2 たとえば母親がいなかったら

2.1 それは思っていたよりも現実的で

 湿原で失われた何かを調べると父は言い、現地のスタッフと共に茂みへ向かっていった。これにより、子供である私は観光用の展望台で置き去りにされてしまった。見飽きた景色の向こうを見たくて望遠鏡を覗いたけど、何も見えなかった。



「まっくらだな」



 私の父は旅行好きである。というより、定住しないのである。私が父と過ごしている時間を思い出せる限り、父も私も自分の家を手にしたことはこれまでなかった。



 今は国立公園に指定されている巨大な湿原に来ている。



 父は旅行だと言い張るが、その仕事は学者そのものである。足を運んだ各地で起こっている問題を目ざとく見つけては自分の博識を披露して仕事としてきた。日雇い労働を繰り返すような仕事ではあるが、本人は満足しているようなので私は何も気にしていなかった。



「お金が必要なのよ」



 視界が正常になった。俺と向こう側の景色の間で遮断していた何か黒い物がなくなり、やがて景色が見えた。それは思っていたよりも現実的で、草の匂いとか泥の味とかが分かりそうであった。絶景よりも距離の省略が正しかろう。



「それはずいぶんと現実的な解決方法だ」



 私は景色から目を離さずに言った。



「お金を入れて景色を見るものなのよ。お金を入れないでどうするのよ」

「たしかに、そうかもな」



 私は向こう側の現実と会話を続ける。



「ねぇ、ちょっと」



 私はこちら側へと引き戻された。テレビゲームの最中に母親から夕飯ができたと声を掛けられたような心持である。この際、携帯ゲームでも携帯式ゲームでも構わないが。それに、母親いないし。



「ええと、なんでしょう」

「何って……お金を入れてあげたのよ? なんでずっと向こうばかり見てるのよ!」

「ああ、ええと、ありがとうございます?」



 声を掛けてきた女の子……女子……娘……性別女性の方に対する対応はこれで完璧である。長年の旅行の末に獲得した能力が私にはある。そう、実は超能力者である私が、彼女の考えと声を掛けた行動などから求めているモノが何かを推察せずとも理解することなど容易いのである。この場合は感謝である。さらに彼女の場合は追加で、時は金なり、阿弥陀の光も銭次第、出雲の神よりも恵比寿の紙……今は諭吉の紙だが、要はこれらのことわざを、きっとそれは仰々しく並べ立て、感謝、感謝の言葉を私から述べさせようという相手の魂胆までもがある。これらのことが、私にはわかるのだよ。なぜなら――。



「ありがとうじゃなくて!」



 ……あれ?



「お金返しなさいよ!」



 なんてことだ。彼女は現金主義であった。それと、私は超能力者でも何でもなかった。知ってたけど。



「阿漕な商売だこと」

「暇そうな人がここに来るたびに声を掛けているだけよ」

「お金を勝手にいれたのは君なのに」

「うるさい」



 な、なんてことだ。暇しているだけで金を徴収されるとは。世知辛いなんてものじゃあないな、これ。



「それで、何か御用でしょうかお嬢様」



 上下関係を理解させられた私は、百円玉を指で挟むことでご機嫌になったツインテールに尋ねた。ご機嫌ツインテールは答えた。



「ごはんよ」



 

 ***



 

 定住しない僕らの生活拠点は基本的にテントである。



 夜は電池式の電灯をしぼって小さくし、ミノムシ同様に顔だけ出して眠る。朝に目が覚めれば、雨避けの下でコーヒーを入れるためのお湯を沸かして本を読む。仕事が終われば、テントを畳んで次の町に向かう。だから今度の仕事でもそのつもりだった。現に国立公園指定外の土地に許可を取ってテントを立てている。私はいつでも戻ることができるようにしているのだが、父がこの宿の主人と知り合いであり、よしみから部屋を勧められてしまったのだ。



 私は父親の意向には従うことにしている。それがなぜであったのかは、よく思い出せないのだが、確かにとても大事な約束があったはずで、でも小学生以下の昔の話はもう覚えていない。良き子供であろうという考えは、父の自由主義的育児手段からほど遠い。他に頼れる相手がいないからという社会的立場は、当てはまるが従属の理由には足りない。私は約束を思い出せるかもしれないことと、父への感謝を行動で示すために素直であり続けるという結論で自己合意し、この問いを終着させた。



 だからこの町では宿に宿泊するという父の意向に従った私だったが、しかしその場に必ずしも父がいるとは限らないことがこれほど肩身を狭くするものであるということをここ数日で学んだ。



 これまでも宿やホテルに宿泊することはあった。しかし、それは大きな出費が伴うことを同時に意味している。また、ホテルマンという人々は我々客人の要望を聞き入れることはあっても、自ら大衆雑誌の世間話を始めたり、日常の自然現象的に降り積もる埃のような鬱憤を愚痴として客に漏らしたりすることはこれまでの経験上なかった。しかし、客と夕飯を共に取るという彼女の行動から鑑みても、この宿はフレンドリーの域を超えていることが分かる。たとえば、こうだ。



「ねぇ、聞いてよ。この間来た客がね、その名前がオズって言うんだけど、小豆島の小豆って文字で……餡子の小豆ね。それでそのオズって客がひどいのよ。何がひどいって到着早々に『とりあえず荷物だけよろしく』っていうのよ。そしてそのままどこかへ出掛けてしまったわ」



 そう言うと彼女は、今晩のおかずである煮物の中から人参だけを乱暴に二つ取って頬張った。



「まあ? それだけなら自己中心的なお客さんだなあ、ぐらいで終わるんだけど、問題は夕飯よ。一人客なのに大広間使いたいって言いはじめて、まあ? うちはど田舎の宿だから団体なんて夏と冬に一回ずつぐらいだからいつでも使い放題に変わりはないんだけどさ」



 そう言うと彼女は今晩のおかずである人参シリシリを思いっきりつかんでこれでもかと頬張った。



「そしたらそのね、オズって客がね、お酌しろって言うのよ。まったくいつの時代のおっさんだよ、って思ったね。まあ? 近所のおじさんの殆どがその上酒まで私に勧めてくるんだから! 私バリバリの未成年だぞ? 法律的に飲めないぞ? パッチテストだと最強だったけど」



 そう言うと彼女は、今晩のおかずであるきんぴらごぼうからごぼうではないモノ、つまり人参を好んで取り分けて頬張った。ついでに私の皿にも取り分けてくれた。心なしか人参が少ないのは気のせいではあるまいな。



「まったく酷いと思わない? 少なくともオズは私のことを人間だと思ってないわ。ニコニコと都合と愛想がよい何かとしか思っていないのよ。そう、あいつは私のことを人形とか、ロボットとか、もちろん当然ながら人間とは思ってなかった。うん! 何か都合のいいモノ、存在だと思っていたに違いない! ああ、もう!」



 そう言うと彼女は、今晩のおかずである煮物にも、人参シリシリにも、きんぴらごぼうにも手をつけずに米を頬張った。そしてかき込んだ。



「……ふぅ。じゃあ、私はこれで。悪いけど風呂は先に入らせてもらったから。せいぜい残り湯を楽しんで。ベッドメイクも済んでいるし、掃除も完璧よ。じゃあね、お休み」



「ありがとうございます、おやすみなさい」



 私は自部屋に戻り行く彼女に素直に言った。しかし、彼女は私の発言を不審に思ったようで、顔をしかめた。残り湯がそこまで楽しみなのかと言われた気もしたが、私としては普段自分で行っていることを代行してくれる事への感謝の気持ちを伝えたいだけだった。



 この夕飯も彼女のお手製である。父と母を少しでも楽にしてあげたいという小学生からの習慣であり、今では立派な従業員だという。無論、アルバイトでいうところの補助的立場であることは変わりない。それでも私は立派だなぁ、とやや年を食った考えを持ったのである。わたしなぞ、これまで親の仕事を手伝ったことはない。義務教育時代、毎月のように転校を繰り返し、高校には費用的問題で行けずにここまで歩いてきた私だが、親の仕事の半分も理解できていない。父は専門的すぎるのだよ、あれ。



 私はそれから人参をシリシリと食べたり、きんぴらごぼうのごぼうを食べたり、煮物の大根やこんにゃく、ジャガイモを食べた。食後、着替えに戻った部屋がきれいにされていることに、改めてむず痒い思いをした。誰かに尽くされるのは慣れていない。



 それから私は一般家庭よりも広いが大浴場ほどではない風呂に浸かった。ふと見上げた看板の源泉かけ流しの文字に気が付いたときに、私は残り湯も何も関係ないことにようやく気が付いた。少し気を落とした私はやはり天性の変態であろうか。



 しかし、昨日は温泉ではなかった。そういえば、指定された風呂場がこれまでよりも随分と遠い所にあったように思う。昨日とは場所が違うのか。どうやら通常の風呂と温泉の二つがあるようで、温泉が従業員用つまり母親と一人娘用という訳だ。そういえば客に温泉を提供できないのは、湧き出る湯量がそこまで多くないからだと話していた気がする。宿の経営を心配して掘り起こしてみたもののショボかったという愚痴を百円ツインテールから聞いた記憶がある。一般客として扱われていないのが格安の秘訣であると父は言っていたが、なるほどな。



 父が格安で請け負ったのは私をこの宿に預けたかっただけである。父はほとんどこの宿には帰ってこないし、テントに戻った形跡もない。仕事人間の父のことだから仕事に埋もれて出て来られないのだろうと推測した。それでも二週間近く同じ建物に滞在していれば、見慣れたこの空気に私は愛着とまで言わないが親近感を持ち始めており、風呂という少しの違いだけでも嬉しかった。



 彼女だってそうである。



 母親を知らず、同級生の女子と仲良くなる前に消え去った私にとって、誰かに興味を持たれること、特に女性からは初めてである。彼女に出会って三秒で業務用笑顔を向けられた三分後には本来の笑みを向けられていたことも初めてである。お互いの家庭事情について話したこと、誰かの不平不満を直接耳にしたこと、望遠鏡でお金をだまし取られたこと、世話を日々焼かれたこと。私にとって知らないことは免疫と経験のなさから、反応する前に連れ回され、翻弄されるに至った。そして先ほど人の手で作られた私のための食事を取った。シェフの好みに合わせた料理が毎日机に並ぶ光景は何度見ても泣きそうになる。



 何かを求めたこともなければ、贅を欲することもこれまでなく、ただまじめに生きてきただけの私なのに、この感情は一体何であろうか。



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