50:お姉さんはお盆に実家で危険物を入手する
晴香ちゃんは今日、平常通りならアルバイトは夕方シフトだったはずだ。
まだ時刻は午後三時半。店に出てくるには、出勤時間より約三〇分早い。
夏期休暇中のはずだから、学校をサボったわけじゃないのはわかるけど。
ひょっとして、僕と同じで何か仕事を頼まれていたのかな……
なんて憶測して訊いてみると、晴香ちゃんは笑顔で首肯した。
「今日はあたしも、店長から事前に不用品の廃棄作業を手伝ってくれって頼まれてたんですよ」
軽やかに身を翻し、通用口側へ何歩か引き返して足元を指差す。
よく見れば、アスファルトの上にダンボール箱が置かれていた。
晴香ちゃんがここまで運んできたものだそうだ。
「もっとも任されたのは事務所にあった分だけで、出勤も先輩より一時間遅かったんですけど」
箱の中には、発泡パネルのPOPなどがいっぱいに詰まっていた。
そう言えば、事務所にも不用品が溜まっているって話だったっけ。
バックヤードに比べて分量は少なく、二、三度往復するだけで全部運び出せるみたいだけど。
ただし「他の書類と混ざって放置されていたりしたせいで、分別に手間取りましたよ」――
と、晴香ちゃんは溜め息吐いていた。重労働じゃなくても、わりと煩雑な作業だったらしい。
尚、箱を抱えて両手が塞がっていた際、差し入れのペットボトルはエプロン中央のポケットを利用して持ってきてくれたのだとか。
別に無理して屋外に持ってこなくても、従業員控え室で渡してくれれば良かったのに……
と言ったら、真顔で「それじゃ不意打ちの悪戯ができないじゃないですか」と返事された。
バイトの後輩的にはそんなに重要なんですか、僕の頬にペットボトルを押し付けるのって。
「えへへ。それにしても何だか、今日はちょっと不思議な感じですよね」
晴香ちゃんは、自分が運んできた箱を改めて持ち上げ、他の廃棄物と同じ場所に積む。
「まだ明るい時間帯にこんな場所で、先輩とあたしが一緒に居るのって」
「言われてみればそうかもね。普段は勤務中に店の外へ出たりしないし」
当たり前だが夕方出勤だと、陽が傾いてから店内で働いている時間が長い。
昼間に屋外で晴香ちゃんと会話するのは、たしかに若干奇妙な感覚だった。
しかも頭上に突き抜けるような青空の下、夏場の白く輝く光を浴びながら――
目の前に立つ晴香ちゃんは、全身にめくるめく煌きを帯びているかに見えた。
僕は、そこに美しい青春の温度を感じ取って、息が詰まりそうになりかけた。
「……はー。ほんのちょっと店の外で動いただけなのに、もう汗で肌がべとべとですよ」
しかし晴香ちゃんは、変わらず明朗な調子で会話を続けようとする。
こちらが何を考えているのかなんて、もちろん知る由もないだろう。
「レジ打ち業務に入る時間が近くなったら、やっぱり一度着替えなきゃ駄目ですねこれ」
そう言いながら、晴香ちゃんは制服の襟を広げ、手で扇いで胸元へ風を送る。
……と、白い喉の下が露わになって、着衣の隙間から二つの膨らみが見えた。
思い掛けない出来事に動揺して、僕は反射的に顔を横へ背ける。
女性のおっぱいなら、美織さんで日頃見慣れているはずなのに。
「あれ? 先輩、どうかしたんですか」
目のやり場に困っていたら、晴香ちゃんがきょとんとした面持ちで問い掛けてくる。
自らの挙措が異性の劣情を煽っていることを、まだ理解していないようだ。天然か!
「いや。どうしたというか、胸が……」
「え、胸が? ――って、ああっ!?」
微妙に当惑しつつも注意をうながすと、晴香ちゃんは視線を自分の胸元へ落とす。
それでやっと着衣の襟と谷間の状態に気付いたらしく、ちいさな叫び声を上げた。
慌てて制服の乱れを直し、うっすらと頬を桜色に染めてうつむく。
「えっと……。このたびは粗末なものをお見せしてしまって、申し訳ございません……」
「い、いや。こっちこそ偶然とはいえごめん……。ていうか決してその、粗末とかでは」
にわかに謎の空気が漂って、互いに謝罪し合ってしまった。
ていうか僕は女子高生に対して、いったい何のフォローを入れているんだ。
いやまあ実際、ちらっと見た印象じゃ平均ぐらいはあったと思うけど……。
そんなことを考えながら、気まずさを誤魔化すように頬を指で掻いていると。
晴香ちゃんが薄墨色の瞳で、ちょっぴり上目遣いにこちらを覗き込んできた。
「ところで、ひょっとして谷間と一緒にブラジャーまで見えちゃいました?」
「あ、あー。いや、そっちは見えてなかったよ。うん、本当に大丈夫だから」
「本当ですか、グリーンであまり好きなデザインのやつじゃないんですけど」
「知らないよ!? ていうか、なんでブラの色や形状を自己申告するの!?」
「……よかった、本当に見てないみたいですね先輩。実はピンクなんですよ」
「だから見えてなかったのに、何も正解まで自己申告する必要なくない!?」
立て続けにツッコミ入れると、晴香ちゃんは顔を上げて照れたように笑う。
「えへへ。何となく、教えてあげたら先輩が喜んでくれるのかなあと思って」
「僕のことって、女子高生のブラの色を聞いて喜ぶ男だと思われてたの……」
非常に残念な評価だったらしく、
ていうか、半ば
いずれにしろ、年下の女の子に不当な印象を抱かれていることは間違いなさそうだ。
自分が普段どんな目で見られているのかを想像したら、少し悲しい気持ちになった。
はあ、とりあえず気を取り直そう。
まだ今は廃棄作業の途中なんだし。
僕は、肩に掛けたままのタオルで、額の汗を拭った。
それから、もう一度店内へ引き返すために歩き出す。
すると、そのとき――
「あの、先輩。そのタオルなんですけど……」
突然、晴香ちゃんから呼び止められた。
薄墨色の瞳を僅かに見開き、酷く戸惑った表情を浮かべている。
その視線はなぜか、僕が肩に掛けているタオルへ注がれていた。
「え、このタオルがどうかしたの晴香ちゃん」
「……あ、いえ。ちょっと可愛いなと思って」
何事かと訊き返すと、晴香ちゃんはタオルの生地を凝視したまま言った。
さっきから僕が持ち歩いているのは、マリンブルーのスポーツタオルだ。
以前に「星澄ルーセント水族館」で購入したもので、文字やイラストが
汗を拭いてから肩に掛け直したとき、生地が広がって、表面のデザインが見えたのだろう。
晴香ちゃん、このタオルが気に入ったのかな?
「こないだ水族館に行く機会があってさ、そこで買ったんだ」
「そっ、そうですか。なるほど水族館で、そのタオルを……」
簡単に説明すると、晴香ちゃんは得心したように深くうなずく。
だが直後に数秒、どこかぼうっとした様子で目を泳がせていた。
明らかに心ここに
――いったい、どうしたんだろう?
妙な反応が気になって、僕は大丈夫かと声を掛けようとした。
しかし晴香ちゃんは、それより一瞬早く、我に返ったらしい。
急に背筋を伸ばし、何かを取り繕うように話題を転じてくる。
「えっと。あ、あたしも事務所に戻って、残りの不用品を運ばなきゃ」
それだけ言い残すと、晴香ちゃんはスーパーの店舗内へ引き返していった。
僕は、バイトの後輩を見送ってから、自分の手の中に残ったペットボトルを眺めた。
〇 〇 〇
お盆期間に入ると、すぐに美織さんは実家へ一時的に帰った。
もっとも、お姉さんのご両親は星澄市内の西区に住んでいる。
だから、近所の店で買った菓子折りを小脇に
僕は、バイトが休みだったけれど、美織さんが雛番に戻ってくるまで留守番していた。
まあ、将来を約束した間柄とはいえ、さすがにまだ家族に挨拶するのは早い、と思う。
そこで、今回は同行を辞退させてもらったわけだ。美織さんは残念がっていたけれど。
いやしかし僕としては、もしお姉さんの
ふと今思ったけど、婚姻届ってフリーターは職業欄に何をどう書くんだろうなあ……。
こんな心配をしている時点で、自分が配偶者を得るに足る人間じゃない気がするけど。
とにもかくにも、その日はマンションに一人で残って、普段通り家事をこなして過ごした。
先日、お姉さんが駅前で出版社の人に会った際と似た状況だね。今回は夜間じゃないけど。
ちなみに僕自身は実家と縁が切れているので、帰省する必要もない。ある意味じゃ気楽だ。
でもって当の美織さんは、丁度正午頃に出掛けて――
日も沈まないうちにさっさと実家から引き返してきた。
「同じ市内で暮らしているんだし、両親には会おうと思えばいつでも会えるからねー」
美織さんは、夕飯の時間になると、僕が作ったトンカツを
ダイニングカウンターに腰掛け、すっかりいつもと同じようにくつろいでいる。
「親戚に挨拶してからお墓参りだけ済ませて、さっさと適当なところで帰ってきたの」
「そ、それにしても、随分早々と帰ってきたね。ご両親から怒られたりしなかった?」
あまりに素早い
折角実家へ戻ったのに
すでに家族と
「その点は大丈夫。私の場合は実家に顔を出しただけでも、上等だと思われてるから」
美織さんは、ふっと遠くを見るような目になって言った。
「何しろ学生時代なんて、お盆と言えば帰省より夏のコミロケ優先だったからね……」
「コミロケ」っていうのは、同人誌即売会の略称だっけ。
正式名称は【コミック・ロケーション】。毎年夏冬二回、東京都の
国内最大規模のサブカルチャー系イベントで、何十万人もの参加者が集まるって聞くけど。
そういや美織さんは大学生の頃、他県の美大に在籍していたんだっけ。
それで、皐月さんと一緒に同人誌即売会に出入りしていたとか何とか……
ははあ、そっか。つまり夏場のコミロケって、お盆期間中の開催なんだね。
当時のお姉さんとしては、帰省なんかしている場合じゃなかったんだろう。
尚、僕と同棲している事実について、美織さんは結局ご両親に一言も話さなかったらしい。
それどころか「恋人ができたことすら報告できなかった」と、やや
しかし実際的に考えれば、それが現状じゃ無難な対応だと思う。
だって「交際相手が居る」と言えば、次に「どんな男性なのか」と問われるのは自明の理だ。
すると「七歳年下のフリーター」と答えなくちゃいけないわけで、面倒な展開が予想される。
……いや、お姉さんが七歳年下のフリーター男子と交際することは、決して法律を犯しているわけでもなんでもない。どっちも成人済みなんだし。
でも、おそらく世間的には好まれないと思うんだよね。
なぜなら、あまり「普通じゃない」関係のはずだから。
「まあ何にしても、ひとまず家族に最低限の義理は果たせたから落ち着いたよ」
美織さんは、ウーロン茶のグラスを口元で傾けながら、満足そうに言った。
「実家に行ったおかげで、今後の仕事に役立ちそうな資料も手に入れられたし」
「……今後の仕事って、例の漫画のこと? 何か作画に必要なものがあったの」
何気ない発言が気になって、僕もトンカツを
「お姉さんが入手した作画資料」――しかも、漫画制作に役立ちそうなもの。
いったい何だろう? 実家に保管していた古書の類でもあったのだろうか。
または何か写真撮影できたとか、希少な品を譲り受ける機会があったとか……?
「あっ、あはは……。それほど大したものでもないんだけどねー」
あれこれ想像を巡らせていると、美織さんは僅かに目線を横へ
なぜだろう、妙に体裁悪そうにしている。作画資料の話をしているだけなのに。
「折角だし明日になったら、ちゃんと裕介くんにも見せてあげる」
「えっ、今すぐには見せてくれないの?」
重ねて訊くと、お姉さんはこくりとうなずく。
「……それはまあ、心の準備があるので」
恋人に見せるに際しても、「心の準備」が必要な作画資料らしい。
ますます謎は深まるばかりだ。それって、本当に資料なんだよね?
僕は、思わず首を捻りつつも、食い下がることは
どうせ明日になったら、ちゃんと見せてくれるらしいし。
あえて追及して、お姉さんを困らせる必要はないだろう。
〇 〇 〇
そんなわけで、一夜明けた次の日。
僕と美織さんは、起床して朝食を済ませると、各々の仕事に取り掛かった。
お盆期間中とはいえ、部屋で過ごしていても平時と生活は
強いて言うなら、アルバイトのシフトが多少変則的だったりするぐらいだ。
昨日も休みだったけれど、今日は午後六時半から始業で四時間余りの勤務。
そのぶん明日は昼シフトで、休憩時間を挟みつつも、ほぼ丸一日働かなきゃいけない。
パート従業員の皆さんが何人か、休暇を取ったりする兼ね合いがあるからなんだよね。
かくして午前中、僕は掃除や洗濯を手早く片付けたあと、昼食に何を作ろうかな……
なーんて、リビングでちょっと思案していたんだけれど。
そのとき、美織さんが仕事で使用している部屋の側から、ちいさな物音が聞こえてきた。
反射的に振り返ってみれば、出入り口のドアがほんの四分の一程度、そっと開いている。
そこに生まれた僅かな隙間から、お姉さんが顔だけ出して、こちらの様子を
……うーん、とんでもなく挙措が怪しい。こりゃまた、何があったんだろう。
「あのね裕介くん。昨夜に話した『作画資料』のことなんだけど――」
美織さんは、ドアの物陰に身体を隠したまま、おもむろに話し掛けてきた。
どういうわけだか、声音が恥ずかしそうに少し震えて、
「もし手が空いているようなら、今ちょっとだけ見てもらえるかな?」
僕は、口を半開きにした状態で何も言えず、目を白黒させることしかできなかった。
そうして、おおよそ三秒挟んでから、ようやく当然の疑問を頭の中で思い浮かべる。
――僕に「作画資料」を見せるだけで、なんで恥ずかしがらなきゃいけないんだろう?
そう、昨夜のお姉さんは「心の準備」が必要だとも言っていた。
今現在の奇妙な言動といい、何が何だかさっぱり意味不明だよ。
いったい、僕はどんな資料を見せられようとしているのか……
と、あれこれ
こちらから問い質すより早く、美織さんは勢いよくドアを開け放った。
意を決したように赤く染まった顔を上げて、真っ直ぐ歩み寄ってくる。
その姿を見た途端、僕はごくりと息を呑み、
なんと、僕の恋人であるお姉さんは――
まるで女子高生みたいな、ブレザーの制服を着用に及んでいたのだ!!
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