61:お姉さんを僕が好きになった理由

 晴香ちゃんは、すうっと静かにまぶたを伏せた。

 数秒余りの僅かな時間、酷く険しく、悲しげな表情を浮かべる。

 次いで再び目を開くと、しかし逃げずに僕の顔を見詰め直した。


「最近知ったんですけど、先輩が少し前に雛番へ引っ越したって本当ですか」


 晴香ちゃんは、やや唐突に話題を転じてくる。

 ここで転居の件を訊かれるとは思わなかった。

 店で従業員が誰か噂でもしていたのだろうか。


 とはいえ、質問の意図はおおむね想像が付く。

 僕は、短く「うん」と、正直に返答した。

 すると、すぐさま重ねて問い掛けられる。


「……じゃあ、その引っ越しはやっぱり――先輩が好きになった女性と、お付き合いをはじめたことに何か関係があるんでしょうか……?」


「……うん。そうだね、無関係じゃないよ」


 もはや誤魔化す余地もないので、やはり包み隠さず答える。


「お付き合いしている人と、雛番に二人で暮らしはじめたんだ」


「――二人暮らし、ということは……同棲しているんですか?」


 晴香ちゃんが問いただす声音は、か細く、はかなげに震えていた。

 ちょっと見ただけでも、半ば平静を失い掛けているのがわかる。

 その有様に心が痛んだけれど、僕は肯定することしかできない。


「そういうことになるね……。恋人と同棲しているよ」


 はっきり言い渡すと、晴香ちゃんの顔に薄く汗が滲んだように見えた。

 薄墨色の瞳は、ひと際大きく見開かれ、透明な光を宿して揺れている。

 直後に呼気を乱して「うっ……」とうめき、苦しげに胸を手で押さえた。

 僕は、ただならぬ様子が心配になって、声を掛けた。


「ねぇ大丈夫かい? 気分が悪くなったんじゃないか」


「……はい、大丈夫です先輩。覚悟はしてましたから」


 晴香ちゃんは、気丈に振る舞って、何とか言葉をしぼり出す。

 だが顔色は悪く、必死に取り乱すまいとしているみたいだ。


 この子が今「同棲している」と聞いて、何を考えたか……

 その心中を察するのは、たとえ僕にだって然程さほど難しくない。

「成人済みで交際中の恋人同士が、ひとつ屋根の下で一緒に暮らしている」という事実。

 そこからは誰だって、すでに僕が相手と男女の関係を持っている、と連想するはずだ。


 しかも、そうした想像は当然間違っておらず、かえって現実は晴香ちゃんが考えるものより、いっそう彼女にとって受け入れ難い状況にあるかもしれない。



 ……いくらか間を置くと、晴香ちゃんはどうにか落ち着いたみたいだった。

 ゆっくりと呼吸を整えてから、正面に向き直る。かすかに目の周りが赤い。

 けれど口唇を左右に引き結んで、健気にたかぶる感情を抑え込んでいるようだ。


「先輩と恋人さんとは、いつ頃どこで、どうやって出会ったんですか」


 晴香ちゃんは、尚も質問を続けた。

 本当に気持ちの強い子だ、と思う。


「たぶん一年数ヶ月前かな。Web上でやり取りしていて知り合った」


「……そうですか。あたしより、半年以上遅れて知り合ったんですね」


 答えを聞くと、晴香ちゃんは殊更に沈んだ面持ちでつぶやく。

 妙に感じ入るような口調から、逆に深い後悔が伝わってきた。


「おまけに最初は、じかに顔を合わせたわけでもなかったなんて……」



 またもや、二人のあいだに静寂が生じる。


 しかし数秒のあと、晴香ちゃんの顔付きがはたと変化した。

 不可解な問題に思い当たって、戸惑っているみたいだった。


「あの、先輩がお店に交通費の支給を申請したのって、いつでしたか」


「ええと……。雛番に引っ越したあとだから、だいたい三ヶ月前かな」


「……それって、ちょっとおかしくないですか。だって、たしか――」


 晴香ちゃんは、急に混乱しはじめた様子で言った。


「先輩が恋人さんとお付き合いをはじめたのも、三ヶ月前でしたよね」


 僕は、その問い掛けに黙って首肯する。


 とうとうお姉さんとの不思議な関係について、気付かれてしまったらしい。

 きっと晴香ちゃんは、僕が転居した時期もある程度把握していたんだろう。

 だから交際までの経緯をたどっているうち、にわかに違和感を抱いてしまったんだ――

 僕と美織さんは、付き合いはじめたのと同じタイミングで同棲を開始していることに。


「……えっ。いや、そのぅ……。それってつまり、なんて言うか――」


 晴香ちゃんは、今一度確認を求めようとして、たどたどしく言った。


「お二人は恋人同士になって、いきなり同棲しはじめたわけですか?」


「そうだよ。むしろ告白するより先に、恋人の部屋へ招待されたんだ」


 やはり遠慮なく、ありのままの事実を話す。


「その日から二人一緒に暮らしはじめて、以後そのまま同棲している」


 秘密の関係を打ち明けながら、こんなときなのに少し笑えてきた。

 たぶん第三者が聞けば、つくづく無茶苦茶な展開に感じると思う。

 同棲に至るまでの過程として、どう考えても一般的な気がしない。

 いくら初めから相思相愛にしろ、明らかに段取りが性急にすぎる。


 もっとも「笑える」と感じたのは、僕だけじゃなかったみたいだ。

 見れば晴香ちゃんも、口元に引きった笑みを貼り付かせていた。

 そうして、信じられない、というふうにかぶりを振ってみせる。


「――え、えへへ。冗談ですよね先輩? だって、絶対おかしいです」


 晴香ちゃんは、虚言であって欲しいと懇願こんがんするように言った。



「そんなの、誰がどう考えてたって『普通じゃない』ですよ……!!」



 それはほとんど、悲痛な抗議の叫びだった。


 僕が狼狽うろたえたりせずに済んだのは、こうした反応もあり得ると予測していたからだ。

 晴香ちゃんは、あくまで「普通」であるということを、常に大切な信条としている。

 僕とお姉さんの独特すぎる間柄に対して、肯定的な感情を持てないのは当然だろう。


 一方でどれだけ嫌悪感を抱かれたとしても、非難を受け入れるつもりはない。

 誰が何を言おうと、僕は美織さんが大好きだし、ずっと一緒に居たいと思う。

 それは普通か普通じゃないかは関係ないし、理屈で説明できない感情なんだ。

 僕は、揺らぐことなく、決意を固めていた。



 ところが、次に晴香ちゃんの口から発せられたのは、いささか意表をく言葉だった。


「うん、やっぱり変だと思います。たぶん先輩は、だまされてるんです」


「……騙されている? それはひょっとして、僕が恋人にってこと?」


「マリナが言ってました、年長女性には若い男性を騙す人も居るって」


 思わず面食らって訊き返すと、晴香ちゃんは大きく一度うなずく。

 友達から聞いた話を思い出して、確信を深めているように見えた。


「きっと先輩の恋人さんも、年下の彼氏が欲しくて……それで先輩を惑わせて、自分の思い通りにしているんですよ。先輩はお人好しだから、気付いていないみたいですけど」


 あまりにも一方的な憶測を伝えられ、一瞬唖然としてしまった。

 僕とお姉さんの関係は、そんなふうに見られることもあるのか……。


 ――私って、たぶん君以外の人から見れば、かなり悪い年増女だよ。


 いや、たしかに僕が初めて雛番のマンションを訪ねた日、美織さんはそう言っていたさ。

 でも現実に誰かから、恋人に対する露悪的な指摘を受けるなんて、思いも寄らなかった。


 それと今のやり取りで、南野さんが僕を「騙されやすいイルカパイセン」と呼んでいた理由も何となく察しが付いたな。

 あれは美織さんが僕を騙して恋人に納まっているんだろう、という無根拠な見立てに基づいて言った呼び方に違いない。



「ねぇ先輩。どうか、お願いですから目を覚ましてください」


 晴香ちゃんは、尚も食い下がって、説得しようとしてきた。

 いったん衰微した熱意が、再度盛り返してきたようだった。


「あたしは、これまでどんな他の女性と恋愛していたって、先輩を嫌いになりません。――でも今お付き合いしている人とは、このままの関係を続けちゃいけない気がします。少し話を聞いただけでも『普通じゃない』し、幸せになれるとは思えません」


 一縷いちるの望みをつなぐようにして、晴香ちゃんは持論を展開し続ける。

 そうすることこそ、あたかも自らに与えられた使命であるかの如く。


「きっと先輩は、何かに幻惑されてるんです。あたしはちゃんと先輩にも、みんなと同じように『普通』の恋愛をして欲しいって思います。突然同棲をはじめるような関係からじゃなく、段階を踏まえて、ちょっとずつ相手と親密になるような――……」


 晴香ちゃんは、熱弁を振るうあいだ、ずっと真摯しんしな面持ちだった。

 薄墨色の大きな瞳は、曇りなく、信念を疑う気配も見て取れない。



 とはいえ、そんな姿を眺めているうち、かえって僕は奇妙な警戒心を呼び起こされた。

 それでどうしてもたまりかねて、とうとう途中で疑問を投げ掛けずに居られなくなった。


「……もうひとつ訊いておきたいんだけどさ、晴香ちゃん」


 僕は、努めて冷静な物腰をよそおいながら、目の前に立つ女の子と相対した。



「どうして君は、そんなにも『普通』にこだわるんだい?」



 問い掛けられた途端、晴香ちゃんは説得を中断し、少しだけ口をつぐんだ。

 薄墨色の瞳を、不思議そうに二、三度またたかせてから、僕の顔を覗き込む。

 どうしてわかり切ったことを訊くんだろう、と言いたげな表情に見えた。



「なぜって……だって『普通』でなきゃ、不安になるじゃありませんか」


 晴香ちゃんは、ちょっと拍子抜けしたように笑った。

 簡単すぎるクイズ問題に脱力したような反応だった。


「世の中の人はみんな、大抵『普通』なんですよ。それだけ大勢の人が『普通』だってことは、たぶん同じようにしておけば安全なんです。世の中は絶対、ほとんどの『普通』の人が不幸にはならないようにできているはずですから。何事も『普通』が一番ですよ」


 んでふくめるような口調で、晴香ちゃんは自らの信条を開陳かいちんする。


「それに沢山の人が『普通』にこうあるべきだって言っていることなら、きっと正しいんだろうと思います。少なくとも自分一人だけじゃないわけですし、無駄に悩んだりもせずに済みます。『普通じゃない』生き方だと、みんなより余計に苦労すると思うし……」



     〇  〇  〇



 ……僕は、じっと話に耳を傾けながら、色々なことを考えていた。


 晴香ちゃんは、つくづく中高生だった頃の自分に似ていると思う――

 万事「ほどほど」を心掛けて、巧みにやり過ごそうとしていた自分に。

 あの頃は僕も、それがたぶん賢い生き方なんだと、漠然と信じていた。


 そうして、また今この子の言葉を聞き、思い出さずに居られないことがあった。


 ――長い物に巻かれて、無駄に悩んだりせず「普通」にしておきゃ間違いない。


 かつて、無目的に進学した大学で、居心地悪さを覚えていた時期のこと。

 それは飲み会でたった一度だけやり取りした、経済学部三年生の言葉だ。


「普通」ならば、無駄に悩んだりせずに済む……

 晴香ちゃんも、ほぼ同じことを言っていた。



 そう、そうなんだ。今の僕にはよくわかる。

「普通」という「たったひとつの正しさ」を、疑うことなく信じられれば。

 僕らは、何が本当に正しいかを、悩んだり、思考したりせずに済むんだ。


 だって、何が本当に正しいか、正しさの尺度は他人が決めてくれるから。

 あとは「普通」という正しさに迎合し、気楽にかまえておくだけでいい。



 これまで上手に言語化できずに居たけれど。

 僕が大学時代に感じた居心地悪さの正体は、しかしまさしくそこにある。

 進学先で、自ら思考し、目的を選び取らねばならない状況に置かれ……

 僕はあのとき、正しさの尺度を他人に委ねることが、あべこべに恐ろしくなったんだ。

 それまで選んできた進路は、主体的な思考の末にたどり着いたものじゃなかったから。


 ――だから大学を辞めて、フリーターになった。

 実家からの仕送りが止められたことで、逆に「一人で生きていく」という目的を得て。

 細々とアルバイトで食いつなぐ日々でも、将来の不安より、労働に応じた賃金を手にする安堵が優ったのは、消極的にとはいえ「自ら思考して、選択した」状況だったからだと思う。


 僕らは、自分が信じる正しさを、自分で選び取っていい。


 みんなが正しいと声をそろえているからって、思考を放棄し、他人が決めた正しさと同調なんかしなくてもいいんだ。他人任せじゃなく、自ら選んだ生き方は何であれとうとい。

 その先に失敗があって、後悔が待つとしても、嘲笑する権利は誰にもない。


 ああとも、かつて美織さんも言っていたじゃないか……


 ――たとえ批難されても自分で考えて、今の自分になることを選んだの。


 もう「普通じゃない」自分自身について、とっくに答えは出ていたんだ! 


 僕も、お姉さんも、今の自分になることを、思考の末に選択した。

 おそらく正しさの尺度は、一人ひとりが信じるものの数だけある。

 いや、あるいはひとつもないのかもしれない――

 みんなが等しく選択すべき「普通」なんてものは。



 僕は今、自分が美織さんを好きになった理由を、殊更に強く感じていた。


 美織さんは、最初から僕の生き方を、何ひとつ否定しようとしなかった。

 僕自身が積み重ねた選択は、僕自身が信じた正しさに由来するものだと、知っていたからだ。

 いつも何かと奇矯ききょうなことばかり言って、色々なことをこじらせちゃっているお姉さんだけど。

「普通じゃない」からこそ、世界中の多様な正しさを、緩やかに包み込んでくれるのだと思う。



 ああ、やっぱり大好きだよ美織さん。何もかもをささげたってしくない。

 こんなにも素敵なお姉さんと恋人同士になれて、僕は本当に幸せだ……。




     〇  〇  〇




「どうやら、晴香ちゃんは誤解しているみたいだね」


 やがて自分なりの考えを整理し直すと、僕は改めて語り掛けた。


「僕と恋人の関係は、たしかに『普通じゃない』かもしれない。――でも、僕は自分の好きな人に騙されたつもりはないし、望んで年上の女性を好きになったんだ。僕が誰を好きになるかは、それが普通でも普通じゃなくても、自分で決めるよ」


 晴香ちゃんは、にわかに身体を硬化させ、いったん口を閉ざす。

 薄墨色の大きな瞳の中には、たちまちおののくような光彩が閃いた。

 次にどんな言葉が告げられるかを、敏感に察していたのだろう。


 僕も決して、予想を裏切ったりはしなかった。



「――そうして、僕が好きなのは、君じゃないんだ」



 三度みたび説得を退けると、晴香ちゃんもそれ以上は好意の表明を繰り返そうとしなくなった。

 薄暗い路地の真ん中にたたずみ、くやしそうに肩を落として、憮然ぶぜんとした面持ちになっている。



 つまり僕は、目の前で一人の女子高生を失恋させて――

 同時にますます、恋人に対する愛情をつのらせていた。


 こんなに自分を残酷な人間だと思ったのは、初めてだった。

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