

 あの声で名を呼んで欲しいと思いました。

 あの優しい腕で抱きしめて欲しいと思いました。

 

 それならばこの空腹のお腹も耐え切れると思うのです。



 

 王様。

 幸せなのだろうか。

 満ちているのだろうか。

 女神には会えたのだろうか。

 

 ならば、今度は我を満たしてくれるだろうか。


 あぁ、いや、もうどうでもいい。


 会いたい。

 王様に、会いたい。


 虚ろな腹を抱えて、黒竜は途切れ途切れの意識でそればかりを考えておりました。



             終


 

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