夢か現か妄想ですか

藍間真珠

夢か現か妄想ですか

 昼休みは、あたしにとって重要な時間の一つだ。

 購買で一番人気の焼きそばパンを手にしながら、お気に入りの音楽を聴く。それが窮屈な学校でくつろぐための最もいい方法だった。煩わしいことを考えることなくぼーっとできるのは、価値の高い幸福の一つだと思う。強く思う。

「おーい、みつ、みつ、美津江ー」

 だけどそれが長続きしないのも恒例で。いつも通りブレザーを引っ張る腕があって、あたしは渋々とヘッドホンをはずした。

 腕の主は祥一だ。黙っていればイケメンの典型とか言われているけれど、あたしにとっては馬鹿な幼馴染みでしかない。脳天気にくだらない話をするのが好きで、しかもそれにあたしを巻き込むのが得意だった。

「何さ」

「暇、ひーまー。今日はまだ野口の奴は来てないのか?」

「来てたら一人でいないって」

 あたしと祥一は不幸にも、高校に入って二年も同じクラスだった。けれども野口は今年から隣のクラス。だから今までのように、四六時中一緒というわけじゃあなかった。でもまだ新しいクラスに友達がいないのか、頻繁に遊びには来ている。

「みっちゃん!」

 すると突然背後から声が聞こえて、あたしの首に細い腕が絡みついてきた。これじゃあ焼きそばパンが食べられない。

 あたしはパンを袋の上に置くと、半眼になって頭上を仰いだ。そこには案の定、楽しそうな奈美の顔がある。勝手に口元が引きつるのが自分でもわかった。

「もうみっちゃん、一人ですぐ行っちゃうんだからー。少しは待っててくれてもいいじゃない」

「だって奈美、歩くの遅いでしょう。あたしの焼きそばパンはすぐに売り切れちゃうの」

「毎日食べなくたっていいのにー」

 間の抜けた甘ったるい声の奈美は、たぶんクラスの中では人気がある方なのだろう。今だって甘えてくる奈美に向けて、ちらちらと男子生徒の視線が向けられている。

 綿菓子のようなという表現がぴったりな、ふわふわとした髪。色素の薄い瞳は人形みたいで、確かにかわいい顔立ちだった。あたしとは真逆だ。

 ただ一点、問題となる癖があるのを他の人は知らない。

「で、今日はどうしたの?」

「さっき実はさー、小谷君が町村さんと喋ってるの見ちゃったんだよね。もう、それがいい雰囲気で!」

「ふぅん」

「小谷と町村? ああ、確か同じ放送部員だったよな。確か町村が飛び入り参加したとかなんとかで」

 奈美の話に、頬杖をついた祥一が不思議そうな顔をする。まだ祥一はよく理解していないのだ、奈美の趣味を。脳内カップル捏造という、いいんだか悪いんだかわからない趣味があるということを。

「でね、小谷君の手が町村さんの指に触れてさー」

「へぇ」

「そしたら町村さん、困った顔してさー」

 楽しそうな奈美の言葉に、あたしは気のない返事をする。それでも奈美はかまわないらしかった。話しているだけで満足なのだ。

 だいたいこんな話を毎日聞いてあげているなんて、そんな気のいい友達は普通いない。気持ち悪そうに見られたことも何度かあったらしい。あたしにとってそれは、祥一や野口の趣味と大差ないから平気だけれど。

「……それは俺も見てたけど。でもあれは他の奴がぶつかりそうになったから避けただけだろ。そんな風じゃなかったと思うけどなぁ」

「それは里中君が鈍感なだけなの!」

 祥一の否定に、奈美は語調を強めた。奈美の妄想がただの勘違いと違うところは、普通の何てことないやりとりに全てストーリーをつけてしまう点だ。そしてそれを家に帰ってからもずっと考えているらしい。それはしばらく続く。

 今のところあたしはその対象にされていないからいいけれど、された方はたまらないだろう。知らない方がよい話だ。

「そうかなあ」

 まだ祥一は首を捻っている。奈美はあたしの首から離れると、祥一のすぐ横に胸を張って立った。その横顔に自信が満ち溢れているのがすごいところだ。

「そうなの! ねー? みっちゃん」

「うん、祥一が鈍感ってところには同意するわ」

「ちょっ、何でそこ同意するんだよ!」

 祥一が声を荒げて、あたしのブレザーをまた引っ張ってきた。まだ着て一年ちょっとだというのに、もうよれよれになりそうだ。

 あたしは溜息を吐くと、袋の上の焼きそばパンを手に取った。毎日のことだけれど、食事くらいゆっくりとさせて欲しい。

「昨日あんた、後輩振ったでしょう? あれ、噂になってるよ」

「……え?」

「嘘だと思うなら確かめてみたら? あの野口でもたぶん知ってるから」

 あたしの言葉に、わかりやすく祥一は慌てた。そして急いで教室を出ると、隣のクラスへと駆けていった。確かめに行ったのだろう。その後ろ姿を見送りながらあたしは笑った。これでゆっくり焼きそばパンが味わえる。

「みっちゃんって、策士だよねー」

 呆れてるのか感心してるのかわからない口調で、奈美がつぶやいた。けれどもそんなことは気にせず、あたしは焼きそばパンを頬張った。



 帰宅部なあたしは、授業が終わるとぶらぶらしながら家に帰る。だから今日もそのつもりで鞄を肩にかけ、教室を見回した。

 奈美は補講があるとか言っていたし、祥一は部活の日のはずだ。帰りは音楽を聴きながらのんびり過ごせるだろう。

 だけどもそう思って鼻歌交じりで教室を出ると、その右手には予想外にも野口がいた。特徴ないのが特徴と言われる眼鏡に、少し癖のある髪。鞄を手にした野口は、あたしを見るなり声をかけてきた。

「金山!」

「え? ああ、野口じゃない。どうかしたの?」

「その、ちょっと話があるんだけど……いいかな?」

 野口の様子は、今までと少し違った。何かを思い詰めたような瞳だし、視線も落ち着いていない。

 でもあたしは首を傾げながらも、結局は頷いていた。断る理由もなかったからだ。今日は気になっている芝居もないし、明日の予習も必要ない。

「話って何?」

「いいから、とにかく一緒に放送室まで来て」

 歩き出した野口の後を、あたしはついていった。野口は一年の頃からずっと放送部に入っている。元々写真が好きで、映像にこだわりがあるようだった。

 いや、正確に言おう。彼は血を表現するのが好きなのだ。もちろん本物を使うわけにはいかないから、どうすればリアルに近づけるのかといつも研究していた。そのせいで放送部の中でも浮いているらしい。

 放送室は、教室からはそう遠くない。明かりのついていないその部屋に入った野口は、傍にあるはずのスイッチを手探りで見つけだした。パチリと音がして蛍光灯がつく。

 あたしも部屋に入ると、音が出ないようにゆっくり扉を閉めた。この扉が意外と重くて、結構いい音を立てるのだ。

「金山」

 あたしが振り返ると、そこには真剣そうな野口の顔があった。それほど背が高くない野口は、あたしとほとんど変わらないくらいだ。それはあたしが背が高いせいだと、野口は反論するだろうけど。

「野口?」

 野口の顔を目の前にして、あたしは眉をひそめた。真剣すぎてギラギラ輝いて見えるこの瞳に、段々嫌な予感がしてくる。あたしは息を呑むと首を傾げた。長めの前髪が落ちてきて、頬にかかる。

「俺、今度コンテストに出るつもりなんだ」

「そ、そうなんだ」

「そのヒロインには、金山が相応しいと思うんだ」

 予感は的中した。的中してしまった。熱のこもった口調の野口から目を逸らし、あたしは必死に断る理由を考えた。

 野口の作品ともなれば、たぶん血みどろが当たり前のホラーみたいなのだろう。スプラッタ系は苦手だと言ったら、そうではないと以前熱弁していたけど。どうもその辺にこだわりがあるらしい。

 しかし何にせよ、そんなのあたしはごめんだった。血まみれにはなりたくない。どこかで誰かに見られたら、また何を言われるか。

「いや、あたしヒロインなんて柄じゃないし」

「そんなことないって! それに今回は、金山のその凛としたところが作品に必要なんだよ。お願い、金山」

 野口の手が伸びてきて、あたしの腕を掴まえる。背後に重たい壁、目の前には必死な野口と、逃げ場のない状況だった。

 だけど冗談じゃない。確かにあたしは野口の趣味にも動じない珍しい人かもしれないけれど、それとこれとは話は別だ。

「お前じゃなきゃ駄目なんだよ、金山。もうそれで里中には話つけちゃったんだよ」

「え、祥一?」

 だけどもそこで思いがけない名前が出てきて、あたしは叫びかけた言葉を飲み込んだ。話をつけたということは、まさか祥一も出るのだろうか?

 あたしは顔をしかめて野口を見た。それを野口は良い方向に捉えたらしく、眼鏡の奥で瞳が輝きを増す。あたしはそれ以上無闇に期待させないようにと、慎重に言葉を選んだ。

「まさかその作品、祥一も出るの?」

「そうなんだ! 作品の構想を話したら里中出たいって言うから。俺嬉しくて」

「……その、ちょっと聞いてもいい? 何で祥一があたしじゃないと駄目だって言うのか」

 怖々と問いかけると、野口は頷いた。そして笑顔のまま口を開いた。

「そりゃあもちろん、金山に踏まれたいからだってさ」

 襲い来る鈍痛を、どうにかする術はなさそうだった。



 野口のしつこい誘いを何とか退けたあたしは、次の昼休みを恐れていた。

 昨日祥一が特に何も言ってこなかったのは、あたしが引き受けると思いこんでいたからかもしれない。いや、そもそも話が出たのが昼休みのことだったのか。

 けれどもあたしが断ったと知れば、祥一は詰めかけてくるはずだ。その時のことを考えると、気分はどんどん重くなっていった。

 奈美や野口と同じで、祥一にも知られざる趣味がある。脚フェチ、という奴だ。陸上部に入ったのも、理想の脚を追い求めるためらしい。

 でも何かにこだわりを持つのは珍しいことじゃないと、今まであたしはそんなに気にしてこなかった。二人に比べればましだろう、くらいに考えていた。しかし今回のことでわかった、たぶん同じ穴の狢だ。

 小学生の時、あいつをバレエの発表会になんて呼ばなければよかった。あれさえなければ、きっと祥一だって道を踏み外さずにすんだのに。――これはもしかすると、あたしの責任だろうか。

「みっちゃん、変な顔ー。ねえねえ、どうかしたの?」

 けれども最も警戒していた昼休み、あたしに話しかけてきたのは奈美の方だった。そのことに安堵したあたしは、肩の力を抜くと背もたれに寄りかかる。

 購買から戻ってきても、教室に祥一の姿はなかった。ひょっとしたら部会か何かかもしれない。だとしたら幸運だ。

「あ、今日は焼きそばパンじゃないんだ。もしかしてそれで不機嫌なの?」

「まさかそれくらいで。だいたい、変な顔なんてしてないって」

「えーだっていつもそれ食べるの邪魔すると怒るじゃない。すっごい冷たい顔してさー」

 奈美は空いている隣の席に勝手に座ると、袋から菓子パンを取り出した。それでお腹がふくれるのかと不思議なくらい少量で、しかもいつも甘い物しか食べない。

 あたしは奈美の手元をぼんやりと見つめた。パンを小さくちぎっては口元へ運ぶ動きは、信じがたいくらいにのろのろしている。

「あのさー、みっちゃん」

「んー?」

「私さ、ひょっとしたら里中君のこと好きなのかもしれない」

 でもその口から放たれたのは予想外の言葉で。あたしは全ての動きを停止させると、奈美の顔をまじまじと見た。

 いくら当人がいないからって、こんなところですべき話題とも思えない。だいたい、今まで奈美からそんな話を聞いたことがなかったのだ。突然すぎる。

「ちょっと、いきなりどうしたの奈美」

「前から変だとは思ってたのよね。どうしてだか里中君にだけは妄想がわいてこないのよ。でもそのうちにきっと、と思ってたんだけど……ひょっとしてこれ、私が里中君のこと好きだからじゃないかって気がしてきて」

 あたしが困惑していると、奈美は一人で勝手に喋り始めた。それがどうして好きかもしれないに繋がるのか、正直よくはわからない。

 でもそれってつまり、あたしや野口は一度妄想の対象になったことがあるってことだろうか? そう考えるとちょっと寒気がしてくる。

「ねえ、どう思う? みっちゃん」

「あたしにあんたの気持ちがわかるわけないでしょう」

「うーん、そうだよねえ。あー里中君戻ってこないかな。顔見たら何か確信できるかもしれないのに」

 相変わらずのんびりとしたペースで、奈美はパンを食べる。あたしは適当な言葉を返しながら、今後どう対応すべきかを考えた。ただでさえ昨日面倒なことが発覚したばかりだというのに、奈美までこんな話を持ってくるなんて。

「ねーねー、みっちゃん。みっちゃんは里中君のことどう思ってるの?」

「は? あたし? そりゃあ脚フェチの幼馴染みだけど」

「わあ率直だね。さすがみっちゃん」

 あたしの答えに、奈美は曖昧な笑顔を浮かべた。安心してるのかしてないのか、わかりにくい表情だ。あたしは瞳をすがめると、紙パックのコーヒー牛乳を手に取る。

「ここでオブラートに包んだって仕方ないでしょう」

 本当に奈美は祥一が好きなのだろうか? 今まで考えてもみなかったから、そう言われてもしっくりとこなかった。少なくともそんなそぶりはなかった気がするけれど、あたしも鈍い方だから断言はできない。

 だから奈美には適当に答えて、あたしは笑いながらストローを口にした。

 とりあえず祥一と野口には会わないようにしよう。昼休みが終わると再度、あたしは固く決意した。

 でも不思議なことに、その後二人はなぜか接触してこなかった。昨日の話は夢だったのだろうか? そう思う程に穏やかな時間が続いた。祥一とは視線さえ合わなかった。

 結局何もないまま授業が終わって、あたしは帰り支度をしながら祥一の姿を探した。いつもすぐに教室を飛び出してしまうあいつは、今日もやっぱりいない。それを確認してあたしは一安心した。

 今のうちに学校を出よう。祥一や野口に見つからないように帰ろう。そう思って教室を出たのに、なぜだか真っ直ぐ家には帰る気にもなれなくて。よくわからないけれど気分が重かった。

 かといって教室に戻るのも危険だったので、あたしは前から気になっていた芝居を見に行くことにした。時々見に行くナンセンス系が主体の劇団は、前もって日程をチェックしてある。

 あたしは手帳を引っ張り出すと、開演時間を確認した。これなら今から向かっても間に合いそうだ。お金も十分あるし。

 けれども玄関を出たところで、不意に用事を言いつけられていたことを思い出した。昨日担任の笹山先生が、校庭裏の草むしりをしてくれと頼んできてたっけ。

「……どうしよう」

 靴箱に手をかけながらあたしは顔をしかめた。忘れた振りして帰ることもできるけれど、思いだしてしまった以上それも少し気分が悪い。

 時々不思議な冗談を言う笹山先生が、結構あたしは好きだった。園芸が趣味の先生は、いつも一人で草むしりまで担当している。それなのにこの間腰を痛めてしまったらしい。もし皆が雑草を放っておけば、あの先生は腰をさすりながら自分でやるだろうか。

「ま、仕方ないっか」

 校庭裏なら祥一たちも来ないだろうと、あたしはそう思い直した。芝居は今日だけじゃあないし、祥一たちをやり過ごせるなら問題はない。

 あたしは校舎横の細い道を通って、一人で校庭裏へと向かった。夕方ともなればそこは日陰になって、不思議な静けさに包まれている。柔らかい草を踏みしめる音に、時折遠くからの歓声が混じる程度だ。

「うわ、これはひどい」

 校庭裏に辿り着くと、そこは予想以上に荒れていた。伸び放題に生えた雑草が、古いビニールハウスの前で風に揺れている。

 昔園芸部があった頃は利用されていたみたいだけれど、今ここを訪れるのは元顧問の笹山先生だけだ。だから先生が来られなくなるとすぐこうなってしまうのだろう。

「ガーデニング部とかにすれば、人集まったかもしれないのにねえ」

 あたしは草むしりの道具を求めて、ビニールハウスへと足を向けた。確か先生はこの中に必要な物を置いていたはずだ。

 先生が前に変な草むしりの道具を持っていたのを、一度見たことがある。あれもここにあるだろうか? それがなくても、たぶん軍手くらいは置いてあるだろうけれど。

 草を踏みしめながら、あたしはビニールハウスの前に行く。所々破けたその中では、風が渦巻いているみたいだった。ばさばさという乾いた音が、あたしの鼓膜を震わせる。

「美津江!」

 だけどそこへ入ろうとした途端、引き留める声があった。聞き慣れすぎて嫌になるそれに、あたしはぎこちない動きで振り返る。

「美津江、こんなところで何やってるんだよ」

「何って、これから草むしり――」

「金山!」

 振り向いた先にいたのは、やっぱり祥一だった。いや、祥一だけじゃあない。最悪なことに野口までいた。二人揃ってやってきたということは、十中八九あのコンテストの話だろう。

 まずいことになってしまった。これは完全にあたしのミスだ。

「美津江がこっち来るの、野口が窓から見たって言うから」

「それで、追いかけてきたの?」

 なるほど、野口の教室からならあの道も見えるかもしれない。あたしは密かに納得しながらも、この場をどう切り抜けるべきかを考えた。野口だけならともかく、祥一もいるとなると強引につっぱねるのは難しい。

「お願いだ、金山。俺、このコンテストにかけてるんだ!」

 すると一歩近づいてきた野口が、必死の形相でそう訴えかけてきた。そんな顔をされると、すごく悪いことをしている気分になる。それでも真っ赤に染められるのは嫌だから、ここは何とか粘るしかない。

「来年はもう受験だろう? だからこのコンテストが最後のチャンスなんだ」

「で、でもね、野口。それならあたしじゃなくても――」

「俺はお前がいいんだ!」

 何とか野口を言いくるめようとしたあたしの言葉を、今度は祥一が遮った。あたしへと真っ直ぐ近づいてきた祥一は、見たことないくらい真剣な眼差しを向けてくる。

 あたしには逃げ場がない。後ろは古びたビニールハウスだし、校舎と校庭に挟まれているし。

「美津江、これは俺の夢なんだ」

「ゆ、夢?」

「お前に蹴られるのが、ずっと夢だったんだ!」

 あたしの手を、祥一ががっちりと掴んでくる。そのとんでもない言葉に、あたしは思わず目を丸くした。いくらなんでも夢は言い過ぎだろう。祥一にはもっとまともな人生を歩んで欲しいところだ。

「色々探したけれど、やっぱり美津江の脚が一番なんだよ!」

「って里中が言ってるんだ。金山、お願いだから」

 あたしの手を離さない祥一。そこへさらに近づいてくる野口。承諾するまでは逃がさないと言わんばかりの状態に、背中を嫌な汗が流れ始めた。

 ここで蹴ったら、祥一の夢が叶うわけだから解放されるだろうか? あ、駄目だ。さすがに制服のスカートじゃあまずい。じゃあどうする? 踏んでみる?

 慌てたためかまともに思考が働いていなかった。ろくな考えが浮かんでこなくて、むしろどんどん深みへとはまっている気がする。

 あたしは顔を引きつらせたまま祥一と野口を見た。こいつらはたちの悪い変人だ。今までのあたしの認識が間違っていたんだ。

「美津江」

 期待に満ちた瞳で、祥一が見つめてくる。あたしはその眼差しに耐えられなくて、視線を辺りへと彷徨わせた。いや、彷徨わせようとした。でもそんなあたしの視界にもう一人の人物が入り、体は完全に硬直してしまった。

 二人の背後に呆然と立っていたのは、奈美だった。いつからそこにいたのだろう? 何かに打たれたような表情で立ちつくした奈美は、その手から鞄を落としていた。

 これってまさか、まずい状況? ものすごく勘違いされている?

 昼休み奈美にうち明けられたことが、勢いよくあたしの頭をよぎった。これはまさかあたしたち四人の危機ってところなんだろか? 何だかとてつもなく複雑なことになっているように思える。

「金山?」

 あたしの反応が変だと気づいたのか、怪訝そうに野口が後ろを振り向いた。それにつられて祥一も、あたしの手を握ったままゆっくりと振り返った。

 時が止まったみたいだった。奈美の気持ちについて二人は知らないはずだけれど、それでもこの状況がおかしいということは自覚しているらしい。ただ祥一の手は、何の執念なのかあたしから離れてくれなかった。しつこく握られている。

「あ、いや、園田。これはその……」

「べ、別に俺たち美津江を襲ってるわけじゃあないからな! も、もちろん恐喝してるわけでもないし」

「き、きちゃった」

 慌てる野口と祥一を見ながら、ポツリと奈美はつぶやいた。けれどもそれはどうも意味がわからない言葉で。あたしたち三人は顔をしかめたり首を傾げたりと、それぞれの反応を示した。

 まさか奈美、おかしくなった? もちろん、どちらかと言えば前からおかしい部類ではあるんだけど。

「き、きちゃったきちゃった、みっちゃん! 今ぴーんときちゃった!」

「ななな何!?」

 徐々に奈美の声に、興奮の色が表れた。その瞳に輝きが満ちて、胸の前で組まれた手が震え始める。

 この反応はあたしも初めてで、何が起こったのかさっぱりだった。それは祥一や野口も同じらしく、わけがわからないという顔で凍り付いている。

「友情の顔をした密かな恋。しかも実は三角関係なんて……素敵!」

 夢見る乙女の顔で、奈美は瞳を細めた。それを見て、あたしはその場に座り込みたい気分になった。

 ここまで聞けばさすがに理解できる。奈美のいつもの趣味が炸裂したのだと。つまり、あたしも妄想世界の住人になったのだ。しかも祥一や野口と一緒に。

「そ、園田?」

「ごめんね。私は陰からこっそり見てるから、続けて続けて! もうどうしようっ、このトキメキ止まらないわ!」

 奈美は満面の笑みを浮かべて、そそくさと去っていった。いや、後退すると校舎の陰に隠れて、こっそりあたしたちを観察し始めた。これにはさすがの祥一も毒気を抜かれたらしく、ようやくあたしの手を解放する。

「……なあ里中、金山」

「うん」

「とりあえずこの話、今日は終わりにしようか」

 この場に残り続ける勇気は、あたしたちにはなかった。奈美の視線を感じる中、あたしは盛大な溜息を吐いた。



 奈美の発言でようやくその趣味を理解した祥一と野口は、コンテストの話を断念してくれた。撮影を続ければさらに奈美の妄想が燃え上がると、察してくれたからだと思う。

 そのおかげであたしは、また平和な日々を取り戻していた。野口は別のヒロインを探さなきゃいけないけど、それもそのうちうまくいくだろう。映りたがりな人も世の中にはいるのだ。

「なあなあ、みつ、美津江ー」

「何、祥一」

 帰り支度の途中、近づいてきた祥一の姿を見てあたしはヘッドホンを手に取った。いつもはすぐ教室を出ていくのに珍しい。確か今日は部活の日だったはずだけれど、行かなくてもいいんだろうか?

「今日親が遅いらしいんだけど、お前の家行っていい?」

「家? 別にいいけど。にしても珍しいわねー、最近来てないじゃない。来ても蹴ってやらないけど?」

「まあそれは追々ってことで」

 からかうようにそう聞いてやれば、祥一はあっけらかんとした様子でそう答えてきた。本当にこいつを蹴りたくなって、あたしはその衝動をどうにか抑え込む。

 どうせ蹴るならジーンズでもはいてる時にしよう。こいつが好きなのはあたしの脚なのだ。ご褒美をくれてやる必要はない。

「はいはい、わかりましたから」

 あたしは鞄を持ち上げると肩をすくめた。昨日はひどく疲れる一日だったから、今日はゆっくり休みたかったのに。それも祥一が来るとなれば無理だろう。せめてこいつが来るまでのんびりするしかない。

「なあ、美津江」

 そのまま帰ろうとするあたしを、また祥一が呼び止めてきた。まだ何かあるんだろうか? あたしは怪訝に思って振り返る。

 屈託のない笑顔を浮かべた祥一は、肩越しにあたしを見た。

「俺の夢さ、実は場所指定があるんだよな。それは野口には言ってないんだけど」

「場所?」

「そう、ベッドでっていう」

 さらりとそう宣言すると、祥一は笑いながら身を翻した。そして自分の鞄を手に取り、そのまま軽やかな足取りで教室を出ていく。

 あたしはそんな祥一を、ただ呆然と見送ることしかできなかった。徐々に顔が熱くなっていくのがわかる。

「何、それ」

 教室のざわめきに、かすれたつぶやきは飲み込まれた。その中にはあたしを呼ぶ奈美の声が混じっていたけれど、すぐには答えられそうになかった。今振り返ったら、また奈美の妄想に火をつけてしまう。

「本当、とんでもない幼馴染みだわ」

 家でどんな顔をすればいいのかわからず、あたしは苦笑を漏らした。これは奈美に助けてもらった方がいいだろうかと、そんな馬鹿なことまで考えてしまった。

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