復讐者 2章
【2】
「――クソ」
過去の記憶のように雨が降っていた。
森の中。
ようやく倒しきった狼の群れの中心にシナは座り込む。
苦痛と疲労に歪む顔はまだ若い、端正なものだ。
ただその反面は醜い火傷の引きつりで覆われていた。
目蓋こそ残っているものの、眉も睫も無い。唇も鼻も半ば形を失いつつあった。
シナはその醜い顔を歪め、己の脚を見た。
冒険者が好む厚手の衣類は大きく引き裂かれ、脚が見えていた。
脚には深い傷跡。
狼の牙の痕だ。
噛み付かれた脚が痛む。血の紅が雨に流れる。
愛剣を頼りに立ち上がろうと試みた。
血のにおいが強い。
シナから流れる血も、そして殺した狼たちの血も。
血のにおいに誘われて、野生の獣ではなく魔物たちがやってくる可能性がある。
魔物たちが活性化している噂話は聞いていた。
冥王が復活したのがきっかけだと言われるが、そんな事はシナにはどうでも良かった。
今はこの場から逃げなければ。
剣を杖の代わりに歩き出す。
脚が痛む。
クソ、ともう一度吐き捨てた。
治療の呪文を口にしようと考えたが、既に息がかなり上がっている。此処で傷を癒しても、体力を使い果たし、意識を失いそうだ。
雨の中で意識を失えばどうなるか分かっている。
まずは逃げる。
逃げて、雨を防げる場所を探す。
身体を休めて、体力を取り戻す。
すべてはそれからだ。
雨の降りが強くなる。
最近少し伸び始めた髪の端から雫が落ちた。
泥と血に塗れた黒色を見て、シナはもう一度毒づいた。
歩みは遅い。
振り返れば、倒した狼たちの屍体がそこに転がっているだろう。
それぐらいの距離だ。
離れなければ。
離れ、なければ――
雨音に混じって雷の音が響いた。
雷まで来るのか。
雷の合間――奇妙な音を聞いた。
翼の音。
羽音。
しかし随分と大きい。
魔物か、と、ようやく顔を上げたシナの瞳に、雷によって照らされる世界が映る。
巨大なシルエット。
背に翼を持つ、巨大な生き物の姿。
飛竜だ。
シナは傷付いた脚に力を入れ、剣を持って立つ。
大剣。ほぼ長方形の形をした特殊な刃。
それを構え、今にも降り立ってくる飛竜に向かい合う。
飛竜の背は空だ。
これで人が乗っているなら、竜騎士持ちの飛竜なのだろう。助けを求める事も可能だったかもしれない。
だが、誰も乗っていない。
野生の飛竜だ。
ならば、魔物と等しい。
血に誘われてやってきたか。
雷が鳴る。
竜の身体を鮮やかに照らす。
紫色の、身体。
太い脚が地面に下りた。
その衝撃でシナの身体が揺らいだ。
立っていられない。
崩れた。
剣を地に刺し、立ち上がろうと力を入れる。
脚が震えている。出血で眩暈がする。
目の前に飛竜が立っている。
立ち上がろうと哀れな努力を続けるシナを笑うように、軽く牙を見せた。
「――クソ」
何度目か分からない毒を吐いて、シナは失神した。
雨の音がする。
シナは瞳を開く。
身体の下は冷たい。大き目の岩に横たえられていたようだ。
雨音がする。
だが身体には雨が当たっていない。
何故?
疑問符と共に幾分楽になった身体を起こす。
すぐ真上に雨を防ぐ何かがあった。
手で触れる。
ごわごわとした感触。
鱗。
鮮やかな紫色。
飛竜の翼。
飛び上がった。
飛竜の翼の下から飛び出し、地面に投げ捨てられていた剣を咄嗟に掴む。
構える。
頭の右側に両手で持った柄を引き寄せる、独特の構え。
この長方形の剣を用いるに一番相応しい姿勢で、飛竜に向かい合った。
飛竜は金色の瞳を細め、こちらを見ていた。
地面に無防備に横たわっている。
そして、翼を広げ、シナに掛かる雨を防いでくれていた。
場所も先ほどの森の中とは違う。
草原に近い。森を抜けた場所だと判断する。
飛竜が、口を開いた。
鋭い牙が覗く。
――私を殺すのならば構わないが。
誰が話しているのかと焦った。
だが、微かに唸る声。それを理解しているのだと、一瞬の後に気付いた。
この竜が、話している。
人ではない、竜の唸り声。
それを言葉と認識している。
――百と少しの生。その間待ちわび続けた出会いだ。可能ならば今暫く、この逢瀬を楽しませてくれないか。
なぁ、と竜が言う。
――私の片割れよ。
シナはいまだ剣を構えたままで竜を見る。
ふむ、と飛竜が首を傾げた。
――大体の人間は片割れと言われ喜ぶと聞いたが、お前は違うようだな。
「……片割れとは何だ?」
――お前は私の魂。私はお前の肉体。遠く昔引き裂かれた一対。それが私たちだ。
「……?」
――格好つけても分かって貰えないか。ならば単純だ。竜騎士と言う言葉を知っているか?
「知っている。竜に選ばれて、その背に乗っている人間だろう」
――お前もそうなのだよ。
「……」
――睨むな。
竜が微かに笑う。
――お前を騙してどうこうしても何の意味がある? 殺したいのならば、お前が意識を失った時点で丸呑みしていたぞ。
まぁ、人など喰らっても腹は膨らまないが、と飛竜が笑った。
竜騎士。
シナは乏しい知識で必死に思い出す。
竜騎士と竜は一心同体。常に竜を傍に従える。そして飛竜の恐るべき力を自在に操れる。
この飛竜の力を、得られる。
人間よりも遥かに強い、飛竜の力。
シナは剣を下げた。
「ほ、本当に……私に力を貸してくれるのか?」
――望むならば。
「なら――」
シナは飛竜の前に立った。
金の瞳を真っ向から見る。
「人を殺す手伝いをして欲しい」
ほぅ、と飛竜が息を吐いた。
金の瞳が細められる。
挑むような色がその瞳にあった。
――この雷竜に罪の手伝いを頼むとはな。随分と勇気のある事だ。
シナは飛竜の種類などよく分からない。
雷竜は法の番人。裁きの代理人。罪を裁く為に雷と共に空から降り立つなど、到底知らない。
飛竜の言葉の意味などまったく分からなかった。
――話してみろ、人間。場合によっては、今此処でお前を肉塊に変えてやろう。それが片割れとしてしてやれる最大の慈悲だ。
飛竜の奇妙な迫力に無意識にもたじろぐ。
だがシナは話し出した。
ゆっくりと、過去の事を。
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