第九章「こじらせお姉さんとこじらせない後輩」

62:お姉さんとの対面をバイト後輩は希望する

 再び短い静寂が生じた。


 現在時刻は、たしかめるまでもなく、いまや午前零時を回っているに違いない。

 スーパーの店舗内部から漏れる照明の光が、まったく見て取れなくなっていた。

 ずっと残業していた従業員も皆、退勤してしまったんだろう。



「……押し付けがましいことばかり言って、すみませんでした先輩」


 幾ばくか間を置いてから、晴香ちゃんが静かに頭を下げた。


「しかも先輩が好きになった人を、けなすようなことも言ったりして」


 この子は本当に芯が強い女の子だな、と思う。

 謝罪の言葉は、声音が少しかすれていたものの、しっかりして明瞭めいりょうだった。

 失望で陰鬱いんうつかげる顔も、しかし一切泣き出すような気色がうかがえなかった。

 やはり本人も言っていた通り、失恋を事前に覚悟していたからだろうか。


 もっとも、なぐさめたりする気にはなれなかった。

 いっときの感情に流されたにしろ、晴香ちゃんが美織さんを非難したのは事実だ。

 どれだけ僕を罵倒ぼとうしようとかまわないけれど、恋人に対するそれは甘受できない。



「もうすっかり遅い時間だよ。晴香ちゃんも早く帰宅した方がいい」


 僕は、話題を切り替え、路地の出入り口側へ視線を移した。


「……でも自転車を使うのは危ないかな。市道でタクシーを拾おう」


 こんな深夜に女子高生を一人だけで、自転車に乗せて帰らせるのは心配だった。

 さりとて、美織さんが待つマンションと、晴香ちゃんの自宅がある位置は、完全に逆方向だ。

 前者が北区の雛番で、後者は南区の明かりの里だからね。僕が送っていくわけにもいかない。


 かくして諸々の状況を踏まえると、他の手段で家路にくべきじゃないかと思う。

 通勤時にいできた自転車は、ここに一晩置かせてもらわなきゃいけないけれど。


 差し当たり妥当なのは、やはりタクシーを利用して帰ることだろう。

 手持ちの現金は少ないものの、僕はスマホに電子マネーをいくらかチャージしている。

 アプリの機能で、晴香ちゃんにも送金可能だ。たぶん交通費程度なら肩代わりできる。

 地下鉄平伊戸駅の近くまで行けば、キャッシュレス決済のできる空車が見付かるはず。


 まだバスや電車も、辛うじて明かりの里行きの最終便があるとは思うけど……

 降車した場所から家まで歩かなきゃいけないし、タクシーより帰宅が遅くなる。



 そうした提案を事務的に伝えると、僕は自分のスマホを取り出した。

 晴香ちゃんは、悄然しょうぜんとした顔付きで従って、電子マネーを受領する。


 その後は二人で並んで、地下鉄平伊戸駅まで歩きはじめた。

 スーパー「河丸」の敷地を離れ、暗い市道を真っ直ぐ進む。


「……あの、歩きながらいいですか先輩」


 やがて、晴香ちゃんがおずおずと会話を再開しようとしてきた。


「ひとつ聞いてもらいたいことがあって」


「いったいどうしたの。気になること?」


 ちらりと横目で傍らを見ると、晴香ちゃんは酷く複雑な表情を浮かべていた。

 薄墨色の大きな瞳には、悲しさと悔しさの中にも負けん気がのぞいている。

 にもかかわらず次の言葉をつむぐべきか否か、躊躇ためらうような気配があった。


 失恋相手に交通費を支払わせることに対して、抵抗感があるのだろうか。


「タクシー代は返済しなくてかまわないよ。明かりの里までなら、大した金額じゃないし」


「あっ、いえ……。それもそういうわけにはいかないと思うんですけど、そうじゃなくて」


 晴香ちゃんは、ちょっとあわてたようにかぶりを振った。

 物言いたげな素振りだったのは、他にも理由があるらしい。

 どうにも要領を得ないので、聞き役に回って先をうながす。


「えっと。たった今まで、先輩に物凄く迷惑をお掛けしておいて、その上でこんなことをお願いするのは厚かましいどころか、自分でもどうかしてるんじゃないかと思うんですけど――」


 晴香ちゃんは、足元のアスファルトへ視線を落としながら、歯切れ悪く話す。

 自分から切り出したものの、まだ気持ちの置き場所に迷っている様子だった。



「もしも、あたしが『先輩の恋人さんに会ってみたい』って言ったら……怒られますか?」



 …………。


 ……想定外の要望を受けて、正直困惑を禁じ得なかった。

 こんなことがあるのか、と未知の展開に動揺してしまう。

 いましがた失恋したばかりの女の子が、失恋相手の恋人に会いたがるなんて。

 どう答えるべきなのか即座に判断しかねて、適切そうな返事が思い付かない。



 と、晴香ちゃんが取りつくろうようにして、健気にまくし立ててきた。

 それによって、自分の心を整理しようとしているみたいだった。


「その、もしかすると常識外れなお願いをしているのかもしれない、っていうのはわかっているつもりです。失恋相手とお付き合いしている女性に会おうとするなんて、まるで自傷行為みたいな気がしますし。……それに何も知らなかったせいだとはいえ、先輩の恋人さんだって、お二人の関係に横恋慕よこれんぼしてきた女子高生なんかと会えば、きっと気分を悪くするでしょうから」


 そこでひと呼吸入れてから、晴香ちゃんはさらに先を続ける。


「もっと言うと『常識外れ』ってことは、あまり『普通じゃない』わけなので――それはあたしとしても、正直好ましく思えないんですけど。ただそれでも一度、先輩の恋人さんとは直接お会いしてみたいんです。そうして、先輩が好きになった人を、ちゃんと知っておきたい……」


 たとえ「普通じゃない」としても、僕の恋人と会いたい――

 その言葉はやや重く、僕の胸にも幾分響くものがあった。

「普通」であることを信条とする女の子が、それを曲げてお姉さんとの面会を求めている。

 そこに切実さを感じるし、好意を寄せられた側として、無下に接するのは少し忍びない。


「先輩の恋人さんとじかにお話させてもらって、納得したいんです」


 晴香ちゃんは、ぼそりと付け足すようにつぶやく。


「つまり、『先輩がこの人を好きになったのなら、仕方ない』って」



 地下鉄平伊戸駅の付近まで来ると、丁度市道を空車のタクシーが通り掛かった。

 片手を掲げて、それをめる。幸いにしてキャッシュレス決済が可能な車両だ。

 晴香ちゃんは、おもむろに身を屈め、後部座席へ腰掛ける。


「君と会ってくれるかどうか、一応は美織さん――彼女に訊いてみるよ」


 僕は、車内を覗き込み、晴香ちゃんに声を掛けた。


「返事が聞けたら、メッセージで連絡する。でも期待はしないで欲しい」


 自分でも、随分ずいぶんと妙な約束をしているな、と思う。

 でも、晴香ちゃんが自分の信条を変節して、懇願こんがんしてきた頼みだから。

 嫌がられるのじゃなければ、この程度の要望には応えてあげたかった。


「はい、ありがとうございます。……美織さんっていう女性なんですね」


 晴香ちゃんは、どこか寂しげな笑みを浮かべ、「美織」という固有名詞を口の中で繰り返す。

 それで、今まで散々やり取りしていたのに、初めて恋人の名前が話題に出たことに気付いた。


「それじゃ、おやすみなさい先輩」


「うん、おやすみ晴香ちゃん……」


 互いに挨拶あいさつを済ませたあと、晴香ちゃんはタクシーの運転手さんと目で合図を交わす。


 後部座席のドアが閉じて、静かに車が動き出した。

 夜の市道を、タクシーは南区方面へ直進していく。



 僕は、それが遠ざかるのを見送ってから、地下鉄駅出入り口の階段を下りた。




     〇  〇  〇




「ロイヤルハイム雛番」まで引き返すと、いつものように美織さんが出迎えてくれた。

 就寝したりせず、ずっと僕が戻るのを待っていたみたいだ。もう午前一時頃なのに。


 あらかじめ閉店後にも仕事があるから遅くなる、って知らせてあったんだけど……

 美織さんは「お風呂に一緒に入りたかったから」、僕が帰るまで起きていたらしい。

 本当に可愛いお姉さんだなあ。愛しすぎる。



 そんなわけでマンションの部屋に着くなり、早速今夜も二人で入浴することにした。

 着衣を脱いで浴室のドアを潜ると、例によって互いの身体をボディーソープで洗う。

 そうする合間にも何度となく、僕と美織さんはキスしたり肌を触れ合わせたりした。

 汗と汚れをシャワーで流してから、並んでゆっくり浴槽に浸かる。


 僕は、隣に座るお姉さんの腰へ手を回し、柔らかな裸体を引き寄せた。

 にわかに顔を近付け、再度キスする。一心不乱に恋人の唇を味わった。


「……大好きだよ美織さん。本当に好きだ、愛してる」


「あはは、知ってるよ。それに私も裕介くんが大好き」


 顔を離して囁くと、美織さんは恥ずかしそうに微笑んだ。


「でもどうかしたの? 久々にちょっと積極的だけど」


「うん、まあそうだね……。少し色々あったりしてさ」


 衝動的にお姉さんを求めたせいで、内心の機微を覚られたらしい。

 僕は、ちょっと居心地悪さを感じて、視線を湯船の上へ落とした。


 まだ頭の中には、さっき晴香ちゃんに告白された場面が、強い印象を残している。

 あの子は気丈に見えたけど、片想いの相手に断られて、内心深く傷付いていたはずだ。

 それを考えると、自分が好意を突き放した当人でありながら、胸が酷くうずいてしまう。


 でも同情を他の感情と取り違えたら、もっと不幸なことになるのは目に見えている。

 だから本当に大切なものをたしかめるためにも、今の僕には美織さんが必要だった。



 髪を洗って浴室から出ると、裸身のままで寝室へ向かう。

 ベッドの上で肌を重ね、いっそう強くお姉さんを求めた。


 僕は何度も、好きだ、大好きだよ、愛してる、愛してる……

 と、行為に及んでいるあいだ、ひたすら譫言うわごとのように繰り返し続ける。

 美織さんは、そんな僕を温かく包み込み、いつくしむように微笑んでいた。


 やがて、すべてを互いに捧げ合い、二人で気怠く寝転がる頃には、明け方が近かった。

 平時より帰宅が遅かったのに、こんな時間まで性行為にふけってしまったことに呆れる。


「ねぇ裕介くん。何か困ったことがあるのなら、できるだけ相談して欲しいな」


 美織さんは、僕の腕の中に身を委ね、肌と肌とを密着させながら言った。

 まだ浴室でのやり取りを気に掛けて、心配してくれているみたいだった。


「もしかして、お姉さんには言い難いこと? 私、君のちからになりたい……」


「うん、ありがとう美織さん。そんなふうに言ってもらえて、僕は幸せ者だよ」


 栗色でふわふわした恋人の髪をでつつ、僕は心の底から感謝した。

 困って悩んだときほど、お姉さんは優しく寄り添おうとしてくれる。

 ますます愛情がつのって、何もかもを分かち合いたい気持ちになれた。



「実を言えばむしろ美織さんにこそ、しっかり聞いてもらいたい話があるんだ」


 僕は、思い切って今、打ち明けるべきことを伝えようと決めた――

 晴香ちゃんが美織さんに会いたがっている、という件について。


 遅かれ早かれ事情を話して聞かせ、可否を問わなきゃいけない問題なのだ。

 かえって遅くなれば言い難くなりそうだし、しからば早めに伝えた方がいい。


「あはは、どうしたの。しっかり聞いてもらいたい話って、いったい何かな?」


 美織さんは、相変わらず柔和な笑みを浮かべている。

 ゆったりと構えた物腰には、年上女性に特有の余裕や包容力がただよっていた。

「お姉さんが受け止めてあげるから、甘えてもいいんだよ?」と言いたげだ。

 枯葉色の瞳は、綺麗に澄んでいて、恋人への揺ぎ無い信頼が感じられる。


 僕と美織さんは、ベッドの上に並んで横たわったまま、真っ直ぐ見詰め合った。


「バイト先で一緒に働いている女の子が、美織さんと会いたがっているんだ」


「……スーパーで裕介くんと同じアルバイトの子が、私と? それはなぜ?」


「それはそのぅ、美織さんが僕の恋人だからなんだけどね……」


「私が裕介くんの恋人だと、どうしてその子が会いたがるの?」


 こちらが持ち出した用件について、美織さんが重ねて疑問を投げ掛けてくる。

 まあ、急に知らない女の子から面会を求められたりしちゃ、当たり前だよね。

 いきなり本題に入らず、順に経緯から説明すべきだったか。


 仕方がないので、僕は改めて事態の発端を話すことにした。



「――実はさっきね、その女の子から退勤前に告白されたんだ」



 …………。


 ……なぜか次の瞬間、室内の空気が張り詰め、時間が止まったような錯覚に襲われた。


 美織さんの顔を覗き込んでみると、まだ柔和な笑みはそのままだった。

 ただし枯葉色っぽい瞳からは、ついいましがたまでの余裕を感じない。

 ていうか、むしろ光が消えていた。まるで死んだ魚の目になっている。


「あはは、どうしたの。しっかり聞いてもらいたい話って、いったい何かな?」


「なんで突然やり取りが相談する前の台詞まで戻ったの!? しっかりして!」


 あっさり動揺しまくるお姉さんが心配になって、僕は必死にはげました。

 想像以上に意味不明すぎる反応で、こっちまであわてふためいてしまう。

 いや何となく、悲しまれるか怒られるかしそうだとは思っていたけど。



「あっ、あああ……。バイト先の女の子、可愛い子? きっと若い子だよね?」


 美織さんは、僕の身体を束縛するようにして、しがみ付いてきた。

 空調で適温に保たれた部屋にもかかわらず、かたかた震えている。


「私より年下? 祐介くんと同世代? まさか、じゅ、じゅうだい……っ!?」


「お、落ち着いてよ美織さん。えっと、その子は一応女子高生なんだけど……」


「じょじょ女子高生!! 平均的なラブコメでヒロインが多いというあの!?」


「だからすぐにサブカル系コンテンツとの比較で理解しようとしないでよ!?」


「しかも年下ってことは、同時に後輩キャラ……。何かと近頃トレンドの……」


「だからサブカル系コンテンツとの比較で理解しようとしないでよ本当に……」


「そうだ裕介くん、もっとえっちなことする? お姉さんと気持ちよくなろ?」


「なんでこの流れで突然また誘うの!? いや今夜は僕も乗り気だったけど!」


「あっ、あはは、じゃあお金は欲しくない? いくら出せば喜んでもらえる?」


「いらないよお金とか!? 僕が好きなのは美織さんだけ!! 愛してる!!」


 お姉さんが形振なりふり構わずすがろうとするので、僕は辛抱強く愛情を伝えるしかなかった。

 毎度ながら恋人を引き留めようとして、性欲や金銭欲に訴えようとしないでください。

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