二人の母(終)
縁を複雑な織で飾られた白のテーブルクロスはアーツェ製のものだ。
ウィンダムに隣接する草原の国であるアーツェの織物は大陸一と言われている。男たちは牧畜を行い、女たちは男たちが育てた家畜からの収穫物の加工を行う。
一品一品が手製であり、非常に高価なものだ。
広げ、手に持ったそれをキリコは笑みを持って見つめる。
何年か前に夫であるテオドールから贈られた品。キリコの宝物のひとつである。
織物ならば、故郷のコウ国も、シルスティンも有名だ。コウ国の艶やかな織物も、シルスティンの可愛らしい織物も確かに美しい。
だが、キリコはこの複雑な文様を持つアーツェ製の織物をもっとも好んだ。
縁の飾り織を指でなぞり、キリコは顔を上げる。
ぼんやりなどしていられない。
夜にはテオドールが戻る。
何ヶ月ぶり帰宅。
寂しいなど言ってられない。
無事で、戻ってきてくれるだけで感謝しなければならない。
城勤めの騎士を夫に持った以上、戦死だって覚悟しなければならないのだから。
キリコがすべき事は決まっている。
夫の留守を守り、子を育てる。
それから、今夜のような帰宅の際には心からの迎えを行う。
料理は何を作ろう。
テオドールの好きなものが良い。ただあまり豪華なものは作らない方がいい。素朴な料理の方が彼は好む。
キリコは再度手元に視線を落として考える。
「――お母さん?」
キッチンで考え込むキリコに掛けられる声。
ドアから幼い息子が顔を出している。
キリコは笑み。
「シズハ」
息子――シズハは笑顔でキリコに駆け寄ってきた。
キリコのエプロンにしがみ付き、笑顔。
「お母さん、お父さんはいつ帰ってくるの?」
「夜にはお帰りになられます」
「コーネリアも?」
「えぇ、勿論」
「イルノリアが喜ぶね」
息子の無邪気な言葉にキリコは少しだけ苦笑。
竜騎士である以上、常に竜と騎士は共にある。
それは分かっているのだけど。
「お母さん?」
シズハはキリコの微妙な表情の変化を読み取る。
不安の混じった声で呼ばれて、慌ててキリコは普段の笑みを浮かべた。
息子と目を合わせる。
「お父様がお帰りになられるまでに、お母さんはお迎えの準備をしなければなりません。――分かりますね?」
「はい」
「シズハも、準備を手伝ってくれますか?」
「うん」
「有り難う」
シズハの黒髪を撫でる。
「庭で、玄関に飾る花を摘んできて。お父様が喜ばれるように、いっぱい」
「はい」
大きく、息子が頷く。
キリコは笑う。
そのキリコに笑いかけ、シズハが言った。
「イルノリアも一緒でいい?」
「……えぇ、二人で摘んでらっしゃい」
「はい!」
嬉しそうな飛び切りの笑顔を浮かべ、シズハはすぐさま駆け出した。
「……」
息子の姿が消えてから、キリコは動き出す。
テーブルに、アーツェ製のテーブルクロスを掛けた。
その白い布を見て、彼女はひとつだけため息を付いた。
料理の準備中にシズハは戻ってきた。
幼い両腕いっぱいの花。彼なりに選んだのだろう。鮮やかな色が並んでいる。
キリコはそれを受け取る。
「後はお母さんがやります。シズハはお父様がお帰りになられるまで良い子にしていてね」
「もういいの?」
「えぇ、有り難う。十分よ」
「じゃあ、イルノリアと遊んでるね」
息子の笑顔に笑顔で返す。
子供らしい速さで駆け出したシズハを見送り、キリコは用意してあった花瓶に花を生けた。
花は玄関に飾ろう。
花瓶を胸に抱いて歩き出し、隣室へ。
食事用のテーブルを横目に見て、ふと違和感に気付く。
「……?」
違和感。
何だろう。
足を止めて、室内を見回す。
「……ぁ」
小さな声が漏れた。
テーブルクロスだ。
アーツェ製の、テオドールから贈られたテーブルクロス。特別な日にだけ使おうと心に決めている、それ。
それが、無い。
テーブルは普段どおりの木目を晒している。
「………」
もしかして。
キリコは視線を動かす。
壁。
そして、壁の向こうの竜舎を思った。
そして。
シズハは両腕にその布を抱えている。
真っ白なテーブルクロス。縁に綺麗な模様がついた綺麗な布。
「……イルノリア」
呼びかけに、竜舎の中の銀竜は顔を上げた。
嬉しそうにシズハを呼ぶ片割れに駆け寄る。
イルノリアはまだ幼い。幼いシズハと併せたように人を乗せられないほどの小さな飛竜だ。
「ねぇ、イルノリア、頭下げて」
シズハのお願いにイルノリアはすぐに従ってくれる。
不思議そうに黒い瞳をシズハに向けてじっとしていた。
その彼女に笑いかけて、テーブルから剥いできた布地を頭に被せた。
思わず小さな歓声が漏れた。
「イルノリア、可愛いよ」
両腕でイルノリアの細い首を抱く。
「本当にお嫁さんみたいだ」
見かけたテーブルクロス。
前に見た村の結婚式。花嫁さんは頭から白い布を被っていた。縁を綺麗なレースで彩られた、シルスティン製の織物だと自慢していた。
お嫁さんはああいうものを身に付けるらしい。
綺麗だな、と思った。
イルノリアにもあげたいと、ずっと思っていた。
イルノリアの銀色の顔に顔を寄せる。
「ねぇ、イルノリア」
細い、金属の声。
瞳を細めて嬉しそうに顔を摺り寄せる、綺麗な銀竜。
「大きくなったらぼくのお嫁さんになってね」
イルノリアの答えは簡単だった。
なる、と一言、鳴いた。
お嫁さん。
もう何度も言った約束。何度も確認している約束だ。
人と竜は結婚出来ないと、意地悪な村の子供は言うけれど、自分とイルノリアが最初の一組になればいいのだ。
簡単な事。
だって、こんなに大好きなんだから。
「――シズハ」
突然聞こえた低い声に本当に驚いた。
イルノリアの首を抱いたまま、後ろを見る。
「お母さん」
「……何をやっているのですか……」
低い声。
本当に低い声。
何が何だか分からないが、キリコが本気で怒っているのだけは伝わった。
夜。
もう眠るようにとシズハを自室に送ってから、部屋にはテオドールとキリコの二人きり。
ソファに座ったテオドールは先ほどから上機嫌だ。
帰宅直後は驚いたが。
竜舎にコーネリアを入れようとそちらに行けば、既に大泣き状態のシズハとイルノリアがキリコに怒られていた。
あまり悪さもしないシズハが此処まで怒られているのは珍しい。
何とか宥めるのに一苦労。
仕舞いにはキリコまで泣き出した。
夫からの贈り物を守れなかったのが情け無いと、大泣きした妻を宥めるのにさらに一苦労だった。
「――もう機嫌を直せ、キリコ」
「怒ってはいません」
手に持ったトレイの上には酒とグラス。
グラスの数はふたつ。
酒を口にしようとしているだけ機嫌は良いのだろう。
「……折角の貴方のお帰りだと言うのに、情けない姿を見せた私が恥ずかしいだけです」
「お前の泣き顔は可愛い」
「…………」
キリコの顔は耳まで赤い。
「こ、この大陸の男性は恥ずかしげもなくそういう言葉ばかり」
テオドールは笑う。
目前に立ったキリコに向かい、腕を広げる。
キリコは少し迷う。手に持ったトレイを見る。
が、それを横のテーブルに置くとテオドールの膝に腰掛ける。
久しぶりの妻の身体を抱きしめて、テオドールは少年のように笑った。
「――テオ様」
夫婦となった今でさえも敬称が抜けない妻の呼び方に軽く声を返す。
少しばかり不安の混じった色。
「私は、貴方様に満足して頂ける妻でしょうか」
「お前のような良い女を妻として、不満があったら私はどれだけの愚か者だ」
「嬉しいお言葉有り難うございます」
でも。
「テオ様の妻となろうと決めた時、私は誓ったのです。良い妻となり、母となろう、と。――家を守り、子を産み、立派な跡取りを育てようと。それが妻となった私の役目だと思ったのです」
随分と古い考えだ。
だが、キリコらしいとも、言える。
「シズハは、跡取りに相応しい人間に育ちますでしょうか」
「何が気になる?」
「あの子は竜に依存し過ぎている気がします」
イルノリア。
シズハの片割れ。
物心付くより先に傍らにいた、銀の飛竜。
「人間に興味が持てないらしいのです。何よりもイルノリア優先。――まるであの子の世界はイルノリアだけのよう」
ため息。
「……これで良いのですか?」
「大丈夫だ」
宥めるように妻の身体を軽く叩いた。
「シズハは竜騎士だ。それぐらい何処の竜騎士にだってよくある。大人になれば少しずつ変わっていく」
「ですが、このままではあの子……本当にイルノリアと結婚しそうで」
「それも大丈夫だ」
テオドールは笑う。
妻の髪を撫でた。
「私も昔、コーネリアにプロポーズした事がある」
「………」
「怒らないで聞いてくれ。子供時代だ。――今のシズハよりも熱心に、父の片割れだったコーネリアにプロポーズしたものだ」
声に出してテオドールは笑った。
身体を預けてくる妻の瞳を覗き込む。
「だけど、私はちゃんと人の妻を得た。――なに、ちゃんと運命がある。誰か、あの子に相応しい素晴らしい女性に出会えるさ」
「……分かりました」
貴方の言葉を信じます。
キリコはそう言って笑った。
その笑みが少しだけ、曇る。
「……私は幼い頃から剣ばかり。女としての幸せなんて要らないと武術の神に誓いを立てました」
テオ様。
キリコの呼び掛け。
「その私が、妻となり、母となり……幸せになってもいいものなのかと、いまだに、不安になります。――いつか、神が私からすべて奪ってしまうのではないか、と」
「キリコ」
妻の身体を抱きしめる。
「大丈夫だ。そんな心配などしなくても良い。――お前の幸せは、私が守る」
「……はい」
腕の中でキリコが頷く。
テオドールに軽く口付ける。
少女のように頬を染めて。
「どうか、お願いです。ずっと、お傍に置いて下さい。一生……キリコをお傍に置いて下さい」
言葉でなく、抱きしめる腕で答えた。
キリコが小さく、小さく、息を吐いた。
――イルノリアはそれに気付く。
すぐ横に眠っていた母親代わりに金竜、コーネリアの動き。
瞳だけ開いて動きを伺う。
コーネリアは頭をもたげ、じっと視線を壁に向けていた。
そちらには母屋がある。
何かあったのだろうか。
イルノリアには何も分からない。
ただ今のコーネリアは無言のまま、そちらを見ている。
普段は優しい瞳が、今は少しだけ怖い。
どうしよう。
コーネリアを呼ぼうか。
呼んで、擦り寄ったらいつもみたいに優しいコーネリアに戻ってくれるだろうか。
どうしよう。
迷うイルノリアの耳に軽い足音。
シズハだ。
喜びの声は一本立てられた指で封じられた。
腕に毛布を抱えたシズハは、イルノリアとコーネリアの間に嵌まり込んだ。
「お父さんとお母さん、ずっと二人でお話してるんだ。つまんない」
シズハは不機嫌そうに頬を膨らませる。
「ぼくだって、お父さんとお話したいのに。――でも、考えたんだよ?」
笑う。
コーネリアを見上げる。
「お父さんのお話なら、コーネリアに聞けばいいって。ね、コーネリア。コーネリアはお父さんとずっと一緒だものね、お父さんの事なら何でも知ってるよね?」
そこでシズハはようやく気付く。
コーネリアのいつもと違う様子に。
「どうしたの? コーネリア? どこか痛いの? お父さんを呼んで来る?」
矢継ぎ早のシズハの質問にコーネリアの空気が和らぐ。
人で言えば笑ったと同じ。
ゆっくりとその頭をシズハの顔に摺り寄せる。
大丈夫。何も心配しなくても良い。私は大丈夫。
さぁ、夜も更けた。今夜はお眠り、子供たち。
今夜は私がお前たちの母となろう。
お前たちの夜を私が守ろう。
くすぐったそうにシズハが笑う。
「お母さん?」
呼び掛けにコーネリアが笑った。
何だかとても嬉しそうな笑みだった。
毛布を身体に巻き付けて、シズハはイルノリアの身体に寄りかかる。
コーネリアもそのすぐ横に身体を寄せている。
二匹の飛竜に守られるような姿でシズハが笑う。
「おやすみなさい、イルノリア――それと、コーネリアお母さん」
シズハとイルノリアを守るように身体を寄せたコーネリアが纏う雰囲気がとても優しくて、イルノリアは嬉しくなる。
シズハが来てくれて良かった。
コーネリアがちゃんと優しいお母さんに戻ってくれた。
ありがとう、シズハ。
礼の言葉にシズハがもう一度笑った。
子供たちが眠りに落ちて、コーネリアはもう一度だけ母屋に顔を向けた。
そして、小さく息を吐いた。
終
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