3 たとえば父親がいなかったら

3.1 ギターでオクターブ奏法をかき鳴らせたかもしれない一日

 私が目を覚ました時に見えた景色は散乱した机であった。店長の出現はまだ、ない。



 この場合の店長というのは紛れもなく私のバイト先の店長のことであり、私のバイト先というのは見紛うことなく全国チェーン展開を現在進行形で繰り返しているファーストフード式ハンバーガー提供店である。安すぎず、高すぎず、市場原理的価格のハンバーガー等の商品を販売している。最低限度のクオリティを維持しながら、来客の要求する速度を超えて仕事をこなすことは、〝我々従業員の涙ぐましい努力と、怨念と、反社会的対抗力を秘める我が魂〟略して〝反抗〟によって支えられている。



 嘘である。



 仕事を支えているのは、毎月十日に締められ、二十五日に銀行口座へと振り込まれる日本銀行券である。しかし、その資金源は不明瞭なものである。



 一時間の間に受注した数十件もの大量注文を、接客、パン焼き、揚げ物、ドリンクの製造、機械操作になれていない後輩へのサポート、接客のカバー、突如鳴りだす匿名発信内容暴音だけの電話、カウンター越しに来客から呼び出されての対応、インカムから流れるドライブスルー注文を一言で三分間引き延ばし、ネットでの注文がレジで鳴り響くのを流しながら、新たな来客者へ向かって全力の挨拶。総締め、八百円。



 一時間の間にこれと言った来客もなく、床を掃除し、ごみをまとめ、休憩へ向かう店長を断れずにワンオペレーションをこなし、清算と機具の清掃、消毒のために薬を大量に使った機械のメンテナンスを就業時間無限大で片づける。総締め、八百円プラス夜間料金。



 月締め、労働時間×国地方自治体指定最低時給マイナス保険料マイナス住民税、所得税、健康保険、厚生年金、雇用保険。ここから個人にかかる生活費用が差し引かれる。果たして、手元にはいくら残っているだろうか。



 どれだけ努力して、必死に働いても一時間当たり、月当りの給料が変わることはない。どれだけ暇な勤務時間であっても、手を抜いた仕事であっても、時給と月給が変貌することはない。非正規労働者と正規雇用労働者との間にはどこかのだれかが作り、国のどこかの誰かが運用している法律によって立場が異なるため、社員による我々へのありがたいお言葉も大抵は意味をなさない。なにせ、立場が異なるのだから。



 我々がこれだけ不遇の境遇にあっても、一度でも寝坊すればそれは社会と来客者への迷惑でしかないのだと激しい叱責と共に社会的信用と立場変更、つまり正規雇用される可能性はなくなる。店長が寝坊しても、朝から働いているアルバイトがいるから何も問題ないにもかかわらず、である。



 しかし、私の立場では文句の一つも言うことができない。労働基準監督署や労働組合ユニオンに駆け込んで業務と境遇の改善を申し込むのはどうだろうかと考えたこともあるが、人間関係を悪化させてまで仕事をしたくはない。店長の性格と人柄は褒めるに値し、お金のないときは衣食の世話までさせていただいた恩もある。接客が心で行う物であるというのであれば、裏側の従業員間における心が軋んでいては、きっと笑顔はただの作り物だ。それこそ本当に仕事がただの作業になってしまう。



 苦しいのであれば、辞めればいい。逃げればいい。恥でもなければそれは勇気であるとどこかのアニメや小説で見かけた気がしたが、それができるほど私は人間ができていない。



 私はこの仕事以外の仕事を知らない。ここを辞めたところで、行く当てなどない。アクティブにフットワーク軽くはきはきと他の仕事に就業しても、そこで仕事を続けることができる自信はない。今の仕事を高校生の時にバイトで始め、大学受験期に父親が他界。経済的観点から進学を断念。大学に進学して高校生の時よりも勉強しなくなるほど馬鹿騒ぎのできるサークルや、趣味のギターでオクターブ奏法をかき鳴らせたかもしれない一日を私はバイトに費やした。心の余裕は仕事や人間関係によって圧迫されるのではない。金銭的余裕の有無が心の隙間を左右する。



 勘違いはしないで欲しいが私は決して、暗黒の未来や深淵の社会を憂いているのではない。仕事によって得られる社会的承認を大きく上回る安定的経済の供給が不透明であることを嘆いているのだ。毎月全ての人が一定の満足できる金を手にするのであれば、鬱病患者の半分ぐらいは救えそうなものである。



 休憩時間残り二十五分。店長はまだ出現しない。



 この時間、休憩を取っているは私だけである。交代で一人ずつ取ることになっているのだが、他のバイトくんやバイトちゃんを慮った結果、正午はオービス反応速度を蹴とばす速度で過ぎていた。



 早朝六時から百個以上のバーガーを特別に注文した自治会長へ納めるために仕事をしてきた私が、有機物を胃に収めたのはおよそ十分前の出来事である。正午に無数の人間が腹にパンと肉と野菜と特製ソースを詰め込んで消化しているときに私は、ひたすら注文を消化していた。バーガー作りを店長に任せ、私は揚げ物を担当した。怒号の受容と他仕事補助を兼任したのは普段通りだ。私は理不尽にポテトを投げつけられて油と塩にまみれたが、笑顔であり続けた。そうでもないと、たぶん壊れていたであろうから。



 お世辞にも褒められるべき労働環境ではないが、私が長時間労働を行っているのは自発的である点を忘れてはいけない。母と二人で家庭を守らなければならない。生きるために働かなければならない。だから、文句を言っても始まらない。例えそこにどのような理不尽や搾取の温床があろうと、国の最低を下回っても、親子二人の生活を壊さない程度の賃金を貰えるのであればそれでいい。贅沢や人生論、幸福論はもう二度と聞きたくない。私には私の家がある。誰かの押し付けがましい価値観などいらない。しかし、私の労働意欲同様に人生の行き場がなくなっていることもまた事実であった。国会の答弁同様、見るに堪えない。



 アジカンは軋んだ心をアンダースタンドしてくれているが、世の中のすべて、いや、扉の向こう側にいるカウンター客がそれを理解してくれることはないだろう。私はそのように悟っている。悟らざるを得ないのかもしれない。環境とは恐ろしい物である。



 私と店長の立場が異なるように、私とドリンク一杯だけで数時間粘り続ける客との間にも立場の違いがある。人が人にサービスを提供することで生まれる人と人の交流であるはずの仕事が、今ではやるべきタスクと明日以降の未来を埋め尽くすように積み重なった責務にすり替わっている。目的はいつの間にか宙で巨大な権力として我々に当然を押し付け、手段は概念化した理想を守るために自動化した。



 これまでいくつかの私の世界を経験してきた私としては、今回ばかりは中々に過酷な私であると、思わざるを得なかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る