第6話

 稲葉は彼を呼ぶ声で我に返った。


 気づくと捕手が彼を心配そうに見つめていた。野球が好きであれ嫌いであれ、マウンドに立っている今は、島原に勝たなければならない。

 思い直した彼は、捕手の肩を抱え込むと、グラブを口元にあてながらようやく聞こえる声で言った。捕手は呆れた顔で見返したが、稲葉に尻を叩かれて仕方なく自分の位置に帰った。


 そんなバッテリーのやりとりを見て、島原は多少の警戒心を持ってバターボックスへ入った。

 稲葉は軸足をセットする。その時、捕手は大きく腕を広げて立ち上がった。稲葉が何の躊躇もなく立ち上がった捕手の、しかもようやく手の届くコースに投球すると、スタジアムに満杯の観客は何が起きているのかをようやく理解して大きくどよめいた。

 それはベンチも同様で、その全員が思わず腰を浮かした。稲葉は構わず次の投球の準備をする。次の投球も同じ事態となると、客席は騒ぎはじめ、その声に押し出されるようにベンチからはピッチングコーチが脱兎のごとく飛び出してきた。


「稲葉、状況は解っているだろうな。歩かせるつもりか」

「ええ…俺にはもう島原に投げる球が残っていないんですよ」

「なんのことだ?」

「島原を歩かせれば、同点にはなりますがまだ勝機は残ります。次の回で勝ち越せはいいんですよ。奴の後の打者は絶対抑えますから」

「お前ふざけてるのか?」

「いえ、大真面目ですよ」


 ピッチングコーチは驚いたように稲葉の顔を見つめた。


「何言ってんだ。お前は島原を追い込んでいるんだぞ。なにもここから敬遠することはないだろう。くさいところ攻めるとか、他に料理の仕方はいろいろあるじゃないか」

「いえ、生半可な攻め方で球を投げ込めば、必ずあいつにスタンドにぶち込まれます」

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