2.3 龍を隠しているような分厚さは上から誰かに圧力をかけているよう


 国立公園に指定されてる大湿原は今日も静かである。されども、目線を少し下げるだけで、実はそうではなかったことが良く分かる。



 地面にはわずかではあるが、水が流れている。虫は蠢いて生活を営んでおり、その音がささやかに聞こえる。風によって空気が流れ、背丈様々な植物が色とりどりにそれぞれ自己主張する。ずっと辿って行くと、植物の種類が異なる境目を見つけた。微かだが色が違う。



 その境目から環境が異なっているのだ。



 植物は環境によって進化をし、その場に適応する。植物が違えば異なるのはその環境であり、地質と気候だ。人間も生育してきた環境によって思考や行動は大きく決定づけられる。なぜならば、その土地に適用しなければ生きていけないから。生物は皆苦労している。



 私はそれから二十数回目の観光客用遊歩道を渡り、昨日百円を取られた望遠鏡まで来た。もう一度覗いてみるがやはり真っ暗である。私はすぐに目を離してその場を離れた。また阿漕な商売人に出くわすとも限らないからな。



 私は売れ残ったせいで定番商品となった季節限定商品をやむなく店頭に置く売店を物色してから退店し、小さな遊具もない公園に腰を下ろして読書に励んだ。昼になれば曇天に見下ろされながら昼飯を食べ、書物へと目線を戻す。弁当もここ数日は全て下宿娘・ツインテールのお手製である。



 イギリス時間のティータイムを過ぎた頃、私は再び散歩に出かけた。勉強には気分を変える時間が必要だと、言い訳を言って。目的地はテントだ。



 我々のテントは張りっぱなしである。しかし、私は父の意向から下宿を利用している。よって定期的に見に行かなければ、テントは荒れ放題である。特に大事なものは置いていないので、以前、片づけることを提案した。だが、父はそのままにしておくという。なぜかは分からないが、仕方がないので私は一日に一度は訪れて利用することにしていた。



「特に……大丈夫そうか、な」



 テントは昨日と同じように建っていた。数枚木の葉が乗っかっていたが、土も、埃も、虫の侵入もなかった。私は入り口を開けて何かが入ってくることを期待しながら考え始めた。



 父さんはヒントを出したと言った。それが「父親は母親になれないということ」。どういうことだ? 私は母の愛を欲しているというのか? 仮にそうであるとして、それが手料理に涙した私の感情の理由に、果たしてなるのだろうか。



 だめだ、分からない。



 深層では人肌を求めていたのか。誰か、身内ではない他人の誰かと仲良く過ごすことを求めていたのだろうか。釈然としないのであれば、確かめればいい。だが、分かっていても本音を口に出せないのは、恐れているからか。



 ……恐れている? 何を?



 嫌われること? 信用を失うこと?



 はぁ、駄目である。理解できないのであれば仕方があるまい。想像が及ばないのであればやむを得まい。見たこと、感じたことに理屈を擦り合わせていくしかあるまい。



 私はどうやら動機を作らないと動けない人間であるらしかった。しかし、同時に理由さえつけてしまえば、私は行動を速やかに実行へと移せるタイプでもあり、私はテントから出て人を探し始めた。



 外は相変わらずの曇天。あんなにも重そうな雲なのに、いまだ落ちてきていないという事実が不思議である。空との距離が変わったはずはないのに、龍を隠しているような分厚さは上から誰かに圧力をかけているようであった。



 動き出した私は取り敢えず宿に戻ったが、そこに目当ての人物はいなかった。うろうろしていると、有力情報を母君から教えて貰った。私は次の場所へと向かった。



 そこは立ち入り禁止のテープが張られたところで、簡単に人が入ることのできる場所ではなかった。だが、大丈夫である。私はそこがなぜ立ち入り禁止なのか知っているし、その場所に入るためには何に注意しなければいけないのかも知っている。伊達に研究者兼博士兼環境保全家の息子をやっていない。必要なものはテントに全てある。気安く素手で触らないための軍手も、頭髪が落ちるのを極力防ぐ帽子もある。管理用のカギのスペアも預かっている。父にいつでも会いに行けるように渡されていたものだ。服から植物を守るために作業着を着こむ。ここまでやる必要はない、と以前言われたことがあったけど、しっかりしないといけない場合もある。私は慎重な性格なのだ。最善に最善を求めて無駄に着込んで走り出す。当人は自分の内側で必死になるあまり、自分がどうなっているのか見えていない。自分を覗き込んだら、その様子があまりに滑稽で、不細工であろう。私が私をそのような人間であることをもう少し意識できたのであれば、私はここまで不器用に生きて来なかったであろうとつくづく思う。



 立ち入りを制限するテープの向こう側へと足を向け、最後の網格子状の柵のドアに鍵を差し込む。軋んだ軽いドアを押して閉める。鍵を掛ける。長靴が湿った土地に跡をつけて行き、私の背丈を何の躊躇いもなく超えた植物を掻き分ける。



 視界が開け、水と土が分離して池となっている場所に出た。



 ああ、いた。



 その湖畔に探している人物はいた。私の感情の遠因であり、私に感情提起を起こした人物。この二週間共に過ごし、客と従業員の関係から時々逸脱した話をして、共に食事をし、風呂を共有させられ、暇があれば言い訳を作って私にちょっかいを掛けてきた。理由があるのであれば聞きたいと思うし、理由が特にないのであれば私の理由を話してやろう。彼女はそう言える相手であり、そう想える女性である。



 いつも通り髪をツインテールに結んだ宿娘は小さな湖畔に持参した椅子に座っていた。どうやら広げたキャンバスに絵を描いているようであった。彼女は何かを考えていた。構図とか、彩色とかを考えているのかな。思考の先はやがて近づく私へと向けられ、とても驚くという感情へと変化した。



「ごめん、驚かせるつもりはなかったんですけど」

「……ここに用? それとも、私に用?」


「君に」

「そう」



 それだけ言うと、彼女はキャンバスに少し線を描いて、やめた。今度は私をしっかりと見て言った。



「野暮な質問だけどいいかしら」

「どうぞ」



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