第9話

 稲葉はふと死球を狙って投げたのは初めてでない事を思い出した。


 あれは夏の甲子園。序盤2アウト、ランナー2・3塁で、今大会話題の好打者を迎えた場面だ。タイムをとってボールを掌でこねながらマウンドにやってきた島原が稲葉に言った。


「普通で考えればここは敬遠だな」

「ああ」

「でも、全国放送で敬遠はしゃくだよな」

「同感だ」

「勝負と見せて外すのも中途半端な気がするし、なんかいい方法はないか考えたんだが、一つだけ閃いた」

「なんだよ」


 島原はにやついた口元をミットで隠しながら言った。


「死球だよ」


 稲葉は絶句する。


「おい、高校野球でそういうの止めようよ」

「いや、ここで軽く当てとけばやつは次の打席で余計なことを考えるようになる。今後俺達に有利だ。これも戦略というやつだよ。監督も日頃から頭使えって言っていたろう」

「でも。相手が怪我したら大変だろう」

「同じ4番だから俺ならわかる。向かってくる球を体の何処へ当てるかはピッチャーの責任じゃなくて、打者の技量なんだよ」


 島原は両手でしごいたボールを稲葉に渡した。


「いいか、1球目をシュート回転であいつの肘ねらって投げろ」


 ウィンクしながら、そう言い残すと、島原は守備位置へ帰っていった。


 稲葉は躊躇しながらも島原の言うとおりに投げた。

 しかしこの時も躊躇が腕の振りと指の切れに無意識に出た。球筋は打者の肘よりちょっとホームベースよりのコースを走り、シュート回転も不足して打者の手元で落ちた。

 もちろん打者は1球目から打ち気であったから勢い良く振り出した。バットは球の上部を擦り、球は下方に軌道を変えて直接島原の股間に炸裂した。

 島原は暫く地面にうずくまったまま動かず、稲葉が駆けつけると目にいっぱい涙をためて途切れ途切れに言った。


「天罰だ…」


 稲葉は苦しむ島原を見下ろし、笑いながら言った。


「野球の神様は、何も考えずただ思いっきりやれって言っているんだよ。きっと」



 どちらが先に笑い始めたのか誰も解らない。しかし、気がつくと二人はそれぞれバッターボックスとマウンドから大声で笑い合っていたのだ。

 この二人の笑い声にベンチを飛び出した両軍選手とも呆気にとられた。この場違いな笑い声に拍子抜けして両軍選手はベンチに戻り始めたが、ピッチングコーチはそれでは収まらない。なおも稲葉に突進しようとするのを監督が制した。


「ほっとけ。一応リリーフエースのあいつを替えて負けたら、フロントになんて言われるか、想像してみろ。それこそ来年の契約が危なくなるぞ。こうなったらどんな結果が出ても、すべて稲葉の責任ということにしなければ、」


 両軍選手がベンチに退いた後、しばらくすると球場で動くものは稲葉と島原だけとなった。捕手もサインを出す動きさえ止めていた。守っているナインを含めて、すべてのものが二人の勝負の行く末に集中した。

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