夢幻の塔 − 4(だって本当に美味しい)

 

 カランカラン、とドアベルが軽やかに来訪を知らせる。

 駅から数分、少し奥まったところにあるレトロな純喫茶には外れがない。

 優しく、穏やかで、コーヒーへのこだわりと愛が深い初老のマスターがいれば完璧だ。


 入口に書かれた「禁煙」の文字と、レンガであつらえられた内装。やや薄暗い店内にはバーカウンターと、ちょっとした相談事ができそうな四人掛けのテーブル席がいくつか置かれている。歌詞のないクラシックは頭上のスピーカーから。静かな雰囲気を阻害しない程度の音量で流れていた。


 最高だ。大当たり。

 いらっしゃいませ、とバーカウンターの向こうから微笑みかけてくる白髪のマスターに、ハイタッチして抱き着きたくなる程度には大当たりだ。


 一歩店内に入ればそこはもう別の世界である。

 店内では、壁に掛けられた幾つもの時計が好き勝手にその針を進めていれば、ここはもう外とは別の時間が流れているに違いない。

 店内を彩る珈琲の深い薫りに、シキミの口からは小さくほうと息が漏れた。



 カップを丁寧に拭いているマスターの前、四人掛けのテーブルに向かい合って腰を落ち着けた二人は、メニューを覗き込んで悩んでいた。

 世の中にはこんなにも種類があるのか、と思うほど羅列された珈琲の名前には、シキミの知らないものなどいくらでもある。

 その中で馴染みのある、あまり苦いものが好きではないシキミのお気に入りの一つ。


「私、ウインナーコーヒーにします。ジークさんは?」

「たかが珈琲と侮っていましたが、随分名前があるんですね。……コレット? と、コンパナどちらがおすすめですか?」


 慣れていそうな貴女にお任せします、と一任され、共有されていたメニューはそっとこちらへと押し出される。


「甘いのとお酒が入ってるの、どっちがいいですか」

「……お酒ですかね」


 一瞬の間の後。少し恥ずかしそうにそう言ったジークに、やっぱりな、と苦笑が漏れる。

 一滴も飲めませんとばかりのお綺麗な顔をしておいて、彼は結構よく飲む。

 いっそ清々しいと思える程空にされ、次々と床に転がされた瓶と樽のことを私は一生忘れられそうもない。

 それだけ飲んで顔色一つ変えないのだから、酒気の苦手なシキミからしてみれば羨ましいような気さえするものである。


「それなら、コレットをお勧めします。リキュールかブランデーというお酒が入ってると思うので」

「じゃあ、それで」


 オーダーの後。コーヒーメーカーから漂う一層強い珈琲の香りを楽しみながら、シキミは茫洋と窓の向こうを眺めていた。

 年月をかけて少しだけ埃っぽくなった硝子ガラス越しの世界は、やっぱり少し騒々しく、ほんのちょっとだけ色褪いろあせて見える。

 多分、この閉じられた空間の向こうには、ジングルベルと口ずさむ少女の声が木霊しているのだろう。

 転生する前の私は、あの彼女たちのように、友人と異国の祝日をお祝いしていたりしたのだろうか。


「ウインナーコーヒーとカフェ・コレットです。どうぞ」


 いささかセンチに浸ったシキミの目の前に、クリームのたっぷり浮かべられた珈琲が置かれた。

 一頭立ての馬車アインシュペンナーとも呼ばれるそれは、濃く淹れた珈琲に同量のクリームを乗せたもの。

 ジークの頼んだコレットには、きっとブランデーが入っているのだろう。ほんのり甘い果実の匂いが珈琲の苦い薫りに混じる。


 一口含めば冷たいクリームの甘さと、熱い珈琲の強い苦みが渦を巻く。濃い珈琲は苦いが、後に残らない絶妙な苦みと酸味。鼻を通り抜ける香りには、うっすらとラムが混じっていた。


 ああ、本当に大当たりだ。この近辺に住んでいたら確実に通っていただろう。

 一口、もう一口。ふうふうと冷ましながら、何度か口の中で転がす。


 これはもう、最高の一言に尽きる。


 ちらと向かいに視線をやれば、それはもう嬉しそうな顔をしたジークが、本当に美味しそうに飲みますね、と笑った。



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