夏 ~いとしい我が家~
夏 ~いとしい我が家~ ①
火葬場の係員から手渡された父の骨壺は、私の小さな胸に収まるくらい小さなものだった。
この壺の中に、おんぶをしてくれた広い背中と、いつも優しく撫でてくれた大きな掌が入っていると思うと、私の胸は今まで聞いたことのないような音を立てて軋んでいった。
そのときになって、ようやっと幼い頭でも理解できた。
一緒に行こうと約束した水族館にはもう家族三人で行けないこと、お父さんは授業参観にも、小学校の卒業式にも来ないこと。
そして、もう二度と……お父さんとは会えないこと。
目からぼろぼろと涙がこぼれて、頬を次から次へと伝っていく。
目の前がどんどん靄がかかったように白みがかって、何も見えなくなっていき……私はうつむいた。父の骨壺に、涙が雨のように落ちていく。
このとき、私は11歳。父はまだ39歳だった。
◇◇◇
実家の最寄りのバス停からから一つ前のところで降りる。
わざわざ少し前のバス停で降りたのには、きちんと理由がある。スーパーに寄って、母から押し付けられた『おつかい』を果たすためだ。母はいつも、帰ると連絡を入れたら、何よりも先に買ってきて欲しいものを送ってくる。
真後ろからは太陽の光が、目の前からはアスファルトの照り返しがじわじわと私を焼いていく。スキニージーンズなんてはいてくるんじゃなかった、脚にぴったりと張り付いて気持ち悪い。
私は喝を入れるようにボストンバックを肩にかけ直す。
紀一郎さんと旅行に行ったときに使ったものよりも大きいバックに、着替えと読みかけの本と、紀一郎さんと買いに行ったバウムクーヘンが入っている。
スーパーに入ると、まるで北極か南極かにいるかのような冷たいクーラーの風がぶわっと吹き込んできた。極端な温度の違いに身を震わせて、私は目的のものをカゴにどんどん入れていく。
父の好きだったお菓子、おつまみ、今日の晩ごはんの材料。母から送られてきたメールを見ながら、一つ一つ籠に入れていった。
そして最後に、父の好きだったビールを。
「……あ」
この、ふとした瞬間に訪れる『父が死んだ後の時の流れ』には、未だに慣れない。
「ただいまー」
玄関には母の靴と並ぶように、未だ見慣れぬ男物の靴があった。最近この家に、とある男の人が頻繁にやってくるようになった。父の死から時が経って、ついに母も、再び幸せを掴んだ。私が大学に進学する1年前のことだった。
私はぎゅっと目をつぶり、思い切って居間へつながるふすまを開ける。何度か、その相手に会ってはいるが……未だに慣れそうにない。
恐る恐る目を開けるとそこには……胡坐をかいて涼んている叔父さんがいた。
「……なんだ、叔父さんか」
叔父さんは私よりも一日早く帰ると言っていたが、まさか私の実家でこんな風にのんびりしているとは思わない。
「なんだとはなんだよ」
「いや、そんな悪い意味じゃなくって」
「……西野さんかと思った?」
私がおずおずと頷くと、叔父さんは小さく笑みをこぼす。
「ビビり過ぎだろ、母親の彼氏に対して」
「だって……」
「ま、母親の彼氏が自分の彼氏よりも年下だったら、そりゃビビるよな」
余計なことを言う叔父さんの背中を蹴る。叔父さんは、少しだけお父さんに似ている。ほんの少し、一つまみ程度。温厚でのんびりとしているお父さんは、絶対に叔父さんみたいな意地悪な冗談を言わない。
私は買い物袋をもったまま、台所を覗き込む。そこには、前よりも小さな背中になったお母さんの姿があった。
「おかーさん」
「あら、桐子おかえり。遅かったわね」
「人にこんなに用事押し付けておいて、そういう事言う?」
家族と話すときは、紀一郎さんや友達と話すときとはまた少し違う、特別な気安さがある。
家族と過ごしてきた長い時間の証明をするもの。私は肩の荷がすとんと全部落ちていったのを感じていた。
ボストンバックを置いて、エコバックから買ったものを取り出しては次々に冷蔵庫に入れていく。野菜にお肉に、今日の晩酌用のお酒諸々。
「ごめんね~。外に出るの面倒くさくて」
「そんなことだと思ったよ」
「お金、後で払うから。レシート出しておいて」
「……ねえ、お母さん」
「なに?」
「……お父さんの好きだったビールさ、15年ぶりのリニューアルだって。味、変わってるかもね」
お母さんは、眉を下げる。
何も変わらないものなんて、この世界のどこを探してもないはずなのに、どうしても私たちは『変わらないもの』を探して縋ろうとしてしまう。
もう10年も、こんな生活を繰り返していた。
「……大丈夫、お父さん呑めるなら何でもいいでしょう? それに、おいしくなってるなら喜ぶんじゃない?」
「……そう? ならいいや」
顔を見合わせて、二人で笑いあった。
冷蔵庫にすべてを入れ終えた私は、その足で仏間に向かう。仏壇には、母が作った精霊馬が置いてある。その横に並べるように、先ほど買ってきたおつまみとビール、お土産のバウムクーヘンを置く。
マッチで付けた火を、ろうそくに近づけて灯した。蝋の溶けていく臭いよりも強い線香の香りが、すぐに鼻をついた。その線香を寝かし、おりんを鳴らす。
その涼しい音色が部屋中に響き渡る。綺麗な音だけど、私はこの音だけは大嫌いだった。
すぐさま顔をあげて、台所に戻る。お母さんは「いいのに、手伝いなんて」と私の方を見ずに呟いた。
「暇だし、いいよ。何かある?」
「それなら、冷蔵庫に枝豆あるから……枝から外していってくれる?」
「もしかして、枝付きで買ったの?」
「うん、その方がおいしいって西野君が言ってたから」
母からその名を聞くと、どうしても背筋から腕にかけて、ざわつく。それを悟られないように、私は冷蔵庫の野菜室を開きながら口を開く。新聞紙に包まれた大きな塊を取り出し、ダイニングテーブルに置いた。引き出しからキッチンバサミを取り出して、椅子に座る。
「元気? 西野さん」
「うん」
枝豆をひと房ずつ切り離していく音が、小さな台所に満ちていく。
「誘ったんだけどね」
「西野さん?」
「うん。でも、一家水入らずでどうぞって。気使われちゃった」
「そうなんだ」
残念だったね、と付け足したが心の中では細く長く息を吐いていた。凝り固まっていた緊張感が、ぶわっと抜けていく。
「桐子はまだしも、和三さんも来るんだから。何だかにぎやかだわ」
「叔父さん、実家に帰らないの?」
お父さんと叔父さんの実家も、そう遠くないところにある。それなのに、叔父さんがうちでリラックスしているのが不思議だった。
「さあね、でもいいじゃない。こんなの久しぶりだし」
「そうだけど」
「こんなに楽しいのに、どうして西野君来なかったんだろう」
私に聞かせるためじゃなくって、お母さんは自分のために呟いていた。
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