49:お姉さんには望むことをして欲しいんだ

 僕は、咄嗟とっさに理解が及ばず、目を二、三度またたかせた。

 湯船に浸かったまま、お姉さんと思わず見詰め合う。


「……えーっと。僕に迷惑が掛かるっていうのは、どういうこと?」


「もし漫画連載するとなれば、周囲にも影響が大きいってことだよ」


 言葉の意味を詳しく問うと、美織さんはちょっと渋い顔で答えた。


「〆切前の忙しさなんて、他の仕事でイラスト納品する前の状況とかより厳しいだろうし……。徹夜する日も増えて、ますます裕介くんを特殊な生活環境に巻き込むことになると思う」


 なるほど、そういうことか……。

 僕とお姉さんは、ひとつ屋根の下で同棲している。

 そうして二人が暮らすマンションには、お姉さんの仕事場を兼ねた部屋が含まれている。

 生活空間とも重複する部分がある以上、多少なりと相互に影響が生じることは避け難い。

 そのため仕事が多忙になったとき、同棲相手の負担が増すのを不安視しているんだろう。


 実はまあ、これまでにも二人で暮らしていて、たまに美織さんが徹夜でイラストを描いている日はあった。元々お姉さんは、寝食を忘れて作業に没頭するタイプみたいだし。

 僕が主な家政を引き受けるようになった背景には、そうした事態もいくらか関係している。

 高級マンションで家賃も払わずに住ませてもらっているから、ってだけじゃないんだよね。


 でもって家事全般を担当すること自体は、別段不満なんてないんだけど――

 お姉さんが徹夜するような日って、たしかに色々と予定が狂う場合は多いんだよな。

 些細な用事を頼んでおけなかったり、お風呂を沸かす時間が決まらなかったりとか。



 しかし僕が都合さえ付ければ、そうした問題には解決するものも少なくないはず。


 ……ならば愛しいお姉さんに対して掛けるべき言葉は、ここじゃひとつしかない。


「ねぇ美織さん。きっと漫画を描く仕事のこと、本心では引き受けたいと思ってるんだよね?」


 自分なりの洞察に基づいて、僕はいきなり恋人に問い質した。

 美織さんは、返事に一瞬困った様子で、言葉に詰まっている。


 どうやら図星みたいだ。いくつか理由を並べて躊躇ちゅうちょしてみせているけど、憶測通りだった。

 もし明らかに断る意思があるのなら、たぶん仕事の話を自宅まで持ち帰っていないと思う。


「僕のことなんか考えて迷ったりしないでよ。正直にどうしたいか言ってみて欲しいんだ……」


 僕は、浴槽の中で座る角度を変えて、美織さんと正面から向き合った。

 そのまま恋人を引き寄せると、胡坐あぐらいた自分の脚の上に相手を乗せる。

 お姉さんの柔らかな身体は、湯の浮力が加わって、支えていても軽かった。


「……迷わないでって言われても無理だよ。むしろ裕介くんのこと、真っ先に考えちゃうもん」


 美織さんは、微妙に顔を伏せて、枯葉色っぽい瞳を横へ逸らす。

 その仕草を見て、僕は自分の想像が外れていないことを悟った。


 ――同棲相手さえ居なければ、美織さんは漫画の仕事をすぐにも引き受けていたんだろうな。


 悩んでいる一番の原因は、明らかに最後の理由――

 つまり、恋人である僕の存在と見て間違いなかった。

 金銭面の事情もなくはないだろうけど、過度に固執するのはあまり美織さんらしくない。

 いや決して、イラストレイターとしての技術を安売りしているとも思わないんだけどね。

 でも報酬だけに執着するなら、以前に皐月さんから依頼された案件を断っていないはず。


 やや客観的に判断し難いのは、商業漫画(しかも学園ラブコメ!)を初めて描くことに対する不安についてなんだけど……

 これもよく考えてみると、必ずしも不安な心理は挑戦を躊躇する理由じゃないだろうな。

 そう言えば皐月さんの依頼を断る際、美織さんは「ソーシャルゲームに仕事の比重がかたよる」ことを嫌っていた。同傾向の案件に偏重へんちょうする状態を避けようとしていたのは、見方を変えれば新規な分野に興味があることを意味しているんじゃないだろうか。



「もし美織さんが漫画の仕事を引き受けたいのなら、僕はできる限り応援するよ」


 僕は、いっそう美織さんと互いの顔を近付けた。

 うつむき気味の額に自分のそれを触れ合わせる。


「大好きな人がやりたいことを後押しできないようじゃ、自分が情けなさすぎる」


 それはお姉さんの恋人として、いつわりなき気持ちだった。


 これまでも美織さんが尽くしてくれるのと同じようにして、何某なにがしむくいたいと思ってきた。

 ましてや僕は単なる同棲相手というよりも、半分ぐらい養われているような立場なんだし。

 所帯を支えている当人が、それを頼っている人間に妙な気を遣う必要はないよね。

 これがきちんと結婚している配偶者同士なら、また事情は異なるんだろうけどさ。


 それから数秒余り、浴室の中に沈黙が流れる。

 ほどなく、美織さんがゆっくりと口を開いた。


「きっと今まで以上に私、不規則な生活になっちゃうと思うよ」


「僕はフリーターで時間に自由が利くから、大した困らないさ」


「こうやってお風呂に一緒に入る回数も、少し減っちゃうかも」


「ちょっと寂しいけど、美織さんの仕事のためなら我慢するよ」


「むしろ〆切直前には、お風呂そのものに入る余裕がなくなるかも」


「そっ、それはあり得ると思うけど、入浴する努力はしようね……」


「もっともどんなに忙しくても、最低三日に一回はえっちするから」


「それは平均的なカップルの頻度より、充分多いんじゃないの!?」


 相変わらずツッコミどころに事欠かないお姉さんだった。

 まあこういう部分も含めて、全部が大好きなんだけどね。



 そんなやり取りを交わしたあと、僕は湯船の中で美織さんをぎゅっと抱き締めた。

 お姉さんは僕より七歳年上だけど、こうしているとやはり女性なんだなと感じる。

 華奢な身体が腕の中にすっかり納まって、どうしようもなく庇護欲を刺激された。


 お姉さんも「ああっ……」と、安堵するような、それでいて艶めかしい吐息を漏らす。

 ほとんど成すがままといった様子で手足のちからを緩め、こちらへ裸身を委ねてきた。


「じゃあお姉さんの私だけど、裕介くんに甘えちゃってもいいの……?」


 またしても甘えんぼ状態になって、問い掛けてくる。

 僕は、お姉さんの白い背中を撫でつつ、請け合った。


「もちろんさ。美織さんに協力できることがあれば、僕も凄く嬉しいよ」


「……もおぉ~っ。裕介くんったら、またそうやって優しいこと言って」


 美織さんは、何かに耐えかねたように唸ると、僕の唇に自分のそれを押し付ける。

 ちゅ、ちゅ、ちゅっ……と、何度も音を立て、吸い付くようなキスを繰り返した。


「漫画の仕事、引き受けちゃったあとで後悔したって知らないからね?」


 やがて美織さんは、僅かに上体を反らして顔を離すと、瞳を潤ませながら言った。



 そうして、互いに強い高揚感を覚えながら、湯船から上がった。

 頭髪も二人で一緒に洗い合うと、その後にもう一度浴槽で温まる。

 浴室を出て身体を拭いたあとは、いつものように寝室へ移動した。

 ベッドの上で重なって、深く深くつながり合う。


 相手の名前を呼び続け、夜遅くまで愛し合った。




     〇  〇  〇




 目前にお盆休みを控えたある日。

 僕は、普段の夕方シフト始業より二時間早く、アルバイト先へ出勤することになった。

「事務所やバックヤードに溜まった不用品の処分を、品出し業務の前に手伝って欲しい」

 と、舟木店長から前日の夜に頼まれていたからだ。


 ……実は最近、過去に使用した販促展示物などが従業員用スペースを圧迫しはじめている。

 ずっと廃棄されないまま、かえりみられることもなく、店内で杜撰ずさんに放置されてきたのだった。


 とはいえまあ、日常業務をさまたげるほどに深刻な状況というわけじゃない。

 少なくとも、僕は日頃品出し業務にたずさわっていて、別段不便を感じたことはなかった。

 ただし困ったりしていないせいで、かえって見て見ぬふりをされてきた感も否めない。


 それが今問題視されるようになったのは、スーパー「河丸」で「お盆期間セール」を実施する計画が持ち上がったせいだ。

 特別セールの期間中は当然、店内に特別な売り場を作る必要があるわけだが――

 終了後にまた、使用済みで邪魔になった販促用素材が増えるのは目に見えている。


 そんなわけで、この機会にようやく「捨てるべき物品は捨て、整理すべき場所は整理しよう」という話になったらしい。


「明日の日中は暑くなるようだから、きっと廃棄作業していると汗塗あせまみれになるぞ」


 僕が協力要請に応じると、舟木店長は付け足すように言った。


「替えのシャツや汗をくものも、何かしら用意してきた方がいいかもしれない」



 そうした経緯を経て、僕はスーパー「河丸」へ午後二時前から顔を出した。

 更衣室で制服に着替えると、ひとまず事務所に寄ってタイムカードを切る。

 それから店長にあらかじめ指示されていた通り、バックヤードへ向かった。


「やあ小宮くん、よく来てくれたね」


 バックヤードに入ると、すぐさま舟木店長が駆け寄ってきた。

 一応「おはようございます」と頭を下げ、定型通り出勤時の挨拶をする。

 店長はそれに軽く手を挙げて応じてから、僕を所定の場所まで案内した。


 連れて来られたのは、おそらく店のバックヤードで最も奥まった一隅いちぐうだ。

 青果コーナーの裏手に位置する空間で、この辺りに入荷した商品の箱が積まれることはない。

 なので平時はあえて近付く機会もないし、薄暗くて何があるのかよくわからない場所だった。


 しかし今、ほとんど初めて付近の様子を検分して、呆気に取られてしまった。

 そこは過去の販促用素材が幾重にも積まれて山を成す、がらくた置き場も同然だったからだ。

 再利用の見込みがない大小のPOPポップ、表面の塗料がげた立て看板、色褪いろあせたの類……

 期間限定セール中に特殊な形態で商品を陳列するため、通常の平台や棚の代わりに用いられた木箱やスチール製のスタンド、プラスチックかごまである。


「とりあえず、ここに積んであるものを従業員用駐車場の端まで運んでおいてもらいたいんだ」


 店長は、店舗裏側へ出る通用口の方向を指差しながら言った。


「そこに置いておけば、あとで業者が来て処分するためにトラックで持っていってくれるから」


 どうやら、この夥しい不用品の山を、屋外まで全部運び出さねばならないらしい。

 おまけに僕以外で作業に従事しようとする人間は、誰も周囲に見当たらなかった。

 店長は、他にも処理すべき仕事があって、こんな雑事にわずらわされているひまはないはずだ。

「手伝って欲しい」と言われていたから、協力してくれる相手が居るかと思ったんだけど。

 思ったよりも、相当な労力を費やさねばならないみたいだった。



 まあ何にしろ、このために早い時間から出勤したわけだし、断るわけにもいかない。

 僕は、わかりました、と言って承知すると、廃棄作業に早速取り掛かることにした。


 とりあえず不用品を種別に分類し、順に嵩張かさばらないものから抱えて運んでいく。

 バックヤードから商品搬入口のある通路を経由し、通用口を使って屋外へ出る。

 従業員用駐車場の指定された場所は、微妙に傾斜がある路面を下った先だった。

 そこへ廃棄する物品をひとまとめにして置いてから、バックヤードまで引き返す。

 再び両手いっぱいに不用品を抱えると、同じ工程で作業を繰り返した。


 ……三、四往復ほど続けたあたりで、身体がすっかり汗だくになった。

 ポケットに捻じ込んであったタオルを取り出し、額や首の周りを拭く。


 店長から昨日助言を受けたとき、密かに「店内は空調が効いているのになぜ、汗の心配をする必要があるんだろう」と思ったんだけど、はっきり理由がわかった。

 涼しい屋内での作業は、バックヤードで不用品を選別し、そこから出るまでのあいだだけ。

 通用口が常時開放されているせいで、そこと隣接した商品搬入口の通路は屋外同様に暑い。

 駐車場の地面は、熱を帯びたアスファルトでおおわれていて、歩くと靴底が焼けそうになる。


 それに細々としたPOPでも、大量に箱詰めして運べばそこそこ重い。

 のぼりだって一〇本二〇本と束ねて担いでみると、けっこう疲れるし。

 立て看板やスタンドは形状自体が大きくて、運搬するのに骨が折れる。


 そこへ来て、見事なほどの猛暑日だった。流れる汗が止まるはずもない。

 いやもう、なんでこんな時期になるまで廃棄作業を先送りしていたのか……

 なんて不平を内心で抱きながらも、僕は不用品をスーパーの外へ運び続けた。



 そうして、作業開始から一時間半ほど経過した頃。

 従業員用駐車場には不用品が積み上がり、徐々に大きな山を形成しつつある。

 僕は、いったん作業の手を休めると、それを眺めて大きく呼気を吐き出した。

 バックヤードに置かれていた不用品も、あと残り僅かだった。もうひと息だ。


 そう考えて、自ら気持ちを入れ直していると――

 右側の耳から頬にかけて、不意に冷たいものが触れた。

 予期せぬ感触に襲われ、びっくりして後ろを振り返る。


 見ると、ペットボトルを持った女の子が立っていた。

 晴香ちゃんだ。店の制服姿で、笑顔を浮かべている。


 どうやら、いつの間にか背後に忍び寄っていたみたいだ。油断も隙もない。

 でもって、この子が僕の顔に冷やしたペットボトルを押し付けたんだろう。

 以前にも似た悪戯を受けた気がする。あのときは、指で頬を突かれたんだっけ。

 いずれにしろ、女子高生の奇襲に二度も引っ掛かるとは、我ながら遺憾だった。


「こんなに暑い中、お疲れ様です先輩」


 晴香ちゃんは、ペットボトルを差し出しながら言った。


「それでこれ、店長から差し入れです」


 僕は「ありがとう」と返事し、それを受け取る。

 有名飲料メーカーが製造しているスポーツドリンクだった。

 おそらく、店の売り場にあるものから融通したんだろうな。

 いつも自分で品出ししているやつだからわかる。


 ――休憩時間でもないのに、今ここで飲んでもいいのかな? 

 なんて思ったけど、水分補給もせずに猛暑の中で作業させ続けると、店側としても都合が悪いのかもしれない。万が一、体調を崩した場合に責任が問われたりしちゃうだろうからね……。

 というわけで、ボトルのキャップを捻って開き、口の中へ流し込む。

 うーん、美味しい。乾いた身体に染み渡る、とはこのことだろうね。



 まあ、それはさておき。

 僕は、いったんペットボトルを口から離すと、晴香ちゃんの方に向き直った。

 ちょっぴり気になって、念のために訊いておきたいことがあったからだった。


「えっと……。晴香ちゃんは今日、なんでこの時間から出勤しているの?」

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