43:先輩と恋のはじまり

 高校一年生の七月も中旬に差し掛かった時期――

 あたしは、初めて「バイト先の先輩」こと小宮裕介さんと出会った。

 五月生まれのあたしは、当時一六歳。先輩はまだ一九歳だったはず。



 一学期の定期考査も無事終了し、高校生活に馴染んできた頃だった。


 周囲でも少なくない友達が、ひとときの青春を謳歌しはじめるようになっていた。

 街の中心部まで出掛けて遊んだり、気ままに買い物したり、恋人を作ってみたり。

 あたしも、自然とその中へ交じる機会が増えた。

 だって、それが「普通」の青春だと思ったから。


 そうなると、先立つものは「お金」なんだよね。

 なので、あたしはアルバイトすることに決めた。


 あまり自宅からは遠くない場所で、学校帰りに自転車で寄れる範囲の勤め先にしよう。

 そうした条件を踏まえ、時給や勤務時間を吟味しながら、適当な仕事を探していくと……

 やがて地元のスーパー「河丸」で、レジ打ち業務の従業員を募集していることがわかった。

 詳しく調べてみても、アルバイトの待遇は大半希望に合致する。ここしかない。


 あたしは、一も二もなくお店に連絡を入れると、履歴書をたずさえて面接にのぞんだ。

 翌日の夕方には採用通知があって、翌々日から仕事に取り掛かることになった。



 かくして初出勤の日、運命の瞬間が訪れた。


 舟木店長からお店の制服を支給され、女子更衣室をそれに着替えて出たとき。

 従業員控え室の片隅を見ると、若い男性がスチール製の椅子に腰掛けていた。


 顔立ちだけの印象だと、あたしと同年代か、ほんの少し年上ぐらいに見える。

 どこかぼんやりした雰囲気だけど、真面目で優しそうなお兄さんだと感じた。

 同じようにお店の制服を着ているし、きっとこの人もアルバイトなんだろう。

 今は手元でスマホを弄りながら、始業時間まで暇潰ひまつぶししているみたいだった。


 こういうのはきっと最初が肝心だよね、とあたしは考えた。

 今後所属する場所で「普通」の立ち位置を押さえるには、第一印象から。

 周囲と早く打ち解けるためにも、まずはしっかり挨拶しておかなくちゃ。


「あのっ、今日からバイトでお世話になる今井晴香っていいます」


 あたしは、お兄さんの傍へ歩み寄って、ぺこりと頭を下げる。


「レジ打ちを担当させて頂くので、どうぞよろしくお願いします」


 お兄さんは、こちらに気付いて顔を上げると、二、三度、目を瞬かせた。

 それから慌ててスマホを長机の上へ置き、スチール椅子から立ち上がる。


「……あ、どうも。品出しを担当しているバイトの小宮裕介です」


 小宮さんと名乗った男性は、少し気後れしたような仕草で応じてくれた。

 あたしの方が新人で、明らかに年下なのに妙に腰が低いなあ、と思った。


 もっとも、そんなお兄さんの飾り気のないところを見て、あたしは逆に好感を持った。

 自分の第一印象は正しかったと確信できたし、何となく「普通」っぽい気がしたから。

 こういう人は大抵、常識的な感覚の持ち主で、年上の異性でも話しやすい場合が多い。


 実際この挨拶をきっかけにして、あたしは小宮さんとバイト先で親しくなっていく。

 真面目な勤務態度も、優しい性格も、良識人らしいところも、おおむね直感通りだった。


 ……ただし実は思ったよりも、あまり「普通じゃない」素性の人物だったんだけど。



 とにかく驚かされたのは、小宮さんがフリーターだということだった。

 しかも地方から進学した大学を中退し、家族とも疎遠になっているらしい。

 バイトで得た収入で細々と、去年から平伊戸のアパートに独り暮らし……


 にわかには信じられない話だと思った。

 だって小宮さんは、見るからに真面目そうなお兄さんだったから。

 そんな「普通じゃない」身の上は、ちっとも似合わない気がした。


「もう少し今井さんは、必ずしも『人は見掛けに寄らない』ってことを学んだ方がいいね」


 ある日のバイトで休憩時間中、小宮さんはそう言って笑った。

 やや冗談めかした口振りだったけれど、声色は自嘲的だった。


 あたしは、何となく納得できなくて、思わず問い質してしまった。


「あの、どうして大学を辞めたんですか? 折角合格して、地方から出てきたんですよね」


「……どうしてもこうしてもないさ。いざ入学してみたら、すぐに嫌気が差したからだよ」


 わりと失礼な訊き方だったにもかかわらず、小宮さんは穏やかに答えてくれた。

 でもあたしには、その回答が事実のすべてだとはどうしても信じられなかった。

 いや、もしかすると小宮さん自身も、あらゆる理由が正しく表現できる言葉を、まだしっかり持ち合わせていないんじゃないかな……? 

 以後も何度かやり取りしていて、漠然とそんなふうに思わずにはいられなかった。

 小宮さんに対する第一印象が、どうしても的外れだったとは思えなかったせいだ。


 他の従業員の皆さんに訊いてみても、小宮さんは似たような人物評を得ているみたいだった。

「遅刻や無断欠勤は一度もない」「誰にでも礼儀正しく接している」「お人好しだ」など……。

 少なくとも、人間性に悪印象を感じている人は、店内に一人も居ないらしかった。


 ただいずれにしろ、こうしてバイトをはじめてほどなく――

 あたしにとって、小宮さんは「不思議と気になるお兄さん」になった。

 真面目で優しい人柄と、大学中退してフリーターを続けている身の上。

 そこに奇妙な落差ギャップや違和感を覚えて、やけにき付けられてしまった。


 ……うん。実はこの頃から、もう目が離せなくなっていたんだと思う。




 決定的な事態と遭遇したのは、バイト開始から一ヶ月ほど過ぎたある日のこと。


 普段通り夕方からのシフトに入って、あたしはレジでお客さんに応対していた。

 三時間ほど業務に従事すると、店長から休憩の指示が出たので持ち場を離れる。

 夕食に菓子パンを買おうと考え、ベーカリーコーナーへ向かおうとした矢先だ。

 にわかに背後から、まるで聞き覚えのない声に呼び止められた。


 はたと振り返ってみれば、五〇歳前後の小太りな女性客が立っていた。

 派手な服装に身を包んでいて、不機嫌な様子を隠そうともしていない。


「ねぇ店員さん。先日からヤマナミ食品のカレールゥが売り場に見当たらないんだけど」


 あたしは、ヤマナミ食品のカレールゥ、と商品名を頭の中で反芻はんすうした。

 たしか、この店でも扱っている品物だよね。ただし定番商品じゃない。


 カレールゥは沢山種類があるけれど、特殊な銘柄はバックヤードにも在庫がないはず。

 つまり、加工食品の売り場に陳列されていなければ、現在入荷していないことになる。

 念のためにいったん該当する商品棚を確認してきてから、あたしはそのむねを説明した。

 できるだけ失礼のないよう、丁寧に事情を伝えたつもりだった。


 ところが、お客さんは目をいて、猛烈に怒り出したんだよね。

 店内の床を靴のかかとで踏み鳴らし、品揃しなぞろえに文句を並べはじめた。


「ちょっとどういうことなの、うちの子供はあのルゥで作ったカレーしか食べないのよ」


 ――いや、あんたの子供のことまで知らんがな……。

 と思ったものの、当然そんなことは口に出して言えない。

 あたしはただただ、身を縮ませておびし続けるだけだ。


 あとからわかったんだけど、この女性はお店の近所で有名なクレーマーさんだったみたい。

 これには本当にびっくりしたし、物凄い剣幕けんまくだったから、どうしようかと狼狽うろたえちゃった。


 そんなわけですっかり困って、あたしが弱り切っていると――

 すぐ近くの通路を、そのとき小宮さんが通り掛かったんだ。


「恐れ入りますお客様。差し支えなければ、私にもお話をうかがわせて頂けますでしょうか」


 小宮さんは、おもむろにこちらへ歩み寄ると、クレーマーさんに話し掛けた。

 相手は少しきょかれた様子だけれど、すぐさま怒りの矛先を転じ、再びまくし立てる。

 じっと非難に耳を傾けて要望を把握すると、小宮さんは神妙な態度で謝罪してみせた。


「申し訳ございません。売り場の品揃えに不備があるのは、品出しグロサリー担当の責任ですので」


 それから事務所と連絡を取り、品出し業務の主任チーフを呼び出す。

 主任さんはスーパーの正社員で、たしか売り場に並べる商品の発注責任者なんだよね。

 その場へ急いで駆け付けると、平謝りに謝りながら、該当するルゥの入荷を約束した。


 どうやら「商品発注に関わるお店で一番偉い人」が出てきたことで、やっとクレーマーさんも機嫌を直してくれたらしい。

 まだ態度は刺々とげとげしかったけれど、それ以上はくだを巻いたりせずにお店を出ていった。

 あたしはそれを最後までかしこまって見送ってから、ほっと胸をで下ろしたんだよね。



「あの、救けて頂いてありがとうございます。ああいうお客さんの相手するの、初めてで……」


 ようやく休憩に入ると、あたしは従業員控え室で小宮さんに感謝を伝えた。

 あのままクレーム対応に手間取っていたら、夕食抜きになるところだった。


「何度か謝ってお客さんが納得しないみたいだったら、該当業務毎の主任を呼んだ方がいいよ」


 小宮さんは、気にする必要ないよ、と言ってから付け加えて続けた。

 しゃべりながら、惣菜コーナーで購入した唐揚からあげ弁当を食べていた。


「どうせバイトの僕らじゃ、勝手に具体的な解決策も提示できないし。怒られ損になるからね」


「今後は気を付けます。……小宮さんも以前、今回みたいなことがあって苦労したんですか?」


「苦労ってほどじゃないけど多少ね。たかだか一年だけど、ここでのバイトは君より先輩だし」


 あくまで経験の差にしか過ぎず、個人の能力や努力とは関係ない。

 ましてや実際に問題を片付けたのは、自分じゃなくて主任だから――

 小宮さんは、この日の苦情処理について、そんなふうに素っ気無く結論付けていた。


 それは純然たる事実でしかなかったかもしれないけれど、実直な言葉だなと思った。

 少なくとも、このお兄さんが些細なことで女の子に安い恩を売り付けたがる人間じゃないのはわかった。世の中にはいやらしい男性が沢山居ることを、女子高生のあたしは知っていた。


 ――やっぱり小宮さんは、凄く「普通」の人なんだ。


 あたしはこのとき、救けてもらった事実より、自分の直感が正しかったことを喜んでいた。



「そっか、あたしの先輩ですもんね小宮さんは。バイト先の先輩――」


 あたしは、努めて普段と変わらない口調を装った。

 つい口元がほころびそうになるのは、懸命にこらえていた。

 そうして、ちょっぴり揶揄からかうように提案したんだ。


「これからは小宮さんのこと、『先輩』って呼ばせてもらいますね?」


「え、何それ。急にどうしたの、なんか妙に恥ずかしいんだけど……」


 小宮さんは、目を白黒させて、ややたじろぐような素振りを見せた。

 でも、ここは怯まず食い下がる。こんな機会はなかなか来ないから。


「最初に自分のことを先輩だって言ったの、小宮さんじゃないですか」


 あたしは、わざとげ足取るようにして、少し意地悪く言った。

 そうしなきゃ心の中では照れ臭くて、身悶えしそうだったから。

 自分が凄く恥ずかしいことを頼んでいるのは、わかっていた。

 しかも、ますます恥ずかしいことを頼もうとしていたことも。


「それから折角ですし、あたしは下の名前で呼んでください。実は自分の苗字って、あまり好きじゃないので。友達はみんな、ハルカって呼んでくれているんですよ」


 もちろん今井という苗字が嫌いだなんて話は、まるっきり嘘だった。

 自分のことを、下の名前で呼んでもらいたくて使っただけの方便だ。


 小宮さん――

 つまり「先輩」は、困り顔になって躊躇ちゅうちょしているみたいだった。

 でも数秒挟んでから、何とか踏ん切りを付けたように口を開く。


「えっと。じゃ、じゃあ――晴香ちゃん、でいいかな……」


 呼び方は麻里菜や優美よりも硬かったし、呼び捨てでもない。

 とはいえ、この辺りがお互いに丁度いい落としどころだよね。

 いきなり馴れ馴れしくなりすぎるのも、どうかと思うし。


「はい、先輩。これからはそれで、よろしくお願いします」


 あたしは、満足してうなずき、夕食の菓子パンをかじった。




     〇  〇  〇




 こうして、あたしの恋がはじまったんだよね。


 真面目で優しくて、でも大学を中退してからフリーターを続けている先輩。

 なぜこんな「普通っぽくない」ことになっているかは、わからないけれど。

 本来なら先輩はきっと、に居なくちゃいけない人だと思うんです。

 うん、絶対にこのままじゃいけない。間違っていると思う……。


 好きになった人が「普通じゃない」だなんて、悲しすぎるから。



 だからね、先輩――


 あたしが必ず、先輩のことを「普通」にしてあげます。

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