2.4 これは私が忘れていたモノで間違いない

「どうやってここに?」


「母君に聞いたら、この時間はここで絵を描いていると教えて貰ったので。私の父さんが環境保全家というか、研究者みたいな人であちこちの鍵を持ってるんだ。それを借りてきた。私も勉強するために時々父さんに同行してる。父はもっと奥にいるはずなんだけど」


「そう」



 彼女の絵はほぼ完成していた。だからきっと構図も彩色も考えてはいなかっただろう。付け足した線は消さなかったが、それが余計なものでなければいいと願った。私との間を取り持つための蛇足であれば申し訳ない。



「えっと、実は君に聞きたいことが……いや、自分を確かめたくて来たんだ」

「確かめたいこと、ね?」



 私はゆっくりと息を吐いた。白くなりかけているのは寒いのではなく色を失いかけているからだと、私は思った。彼女は筆を置いて私を面白そうに悪魔の微笑みで見ている。大丈夫。しっかりと思っていることを言えば良い。きっとそれで理解できる。



「私は君に出された料理が好きだ。心の中ではいつも涙している」

「あら、辛い物はなかったはずだけど?」


「私は君の愚痴を聞いて、私のためだけの会話が終わると泣きたくなる」

「あなたが来るまでは母さんに愚痴ってたわ」


「私はこれまで数十の学校や地域を渡り歩き、誰かと仲が良くなる前に次へ引っ越してきた。初めてなのだ。私と仲良くしてくれる人が現れたのは」

「あら、そう。普通の会話しかしていないつもりだけど…………でも、そうね。仲は悪くないから友達かもね、私たち」



 ああ。とても嬉しい。一方的な想いではないと知れただけでも、良かった。



 私は意識的に口角を上げた。やはりロジック付けできないこの感情はなんであるか分からないからだ。



「ねえ、君はそれを言いに来たの? それともまだ確かめることある?」



 彼女はまだ微笑んでいる。私は彼女から素敵な微笑みを受け取ることで、その目で見られるだけで、私という存在の輪郭が失われそうであった。嘘をついたり、方便を言うことができなかったりする魔法にかかったようだった。だから私は吐露せざるを得ない。



「正直、まだ分からない。まだこの感情に困惑していて、理由付けができない。説明ができない」


「感情? あら、それって私のことが好きってことかしら? 男の子から好意を寄せて貰えるなんて初めて。この辺りおじいちゃんしかいないから」


「いや、好きと呼ぶには少し幼稚な言葉だと思う」

「じゃあ、愛してる?」


「いや、愛と呼ぶには少し足りない言葉だと思う」

「……愛とか、好きって言葉に狼狽えないところは好きよ。誠実なあなたらしさが伝わるもの」


「それは、私に好意を寄せてもらえているという解釈で間違いないのか」

「いえ、好きと呼ぶには少し幼稚な言葉だと思う」


「では、愛している?」

「いえ、愛と呼ぶには少し足りない言葉だと思う」



 ああ、私はどうやら、ようやくではあるが、これでこの感情を理解できたようだった。ようやく言葉にできる。理由も説明できる。理論立てて話すことだって、求められれば可能であろう。だから私は本当に伝えたいたいことを言えるのだ。



「一緒に旅をしないか。いや、私は君と旅がしたい。愚直に言えば一緒にいたい。離れたくない。父親同伴ではあるけど。ど、どうかな」


「旅?」


「うん。旅の目的地が北海道か、それとも日本か、それとも世界かはわからない。期間も一週間か、それとも数か月、年単位に及ぶ時もあるかもしれない。でも、旅は終わらないんだ。仕事次第で場所は変わるけど、旅は終わるまで永遠に終わらない」



 「付いて来てくれるだろうか」。私は無理を承知で彼女に聞いた。もちろん、答えが駄目であることも理解していた。これまで彼女の家庭を太ももから足先まで垣間見る機会があったのだ。それでも、これが私の身に起きた感情であり、誤魔化しようのない事実であることに相違はなかった。これが私の中に生じた違和感の正体だ。これが私の望みだ。希んで、望む希望だ。


「それは私が必要って事?」


「そのとおり」


「なるほど。私が行かないって言ったら?」


「それは……仕方がない。仕方がないので泣きます。ここで過ごした喜びで温めた想い出を抱えて旅をつづける」


「ふーん。それで、他に気になる女の子がいたらまた告白するんだ。『俺と旅をしよう』って」


「たぶん、いや絶対にそれはないと思う」


「あら、そうなの。どうして?」


「なぜなら――」




 なぜならば、私が求めていることは彼女と共にいることだ。どんな関係でも構わない。傍にいたいだけ。眠るまで共にいて、後は自由でいい。私の胸にこみ上げたこの感情は『ずっとこれがつづけばいいのに』である。何でもいい。理由なんて後でいくらでも創りだしてやる。一緒にいたい。隣にいてくれ。叶わないことは、百も承知だ。それでも、これが答えだ。想いの答えだ。他の誰かではない。いつか出あうかも知れない運命の人ではない。彼女だ。彼女でなければだめだ。理不尽なことが嫌いで、小銭を稼ぐ悪知恵が働き、私の反応を見るツインテールの彼女だ。髪を伸ばして、結んで、男という男と私を駄目にする彼女だ。だから、駄目だ。私にはこれだけの譲れない理由とこれ以上の感情がある。



 そして、これは私が忘れていたモノで間違いない。



「――私にとって必要なのは目の前の君だから。だけどもし、それを逃してしまう定めであるというのなら、受け入れる。それ、アンダースタンドだ」



 そして私は夜な夜な、掴むことのできない想いを抱えて夜を超える。ここ数日と同様に。



「理由が必要なら私がその理由となろう。旅には出るが、父さんが傍にいるのがネックだというのならば、これからは別行動を取る。初めての反抗期だ」



 私は伏目がちであった視線をしっかりと上げ、まっすぐ彼女を見て返答を聞いた。



「それはつまり、この私次第って事? ねえ? ちゃんと本音を教えて」



 彼女はまだ悪魔の微笑みのままだが、その声音には鋭さが込められていた。この鋭さは私を大いに削り取った。従ってこれまで話した、少し硬めのカップラーメンができるぐらいの前置きを「わかった」という言葉で一つにし、すべての答えを言葉にして彼女に伝えた。



「私は君のことが好きだ。一緒に居たいと思う。お願いします」



 これに対して彼女は評価を下す。



「そうね、最初からそういえばよかったのよ。その気持ちはとても嬉しいわ。母のことは心配だけど、母親は私の一人立ちを望んでいるだろうから、旅に出るのもやぶさかではない」



「! ……それじゃあ――」



「でも、言葉だけじゃ響かない時もある。熱意と気合だけじゃどうしようもないこともある。理想と希望だけじゃ現実を変えられないことの方が多い。これ、アンダースタンド?」



 私は声なく頷く。



「私みたいにかわいいを誘ってくれるのは嬉しいけど、あなたが今すべきことは本当にそれだった? ねえ、あなたはなぜここにいるの? あなたの感じた違和感の正体は私に対する好意だけじゃないはず。この世界を作り、この場面を想定し、この言葉をあらかじめプログラムしておいたのは誰? 仕組み仕組まれた世界の運命論は誰によって創られたの? その動機は何?」



 私は彼女が一転して質問攻勢になるとは思ってもいなかったため、驚きよりも衝撃が優先された。彼女の質問が私を支配し始めていたのである。なぜならば、前回と同様に話はこの世界から切り離されようとしているのだと、実感しているからである。ああ、私はこの感覚を前にも受けたことがある。意識がなくなって、目が覚めたら白い密室で伏せっているのだ。しかし、すぐに消えることはない。彼女の話はまだ終わっていないのだ。



「この絵はね、私の大好きなこの風景をきちんと残して置きたくて描いていたの。ほら、この世界だって仮の世界だから。いつ消えてもおかしくないじゃない」



 仮の、世界?



「絵にしたのは私の主観で残したかったから。ほら、写真だと誰が見ても同じで、誰が撮影しても同じ切り抜きじゃない? 絵は世界の中に私自身を投影できる。私にこの景色がどう見えているのかを、他の人に伝えられる。たとえば、あなたにとか」



 彼女はキャンバスを私の方へ向けた。白かったはずの世界にはすぐ目の前の世界が描かれていた。それは絶景でも、距離の短縮でもない。ただ一つの世界だ。ここでもなく、どこか別の世界でもない。彼女の中にしか存在せず、彼女だけが創りだせる世界。世界を創る創造神になるのは、案外簡単なのかもしれない。すべてを望まなければ、それは存外手にしていたはずの事実なのかもしれない。



 彼女が描いた世界は『湿原と一羽の丹頂鶴』であった。もちろん、目の前に丹頂鶴は飛来していない。彼女の想像だ。



「今は全てを忘れているから大変だと思うけど、大丈夫。君ならきっと大丈夫だよ。自分を信じて自分が思ったとおりに行動して。それが最後には君を救うから」



 彼女はすっと立ち上がって、影も形も薄くなった私へ滑るように距離を詰めた。額を合わせて彼女は最後に話した。



「前の世界ではお別れ言えなかったから。目的達成してないから、一時的だと思うけど、でも絶対じゃないからなおのこと怖いね。お願い。次の世界でも私を見つけて。そして目的を達成して」



 今回の私はここで記憶が途切れている。





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