第8話

 稲葉は小走りに戻る捕手の揺れる背番号を見ながら、勝てないが負けないもうひとつの方法を思いついた。


 サヨナラ満塁弾を浴びるよりはいい。投手として一番罪深い決断である。


 捕手が構えに入ると、稲葉はセットポジションについた。彼が狙っているのは、捕手が構えたミットではなかった。

 躊躇を振り切って動き出した彼の体は、慣れない狙いのせいか、いつもよりちょっと早いリズムで動き、打者方向への開きが大きくなった。その上半身の開きに帳尻を合わせるため、自然と腕が急がされ、しかも球のリリースポイントがいつもより早く、その結果稲葉の手を放れた球は狙いよりボール2個分右上にそれた。

 幸か不幸か、そのお陰で、島原は顔にぶつかる寸前のところで球をかわす事が出来たが、もんどり打って地面に倒れた。稲葉は力が両手の指の間から、するすると逃げていく感覚を味わった。

 頭が混乱していた。

『もう駄目だ。』と『当たらないで良かった。』が交互に彼の頭に飛来した。失意と自己嫌悪の中でバッターボックスを見ると、島原はバットを利き腕に持って、稲葉を見据え仁王立ちになっていた。


 稲葉はそんな島原の姿を見て、自分への腹立ちの矛先を島原に向けた。彼は顔を上げ島原をにらみ返した。この二人の様子を見て両軍の選手がベンチを飛び出した。

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