朝霧陽音

 あれは夢だったのだろうか?

 朝霧陽音はそんなふうに思い始めていた。

 何かが背中に刺さった感触と、その先端らしきものが左胸から突き出している光景が、いまでもハッキリこびりついている。

 しかし、傷跡なんてどこにもない。

 あのあと、陽音は病院で目を覚ました。

 看護師の話では、魔族の暴走に巻き込まれ、意識を失ったとのことだった。

 頭を強く打っていたため、精密検査を行ったが、特に異常はみつからず、すぐに退院することができた。

 もしかすると、記憶に混乱がでるかもしれない──と、医師からは説明を受けた。

 しかし──。

 これも記憶の混乱によるものなのだろうか?

 自分には双子の姉がいる。物心が付いてから最近までの思い出もある。

 なのに、隣人や友達だけでなく、親族や両親さえも、その話をすると変な目を向けてくる。

 双子の姉、朝霧詩月を誰も覚えていない。

 記憶喪失という言葉はよく耳にするが、その逆というのはあまり聞いたことがない。

 記憶の混乱により、存在するはずもない双子の姉をつくりだしてしまったのだろうか?

 いや、ウィッチアイドル、光速の舞姫SIZUKIは実在している。

 今やその人気は世界レベルで、テレビやネット、雑誌でもよく見かけるし、歌やプロモーションビデオも数多く販売されている。

 陽音も、熱狂的とは言わないが、雑談に参加できる程度には知っている。

 気心の知れた友達に、双子の姉の話をした時のことだった。

「俺の妹もウィッチアイドルだぜ」

 彼はそう冗談ぽく言って笑っていた。

 古い付き合いのその友達に妹がいるという話を、その時初めて聞いた。

 つまりは、それと同じ妄想を、頭を打った衝撃で、現実と混同させてしまっただけなのだろうか?

 それならそれで別に構わなかった。

 単なる妄想なのだと自分に言い聞かせればいいだけのことだ。

 しかし、もし自分の記憶の方が正しくて、周りが間違っているのだとしたら?

 詩月の存在が消されようとしている?

 魔法などという科学では考えられない術を扱う連中だ。そのくらいやっても不思議ではない。

 だとするなら、なぜ?

 朦朧とした意識の中で、自分の心臓を移植する──というような話を聞いたような気がする。

 普通に考えれば、そんなことをすれば……。

 とにかく、それが一番気にかかって仕方がなかった。

 もし、なんらかの理由で存在を消さなければならなかったとしても、無事でさえいてくれればそれでいい。

 だから、確かめたかった。

 ──ウィッチアイドル、光速の歌姫SIZUKIに直接会って。


 そのビルはオフィス街の真ん中にあった。

 帰宅ラッシュ前ということもあり、行き交う人々はまばらで、スーツより私服の割合が多い。

 ビルの前にはちょっとした広場があり、そこで歌ったり、楽器を奏でたりしている若者が目立つ。

 陽音は、深呼吸をすると、そのビルへと続く階段を上った。

 1段上がる度に心臓の鼓動が激しさを増すようだ。

 運動不足というわけではない。緊張しているのだ。

 10段程度の短い階段の先には、ガラスの自動ドアがある。

 そこには、W@Pワップ──と記されていた。

 雑誌や新聞、インターネットでは「@」ではなく「A」を使用しWAPと表記されることもあるそこは、化学兵器の効かない魔族に、唯一対抗できるウィッチアイドルが所属する団体。

 世間一般ではウィッチアイドルプロダクションの頭文字だと認識されているが、ソレに気づいた時にふと首をかしげることになるだろう。

 アイドルのスペルは「idol」で、頭文字は「A」ではなく「I」ではないか?

 ──と。

 魔族がまだ秘匿されていた頃、政府が秘密裏に結成した魔族対策本部の中で、魔族攻撃を目的として設けられた作戦チームがそのはしりだというのは、一部のマニアの間でのトリビアとなっている。

 その本当の名称は「ウィッチ・アタック・プロジェクト」。

 魔族の存在が公となった際に民営化され、「アタック」という戦闘のイメージを「アイドル」という平和なイメージに置き換えられた。

 そういった経緯もあり、魔族が関係する場合に限るという条件付きで、事件や事故、事象などのありとあらゆることに対しての絶対的な権限が与えられている。

 また、独自の技術と手法により、魔族との闘いを、大胆にもエンターテイメントとして売り出すことにも成功しており、魔法を扱う素質を持つ女性を見つけ出し、魔族と闘うための訓練を行い、ウィッチアイドルとして世に送り出している。

 その是非については賛否が分かれるところではあるが、少なくとも、不安と恐怖に絶望してもおかしくない状況において、さしたる混乱もなく今まで通りの生活を送れているのは、ウィッチアイドルという希望と、エンターテイメントという印象付けがあったればこそといえる。

 ウィッチアイドルの人気は非常に高く、魔族との闘いはもちろん、歌やプロモーションビデオなどの関連グッズが世界に向けて売り出されており、その興行収入は、いまや日本の経済を支えるまでになっているという。

 そんな大企業の自社ビルのエントランスは、かなり広く、落ち着いた中にもなんとも言えない威圧感があった。

 椅子やテーブルが置かれ、壁に設置された巨大なモニターには、ウィッチアイドルのプロモーションビデオが流れている。

 奧にある女性の座るカウンターが受付だろう。

 今までに感じたことのない空気が、緊張をさらに煽る。

 アルバイトや就職の面接は、こんな感じなのだろうか?

 陽音は、そんなことを考えながら、受付カウンターに向かう。

 一足先に、スーツ姿の男性がカウンターの前に立った。

 自分の番が先延ばしされたことに、むしろ安堵すら覚えながら、陽音はスーツの男性の後ろに並んだ。

 しかし、勢いが削がれたのは失敗だった。

 緊張がより大きさを増したように思えた。

 スーツ姿の男性が、面会の約束をしている旨を受付の女性に伝えている。

 そういえば──。

 なんと言って面会をさせてもらえばいいのか全く考えていないことに気付いてしまった。

 まさか、馬鹿正直に事の成り行きを話すわけにもいかないだろう。

 熱狂的なファンの妄想と思われ、つまみ出されるのが関の山だ。

 ここは出直した方がいいだろうか?

 そんな考えが脳裏を掠めたその時だった。

『それでは只今より、SIZUKIのウィッチ活動休止の記者会見をさせていただきます』

 それは放送設備により、エントランス全体に流れていた。

 辺りを見回した陽音の視界に、壁の巨大モニターが飛び込んでくる。

 うつむき加減でマイクの前に立ちフラッシュを浴びる、白銀の衣装を身に纏った美少女が映し出されていた。

 光速の歌姫SIZUKI。

 写真や動画で見たままで、本人に間違いない。そう断言できる。

 なのに、妙な違和感が心の奥底に燻っていた。

 頭では本物のSIZUKIだとわかっている。

 わかっているというのに──。

 こんな顔だっただろうか?

 思わず首を傾げてしまう。

 そのSIZUKIは、詩月と似ても似つかない全くの別人だった。

 しかし、彼女が本物だと断言できる以上は、詩月がSIZUKIだと思い込んでいる自分のほうが間違っていたことになる。

 頭が混乱してくる。なんともスッキリしない嫌な感じだ。

 もしかすると、SIZUKIに助けられたこと自体が夢だったのではないだろうか?

 魔族に襲われて気を失った際、恐怖を和らげるために脳が創り出した幻覚。

 双子の姉が光速の歌姫SIZUKIの姿で助けに現れる──そういう設定の夢。

 むしろ、そう考えるほうが自然かもしれない。

 顔を隠しているわけでもないのに、直接会って初めて、詩月とSIZUKIが似ていると思うなど普通に考えたらおかしな話だ。

 だとするなら、詩月はどこにいってしまったのだろうか?

 いや、そもそも、詩月などという双子の姉は実在しているのだろうか?

 頭を打ったことによる記憶の混乱が生み出した、夢の中だけの存在なのではないだろうか?

 それならば、まわりの反応にも納得がいく。

「はあ……」

 陽音は大きくため息を吐いた。

 自分の記憶が信じられなくなってしまった。

「あのぉ、次の方、どうぞ?」

 受付の女性にそう声をかけられた。

 いつの間にかスーツの男性はいなくなっていた。

「あ、いえ、すみませんでした」

 陽音は頭を下げると、逃げ出すようにその場を離れた。

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