第10話
稲葉は全身で呼吸した。
呼吸しながら稲葉の側の空間にあるエネルギーを貪欲に吸収した。貯めるだけため込んだ。音はもはや存在していない。エネルギーでげっぷが出そうになった瞬間、両手を握りしめて体内に栓をした。
そのままじっとしていると、程なく詰め込まれたエネルギーが発酵を始め、器であるからだの筋肉がぱんぱんに膨れ上がった。もうこれ以上発酵が進むと体が破けそうになる直前、そのエネルギーの放出の方向をボールを持つ指先に標準を合わせた。
見ると島原も体が膨張し、一回り大きくなったように見える。二人の中間の距離にある人工芝が微かに焦げ臭くなった。ゆっくりと稲葉は始動を開始した。それは見方によれば能の舞にも見える。島原はその間微動だにしなかった。島原の足が地面に食い込み、そのまま放って置かれたら全身が土のグランドにズブズブと沈んでしまうかのようであった。
稲葉の片足が頂点に達してから、動きは一変した。大きく前に踏み込んだ下半身を、上半身が悲鳴を上げて追っかけてきた。
稲葉は硬い球を投げた感覚はなかった。手先にまとわりついていたエネルギーの泡がもの凄いスピードで打者に向かって体から発射された感覚だ。エネルギーの泡に包まれた球に、島原は果敢にバットを振り出した。ボールとバットが振れた瞬間、誰の目に見てもボールとバットが一瞬静止した。
バットがきしみながら後ろへしなった。押し相撲はボールが勝ったのかと思えた瞬間、バットのヘッドがしなりの反動で前に繰り出された。ボールは鋭い打球音とともに空へ弾かれていった。
打球を見なくとも投手は打球音、弾かれた球の角度でその行き先を知る。
この勝負はやはり負けたと稲葉は悟った。自然と両手両膝が地面に着いた。惨めな敗戦の姿をマスコミに撮られたくない。そう思い直して体を起こした。精一杯のプライドである。
その時初めて音を意識した。大歓声が稲葉の耳をつんざく。見ると捕手がマスクをかなぐり捨てて口をぱくぱくし、両手を広げて稲葉に突進してくるのが見えた。やがてナインがそしてベンチの全員が稲葉に突進してきてその体をぶつけてきた。
外野手からウィニングボールを渡されて、初めて島原の打球がフェンス際で失速し外野手のグラブに収まっていたことを知った。
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