第5話
「私もたくさんのプロ野球選手を見てきたからわかるの。あなたが、プロとして当たり前の努力と練習を決して怠っていないことは良く解っているわ。でもあなたが野球を好きだとは到底思えない」
稲葉は最後に逢った時に彼女が口にした言葉を思い出した。
ラーメン好きの彼がファーム時代練習の帰りに良く通っていたラーメン屋。
その店には親父に似ても似つかないキュートな娘がいた。彼女は、OLとしての勤めから帰ってくると、よく店を手伝っていた。狼の群とも言えるファーム連中が黙っているわけがない。何人もの選手がファーム時代に積極的にアタックしたようだが、誰にもなびいたことがない。
通い初めて1年も経ったろうか、稲葉は自分が注文したラーメンと他の人のラーメンが違うことにようやく気づいた。彼のラーメンには、焼き豚が他の人より多く入っていたのだ。その違いに気づきラーメンから顔を上げると、伏し目がちに色白の頬を薄く赤らめた彼女の顔があった。
早く1軍へと焦る彼にとって、練習の合間に彼女と過ごす時間は彼に安らぎを与えた。彼女の暖かい思いは彼にとってかけがえのないものとなっていた。しかし長いファーム時代からようやく1軍の兆しが見えた頃、彼女は去っていった。彼女の稲葉に対する思いが熱くそして真剣になればなるほど稲葉は戸惑い、彼女から距離をおいていった結果だった。
不思議なことであるが、稲葉はファーム時代から野球をすればするほど自分の野球選手としての終わりを強く感じていた。ゴッドボールの球数は限られていたし、増えることはない。彼にとって野球は生産的なことではなく、どうしようもなく消費的なことであったから、彼女を好きになればなるほど、消費されていく自分の姿を彼女に見られるのが嫌であった。事実、彼は野球が大嫌いになっていた。
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