3.2もしも妹がいるのなら、それは最高である

 白く狭い密閉されたいつもの部屋に戻ってきた私は、以前の記憶を思い出していた。しかし、以前と言っても、パンツの色をクイズにする年上の先輩のいる学園生活のことである。そして、今回の失言……じゃなかった、湿原での宿娘との生活。私に定着していた記憶は、これらと調子に乗って告白までしている私だ。私も中々隅に置けない。



 ともあれ、私に関する記憶が定着したのは喜ばしいことである。これからは何をしても、自分の行動を覚えていることができる。ああ、素晴らしき記憶よ。



 そして、この記憶を元に私はこれから何をすればいいのかおおよその見当が付いたのであった。おそらく、私はこれからいくつかの異なる世界を、正確には異なる環境に身を置いた私の世界を過ごすのだろう。一度目は両親がおらず、一人暮らしの私。先ほどは父親との放浪暮らしの私。次はどのような私になるのか分からないが、これまでにはない私であることは間違いないであろう。そしてこの推測を裏付ける事象が、前世界の最後に私に語りかけた宿娘の言葉である。



 彼女は『彼女自身を見つけて、目的を達成してほしい』と言った。前回、この場合はつまりパンツクイズ学園生活のことであるが、そこでさよならを言えなかったとも言った。これを便宜上一度目の世界とするが、一度目の世界で出会ったのは一つ上の先輩少女。確かに彼女とは親しく、そして私があの世界からこの部屋へ来る前に別れは言っていない。整合性に異はない。疑って嘘だと決めつけても構わないが、現状の私を鑑みれば、手にした情報は大事にすべきであろう。



 そこで当然のように疑問が生じる。彼女がこの不確かな世界の唯一の不変であり、私を導く人間であったとして。なぜ私が成し遂げなければいけない目的を話さないのか。私はしばらく考え、そして思い至った。



 話せないのではないのだろうか。



 話す権限がない、私に伝えると何らかの不利益が生じる、そもそもその目的を設定したのは私であり、その上で記憶を消さなければいけない事情が存在したがために、現在の状況となっている。彼女は私に目的があることを知っていても、その詳細までは知らない。だとすれば、尋問するだけ愚問である。



 問題は次の世界である。



 次の世界に到着するや否や、すぐに記憶がなくなるとこの考察も無に帰してしまう。それはいけない。私は手元のパソコンを再起動させ、メモ機能へ記録しておくことにした。



「これでよしっと」



 これで三度目の世界で記憶なしに翻弄されようと、三度戻されるこの部屋に入ればその記憶は我がものとなる。情報を次々に獲得し、累積させていけば必ずやその目的とやらも見えてくるであろう。さすればこの奇妙な現実だか、夢だかから抜け出される。一番うれしいのはここまでのすべてが、真の現実にいる私の夢であり、目覚めてすべて元通りということであるが、しかしこれはこれで少し面白くなってきたので勿体ない気もする。できることなら、その目的を確認・達成してから帰還しても遅くはない気がする。夢であれば、だが。



 さて、そろそろ次へ向かうとしようか。どうせこの部屋でやれることなんて限られている。サクサク進めて世界の果てを見てやろうじゃないの。



 私は本体いつの間にか差し込まれている二枚目のフロッピーディスクを取り出し、メモ欄を確認した。そこにはよく見る記号である『* * *』アスタリスク三つが記されていた。前回はこれが三つの森だった。今回はシンプルにひとつずつ。私は前回と同じ手法でメールアドレスにこの記号を入力して送信した。



 体の電気がどこかへ流れるような錯覚を感じ、徐々に意識がぼうっとし始めた。

 ああ、そう言えばこういう感覚だったなと前回を思い出しながら私は次の私の世界へと旅立った。




 ***




 そう、私は一時的な記憶の喪失に備えてメモまで取っていた。だが、この世界では記憶は失われず、前回までの行動記憶が完璧である。私の置かれた状況も掌握している。この世界で何か目的を探していること、唯一不変の少女を見つけること、ここが電子メールに書き込んだ暗号を元に構築された仮の世界であるということ。大丈夫。曖昧な点はない。



 それにしてもこの世界の私は辛い。家庭を守るため、生きるための労働がここまで苦痛に満ちたものであることなど、現実世界でぼーっと生きていた当時の私からすれば想像にも及ばなかった。国営放送の五歳児の少女に怒られてしまいそうである。



 休憩用に間借りしている机に片腕を麻痺させながら伏せっていると、そこにようやく店長が出現した。最高権力者の御帰還である。おなり、おなーりー。表を下げよ、我がこうべ



「あっ、お疲れ様です」

「おう、お疲れ」



 いつものようにそんなにも太らせてどうするんだというレベルの肥えた腹を揺らし、頭髪の後退がしんがりによってこれ以上食い止められないほど進行している雇用主は手に栄養ドリンクをもって現れた。きっとそれは従業員への労りであり、その屈託のない誰からも好かれそうな優しい笑顔で渡してくれるのは非常にありがたい。



「大丈夫か。疲れた顔しているな。その、いつも負担を掛けてしまってすまない。私ももっと従業員増やしたいんだけど、春にバイトの応募はゼロ。本部からの正社員の応援もないんだ。情けない」

「いえいえ、大丈夫ですよ。バイトが数か月で辞めるなんていつものことじゃないですか。この業界だし、今の日本を考えたらそう簡単に人員補充ができないですよ。その分私が働くことできますから、たくさん稼げます!」

「ありがとな」



 店長もこの状況が通常でないことぐらい分かっているのだ。おかしいとも知っているのだ。数年前にはこんなことになるなんて考えられなかったのだ。日々の忙殺される労働タスクが余計な思考を作らせないのだ。店長以上のお偉いさんは、なぜこの事態を考えていなかったんだ。考えていなかったお前が悪い。手を打たなかったことが問題だ。考えることが大事だ。言われたとおりに仕事だけしていても等々埒外の文句を放って店長の胃を殺していた。もはや胃薬は耐性を獲得しているだろうから、効果は期待できないであろう。



 これに対して昨日は



「現場の、当事者が置かれた状況を本人の立場に立って考えられない人間の言葉など無視してやればいい。主観だけの傍観的戯言に意味はないですよ。もしも事前に手を打てるのであれば、それこそ外部から状況を客観的に見ることのできる彼らのような人間こそが仕事をすべきだったんだ!」



 と、大学生の可愛いくてサークルの中を色気だけで全女性の嫉妬と男性の下心を収集する女性との飲み会を妄想する私は、現実で店長にお酌をしていた。店長は隠し切れない涙を必死に私へのありがとうで誤魔化した。いったい誰がこんな世界を望んでいたのだというのだろうか。ここが仮に仮の世界であるのなら、もっとましな世界にしてくれてもよかったではないだろうか! そうだ! たとえば可愛い女の子との爽快なラブ&コメディとか! そう言うの欲しかったな。せめて、せめて妹が欲しい。妹のいる世界にしてほしい。



 一人っ子の宿命として親から過保護と溺愛を享受するのは一向に構わないのだが、なにせ兄弟が欲しい欲求をどうしても抑えられない。こればっかりはどうしようもないのだろうが、上か下に男兄弟でも女姉妹でもいればだいぶ生活はとがってであろうと妄想する。すべてのパターンをシミュレーションし、その中で最高なのが妹だ。



 なぜ妹がベストであるか。これから科学的根拠を提示しよう。それは「お兄ちゃん」である。



 まず、「兄」と呼ばれるためには下の兄弟姉妹である必要がある。次に弟か妹かという二つの可能性がある。この二択の内、妹がベストである理由は、女性が男性ではないからだ。



 脳の構造が根本的に違うとか、別の人間であるとか、男女では性に対する見方が異なるとか、問題が時代と共に累積し続ける人類永遠の課題である男女の完全相互理解であるが、とにかく男性である私ではないからである。



 異性である点にこだわるのは下卑た下心ではなく、単純に楽しそうであるからである。私は自分と違うことに興味を持つ性格であり、それを慎重に推考する人物だである。きっと想像にも及ばない言動の日々に私は振り回され、翻弄されることを楽しむだろう。科学的根拠などどこにもないのだが、なぜだがそう思えた。



 現実の私のことをちっとも思い出せない私であるが、しかし兄弟がいなかったという事実はなぜか確かに残っている。そしてもしも妹がいるのなら、それは最高であることも知っている。一方で同じ家族でも両親が存命か否かについての記憶は不明瞭。おそらく、これまでの世界からして曖昧だろう。自分では両親存命だと思っているが、それは思い込みかもしれない。なにせ、私の確かな記憶は仮の世界の中での生活だけであるから。



「今日はもう帰ってもいいよ」



 休憩残り八分で出現した店長から発せられた言葉は驚くべきものであった。わたしはこれから厨房に戻り、レタスを十玉洗浄しながら、昼のピークで使い果たしたソースとパティの補充をしようと考えていた。しかし、店長は普段以上に穏やかな顔で穏やかではない言葉を放った。



「これから地域マネージャーと本部の人が来て会議を開くんだ。詳しいことはまだ反せないんだけど、色々決まったら今度教えるからね。だから今日は午前で店仕舞い。ゆっくり家で休んで。お疲れさま」




 こうして不意に、大きな時間ができてしまったのである。

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