CASE.3-26

 前代未聞の冤罪疑惑が浮上していた。今週一週間はこの話題で持ちきりになるだろう、と智沙は物思いにふけりながら病院のテレビ画面を見つめていた。

 時刻は14時過ぎ。ワイドショーでは朝からの同じ疑惑が展開されて報じられていた。

 『俺は一度として運転事故を起こしたことがなければ、遺体を遺棄したこともありません。こんな子供を轢き殺したなんてあり得ない。当時刑罰を受けるべき犯人はまっとうな刑罰を受けたと思います』

 『それは、嘘偽りないな?』

 加工された音声は真鍋のものである。そして対面しているのは敷島洋次だった。

 『はい。遺体遺棄事件などと言うデマに踊らされてはいけない。そんな事実などなければ、当時誘拐されていた子供との接点すらあり得ません』

 敷島は堂々たる主張を述べた。敷島の後ろで見切れて、体の一部が映し出されているのは犬養智沙本人だった。

 番組の司会者がもう一つの証言として別のVTRを紹介した。

 『忘れもしない27年前敷島の運転する車で遺体を山中に埋めに行った帰り道に子供を轢いたよ。俺の忠告も聞かず奴は心肺蘇生どころか救急車すら呼ばなかった。俺は嫌だったんだ。奴に脅されるし、好きな子すら守れなかった。もう時効だろ、それがどうした?』

 敷島の証言とは真っ向する証言は阿部力男のものである。

 映像はここで強引に切られているが、続きはこの後に回される構成だった。

 『まあ、阿部容疑者の事件が明るみになったことの真偽はさておきですよ、この場合、どちらが信憑性があるのか、と言うことですけどね、もし、阿部容疑者の証言が正しいとしたらですよ、これ、大問題ですよ。警察の捜査がもう少し慎重にできなかったのかなって疑ってしまいますよね』と番組司会者が声を高らかに番組を盛り上げていた。

 『もしかしたら印象が悪く思われて過剰な刑を科せられたかもしれないんですよね。これ、その亡くなった被害者の遺族にしてもショックだろうけど、重刑の末に所内で亡くなった受刑者の遺族の方もショックでしょうね。もうちょっと、捜査が慎重にできなかったのかなと思うとやり切れないですよね』とコメンテーターの男も意見を語った。

 『ただですよ、国はまだこのことにコメントを控えております。我々は印象でしかものを言えませんけど、今回この件が明るみになったのはある匿名者のリークが元になったのです。ここからも警察内部での発覚の恐れから隠ぺいの疑惑が浮かび上がりますよね』

 続いて紹介されたVTRは阿部の聞き取り調査時のものだった。モザイクの人影が突然机を吹っ飛ばし、阿部を殴った映像だった。そして男は勢いのまま部屋から飛び出していったのだ。

 「班長、久しぶりです」と何者かに声を掛けられ智沙は振り向いた。

 それは碓井だった。

 「やめて、もう、あなたの班長でもなければ、上司でもないのよ」

 「じゃあ、何と呼べば?」

 「お姉ちゃんでいいわよ」と智沙は冗談交じりで笑って答えた。

 「お姉ちゃん!」と碓井はいつも以上に甘えて智沙に抱きついてきた。

 「元気そうですね」とまた別の声。

 「桑原君も来てくれたの?」

 「ええ、まあ。僕だけじゃないですよ」と桑原は後ろを振り返った。

 桑原の振り向いた先にいたのは倉本だった。倉本は自動販売機で飲み物を調達しているところであった。

 「それにしても、大ごとになりそうですね」

 「そうね。そうでなければ困るわ。せっかく仕事を辞めてまで気張った決断だったのだもの」と智沙はまたぼんやりとテレビモニターを眺めた。

 番組は27年前の事件の詳細を振り返っていた。

 「おう、班長!」と倉本がペットボトルを差し出して挨拶を交わす。

 「やめてよ、もう犬養班はないのよ」といつものミルクティーを受け取ると一口含めた。

 「じゃあ、僕ら何と呼べば?」

 桑原が聞いたので智沙はにやけながらこう切り返した。

 「姫様でいいわよ」と自分で言っても恥ずかしい。変に顔が真顔になっていた。

 「なぜそれを…」

 動揺したのは倉本だった。そして桑原が笑っていた。

 こうしている空間を自ら手放したことが今でも信じられない。

 冤罪事件の隠ぺいを恐れた智沙は自ら取り調べの様子を記録したデータを各メディアにリークしたのだ。当然、それは組織の事情を鑑みない行為であり、自己勝手な判断によるものだ。リークを決意した翌日には辞表を提出。仲間たちには大きく混乱させた。

 「渕上は?彼だけ来ないのね」

 「いや、来ている。先に向かったよ」と倉本が話してくれた。

 そもそも智沙がこうして病院にいる理由、それはどうしても会って話さなければならない人と対面するためだった。

 病室の前には二人の警備が付いており、いかにも要人がいますと言わんばかりの状況であった。

 既に警察としての地位を失った智沙はもはや部外者。仲間たちの許可が必要だったのだ。

 碓井は捜査官証明章代わりになる電子ボードをかざし身分とともに同伴者の立ち入りの許可を求めた。部屋への侵入は電子ロックで施錠されているので配布用の電子ボードか配布の許可証が必要なのだ。

 厚い戸が開き中への侵入を許可された智沙の前に渕上が姿を現せた。

 「お帰り、犬養さん」

 「お帰りという割にはその呼び方なのね…」と渕上の肩をポンと軽く叩いた。

 「じゃあ、僕らは外で待ってますので」と桑原が廊下の外で声をかけてきた。

 病室には智沙とベッドに横になった阿部との2人だけになった。

 智沙はベッドのすぐわきの椅子に腰を下ろし相手の顔色を窺った。

 「アンタか」

 阿部は智沙の顔を拝見するとすぐに目をつぶって狸寝入りを図った。頭には包帯がまかれてはいたが、それ以外に入院するほどのケガは見当たらない。

 「ねえ、聞きたいんだけどさ」

 「アンタ辞めたんだってな。馬鹿だよ、あんな映像程度で普通は仕事辞めたりなんかしない」と阿部は目をつぶったままつぶやいた。

 「こうでもしなければ、真実が明るみに出る機会はつぶされていたでしょ?それよりも、いま一度聞きたいことがある」

 智沙はカバンからファイルを取り出した。そのファイルの背表紙には『99年』とマジックペンで書かれている。

 「このファイル知ってる?」とそっぽを向いている阿部にも見えるように強引に目の前に突き出した。

 一同は阿部が生唾を飲み込んだのを見過ごさなかった。

 「これはあなたの家で見つかったものよ。それに一時俊久を殺すように指示を受けたというあなたの部下たちの証言も手元にあるわ」

 阿部は舌打ちをして体の向きを変えた。

 「ただバラバラになった遺体の理由が片付いていないのよ。どうしてあんなひどいことができたの?」

 智沙の言葉に阿部はむくりと起き上がり突然声を荒げた。

 「列車にでも跳ねられて死んだんだろ!」

 阿部の怒鳴り声に反応して廊下から仲間たちがなだれ込んできた。

 その衝動で阿部は智沙につかみかかると、手かせを器用に操り智沙の頭を布団に押し込めた。

 「こんなの無意味だ。今更27年前のことでとやかく言われる筋合いはない。一時の親父だってなんで時効を尊重しようとしなかったんだ。そもそも俺は人を殺していない。とやかく言わず過去は水に流せばよかったんだ」

 阿部は智沙の体に腕を絡ませ、首筋にプラスチックのフォークを突き付けていた。ただ、足には拘束具が施されているため上半身だけの抵抗である。

 「そうはいかないでしょう。時の流れで被害者遺族の悲しみが消えるなんて幻想よ。たとえ法律の時効が成立していようとも諦められないのが人間ってものよ。それが法律で裁けなかったとしても事実としての真実を語る責任ぐらいは取ってちょうだい」

 「責任なんてものはない。さっきも言ったが俺はだれ一人として人を殺していない」

 「一時萌絵は?」と倉本が呼び掛けた。その手には拳銃が構えられていた。

 「萌絵を殺したのは俺じゃない。全部敷島の指示だ。俺はあの子に死んでほしくなかった。萌絵の親父が来たときは殴って口留めまでされたんだ。俺は被害者なんだよ。汐里だってそうだ。あの子が死んだ理由だって俺には関係ない」

 「班長、悪いな。もう我慢ならん」

 倉本は拳銃を引こうとした。この距離なら銃弾は阿部に命中するだろうが、そのような危険は冒せない。


 「待って、倉さん」智沙は思いっきり首のあごを引いてフォークの先をはさんだ。

 智沙の思いがけない行動に気を取られた阿部は意識をフォークへと移す。

 その一瞬を見切って智沙は勢いよく首を反らした。彼女の頭頂部が阿部の鼻先に見事に命中し、ひるんだすきに持ち前の身体柔軟性で体をひねらせた。男からの拘束を華麗に抜け出した智沙に思わぬ拍手が沸き起こる。

 「いいから、早く確保してよ」と智沙は照れ臭そうにオーディエンスに応えた。

 急いで倉本が抑え込んだ。

 阿部は暴れて腕を乱暴に振り回し続けた。

 ほどなくして駆け付けた医師の鎮静剤により大人しくなった阿部だったが、どこかで虎視眈々とチャンスをうかがっている節が見え隠れした。

 「ごめんなさい。騒ぎを起こしてしまって」と智沙は体を小さくして廊下で待機していた全員にお詫びした。もはや自分のでしゃばる幕はないことは承知していたはずだが、智沙にはどうしても解決しないとならない気がして仕方なかった。

 「せっかく持ってきてもらったのに悪かったわね」と渕上に例の『99年』ファイルを手渡した。

 「それで、物足りない何かって聞き出せたの?」

 渕上にはそれとなく教えていた。あくまで直感的に芽生えてきた胸騒ぎ。どうしてもそうやらなければならないことがある、神からの啓示のような、不思議な電波のような、得体のしれない心地悪さが脳に蝕んでくる感覚に苛まれている。

 「もっとわからなくなった。私ったら、どうしてこんなところまできて馬鹿騒ぎを起こしちゃったんだろう?遺体遺棄の事件だって、27年前の失踪事件だってもう解決したようなものなのに、何かが足りないのよ」

 「いずれ分かるといいね」

 渕上は興味を無くしたようにどこかへ歩いて行った。

 他の仲間たちですら本部に帰る準備を始めていた。

 「班長はこれから何をするのです?」ジャケットを腕に抱えた碓井が隣で聞いてきた。

 「さあ、わからないわ。当分はマスコミの取材とかに追われるかもしれないわね」

 「そうですよね…私たちもこれからどうなっちゃうのか…」

 「どうしたのよ!」と思いっきり碓井の腰を叩いて励ましの一つでもと思ったのだが、口から出てきた答えは全く違うものだった。

 「さようなら」と一言と彼女を抱きしめていた。

 「何があったんです?」と桑原も驚いた表情で横に突っ立っていた。

 「いいのよ」と智沙は走り出した。渕上の後ろ姿はどこかへと消えて見えなくなっている。

 急いでエレベーターのボタンを押すが3台稼働しているエレベーターのどれもが下から登ってくる途中だった。

 どうしても聞いてほしい話があるのだ。それは渕上にしか相談できないこと。

 エレベーターを待つ時間がとても惜しかった。

 思い切って階段を駆け下りた。前回必死に上ってきた階段を一段飛ばしで下りていく。

 すると既視感に体ごとをすっと持っていかれる感覚が智沙を襲う。足を踏み外して意識しているはずのバランス感覚が他へと持っていかれる不思議な感覚だった。

 複雑怪奇な感覚の中にでも、時間は流れていく。すれ違う人や前を横切る人々は彼女に無関心だった。自由意志をもって、自ら身体の制御を意識で来た時、世界の揺らぎは微動ながらも安定していった。

 すると智沙の前をストレッチャーが通過していく。医師と看護師合わせて4名が慌てた様子で担架を移動させていた。

 智沙は反射的に一歩下がって道を譲った。それはただの常識的な行動だった。だが、次の瞬間には身を乗り出していた。

 「何があったの!」

 ストレッチャーに横たわっていたのはあろうことか倉本だったのだ。

 肝心の倉本からは返答がない。苦しそうな表情を浮かべて、大粒の脂汗を流していた。

 「私は彼の上司なの。ねえ、いったい何が?」と付き添っている看護師に説明を求めたが、彼女は答えどころか、反応さえ示さなかった。

 不審感を抱いた智沙はすぐ横のナースステーションで問いかけた。

 「今運ばれていった患者についてわかる人はいませんか」

 彼女の呼びかけは宙を漂い、やがて無になった。多くの職員がいるのにもかかわらず、誰一人として智沙の話に耳を傾ける人はいないのだ。

 「まったくどういうことよ」と扉に手をかけ、勢いよく開けて愚痴をこぼした。

すると近くにいた職員は驚いた様子で扉を見て、それぞれが「今の見たかよ」「見ちゃったわ」「昼間よ」と恐怖と好奇心で感想を述べ始めたのだ。

 気味が悪くなった智沙は部屋には入らず倉本が向かった廊下の先を見た。既に処置室に移ったようで人の塊はない。

 その時智沙は不思議な感覚の正体を見抜いた気がして、再びナースステーションへと足の向きを変えた。ガラス越しに見た時計の針はまだ12時前だった。

 (やっぱり、いつの間にか時間移動している)

 続いてカレンダーを確認してみた。だが、カレンダーを見たところで今日が一体いつかまでは分からない。

 智沙は新聞紙でも何でもいいから日付がわかりそうなものを、とひとしき探してみたが、すぐ辺りには見つからなかった。

 「何する!放せ!」

 ひと騒ぎする男の声が廊下の反対側から聞こえてきた。

 酔っ払いが暴れている程度にしか思っていなかった智沙は開けたレクリエーションルームから日刊新聞を手に取って見ていたところだった。

 (やっぱり)

 見出しから日付を確認するまでもなく、今がいつかは読み取れた。

 『奇跡の生還者、黒木選手』

 「あいつが初めに俺たちを襲ったんだ。俺は正当防衛で奴を突き飛ばしただけだ!」

 一層、激しい怒鳴り声とともに騒ぎ立てる人の群れが迫りくる。

 智沙は声の主に心当たりがあった。だがそれは彼女の記憶とは異なる矛盾。

 渦中の人物は彼女の記憶にあるあの日、このような騒ぎを起こしてはいないはずなのだ。

 若い青年の間から敷島洋次が姿を見せた。わきを固めているのは病院の警備員に違いない。そして彼のすぐ後ろにはこれまた警備員に囲まれた阿部力男の姿があったのだ。阿部はおとなしく誘導に従っていた。

 智沙は改めて新聞紙の日付を確認してみたが、認識の日付には違いなさそうだった。

 (そういえば)と思い立ち、もう一度当たりを見回してみた。

 そこにいるはずの自分を見かけていないのだ。いくら探してみてもその姿どころか、形跡すらない。時間移動してきたのは例外的かもしれないが、確かに存在していたはずなのだ。

 新聞紙をラックに返し、エレベーターに乗ろうとホールへ向かった。もしかしたら一階の総合受付に渕上の姿があるのではないかと思ったのだ。

 レクリエーションルームを抜け出そうとしたとき、智沙の体を再び不気味な感覚が襲ってきたのだ。地面の揺らぎを感じながら前へと進もうとした。最初の感覚に勝るとも劣らない不快な感覚に立っていられず、思わずそばにあった丸椅子に腰を下ろした。

 誰かに助けを呼ぼうと首をひねってみたが、少年が顔を青くしてこちらを見ているのが分かった。少年は特撮雑誌を腕に挟み、目を丸くしてまっすぐにこちらを見ていたのだ。

 (あの時の子かな?)

 すぐに智沙の記憶から少年の姿を認識した。試しに彼を呼ぼうと手をこまねいてみても思った通り反応はないのだ。彼らに智沙の姿は見えないのだ。

 そうこうしている間に感覚はさらに乱されていく。こうなれば座っているのもやっとで、頭を抱えずにはいられない。体は言うことを利かなくなり、床に投げ出されてしまう。その際、椅子が大きく動いた。これには周りの人々が反応したのだが、その横で苦しんでいる彼女の姿に注意を向ける者はいなかった。

 床に仰向けになった智沙をめまいが襲う。世界が拒んでいるかのように、交わることを嫌うかのように空間が襲う。

 目を強くつぶった瞬間、空間は平常心を取り戻したかの如く、何事もなかったように振る舞っていた。脳を揺さぶる感覚はなくなっていたのだ。

 不快な気分から起き上がってみると、少し様子が変だった。

 さっきまでそこにいたはずの少年の姿どころか、椅子におびえていたはずの人々の姿がない。代わりにたくさんの制服姿の警察官がレクリエーションルームや廊下にいるのだ。

 見知った顔も数人来ており、せわしなく走り回っている。

 「何があったの?」

 試しに来ていた高岡班所属の岡口に声をかけてみた。

 だが、これまた無視。やはり彼らにも智沙は見えていないのだ。

 「なんで死んじゃうんですか」

 少し離れた病室から碓井の声が聞こえた。彼女の口調が悲し気に満ちていた。

 開いていた戸の外から覗いてみた。すると中では多くの関係者がベッドを囲んで立っていた。その中でもひときわ悲しそうに碓井が泣いていたのだ。

 「僕らに黙って何をしようとしたんですか…」

 今にも泣きそうな声を発したのは桑原で違いなかった。

 まさかと思い、智沙は隙間を抜けてベッドの前にたどり着く。大きな花瓶に生けられた豪勢なお花とともに安らかに眠る倉本の姿があったのだ。

 (どうして私じゃないのよ)

 どうせ声に出しても聞こえない。だが、心で思うことで息を引き取った倉本に届く気がしていたのだ。

 「倉さんは体を張って敷島会が犯人だと証明してくれたのです。総員による家宅捜査の許可お願いします」

 隣の部屋からひときわ威勢のいい女性の声が聞こえてきた。湿っぽい病室を一掃するかのような強い口調のものだった。

 それは覗き見るまでもない犬養智沙、彼女自身だった。彼女は目の前の豊川本部長に頭を下げていた。

 「そうですね。倉本君の死は無駄にはしない。これから招集をかけて総力をもって事件解決に専念するとしよう。その間犬養さんはどうしますか?」

 その問いに彼女は頭を上げた。口を真一文字にして目は大きく見開いていた。今にも泣き出しそうな自分を律し毅然と仕事に向き合っている様子は、誰が見てもすぐに察しがついただろう。

 「当然、頑張ります。倉さんもそれを望むはずですから」

 「わかりました。無理にとは言いません。ですが、感情的になりすぎて間違いを犯すようなことはない様に」

 「はい」

 彼女は背筋をピンと伸ばし部屋を出てきた。

 智沙にとっては不思議な感覚であった。もう一人の自分とすれ違っても彼女は自身の姿を目視できないのだ。そして彼女の感情は痛いほどによくわかる。記憶にない出来事の中にいる彼女と自分とは違うようでいて同じなのだから。

 毅然と歩く様子の自分の背中を追いかけていると背後から声を掛けられた。

 「班長」

 智沙は思わず振り向いた。後ろから渕上が追いかけてきていた。

 当たり前のように渕上は智沙を追い越し先を歩き続ける彼女を追いかけた。

 「僕らを置いていくのか?」

 「どちらでもいいわ。強制はしたくない」と彼女は足を止めようとはしなかった。

 「僕にできることはないかな?倉本さんのためだ、どんな時間にだって証拠を取ってこよう」

 渕上の言葉に彼女は足を止めて向きを変えた。先行く彼女は振り返ると思いのほかにひどい顔をしていた。

 「じゃあ、お願い聞いてくれるのね?」

 「場合によるけど」

 「倉さんを救ってあげて。あなたにはできるでしょう?」

 渕上は慌てて人目を気にした。フロアー内は未だ多くの捜査官と入院患者が行き来している。

 迷った挙句に部屋を物色することにした。廊下の突き当り左右に部屋が二つ。左は更衣室だから論外だが、右は倉庫だ。試しに戸を引いてみると施錠されていない。

 こっそりと二人は中に侵入し、人目を避けた。

 それを見ていた智沙は戸の隙間を少し開け聞き耳を立てることにした。

 「倉本さんを助けるって僕に過去に戻って彼が死なない過去を作れってことだよね」

 「出来るんでしょう?」

 「出来る。だが、彼は生き返らない」

 「やっぱり、否定はするのね。さっきの言葉は何?気休めだったの?」

 「そういうつもりじゃあ…」

 「今回の事件は倉さんの死が引き金になって思ったよりも早く解決するでしょうね。でもそれじゃあ、やっぱりいたたまれない。倉さんが死なずに事件を解決する未来はきっとあったはず。そう思えてならないの」

 「その思いを否定なんてしない。だが、僕が言いたいのは僕が過去を変えて戻ったとしても倉本さんが息を吹き返すわけではないということなんだ。過去を変えたからって直接的に僕らが生きている時間軸の世界が書き換えられるわけじゃない。倉本さんは遺体のままだし、事件解決の進捗が後退するわけでもない」

 「それでもかまわない。寂しい思いはするけど、別の未来で倉さんが生きているのならそれで十分。倉さんにももう一度やり直すチャンスをあげてほしいだけなのよ」

 智沙は取っ手から手を放して壁に体を持たれさせた。ここがどういった世界なのかようやく理解できた。智沙にとってここは別の世界。あるはずだった書き換えられた世界なのだ。

 いきなり心臓が大きく脈打った。苦しいほどに大きく飛び跳ねた。

 脈を打つほどに心臓が締め付けられた。

 倉庫の隙間から黒い影が溢れてきている。その影は心臓の脈に同期するかのようにドクドクと迫りくるのだ。

 再び立っていられなくなった智沙はその場で膝をついた。脳に直接語りかけるような声に気を持っていかれそうになる。さらに首が締め付けられるように痛い。気が付けば自分の手が首に絡みついていた。

 緩めた手には真っ赤な血が表面を覆っていた。血が首筋から溢れていた。

 耐えがたい苦痛にまた床にあおむけに倒れた。いつしか視界は闇に覆われていた。

 声を上げることもできず、両手は闇をかき分けた。闇は液体のように感触が宿っていたのだ。すると何かに触れる。手を伸ばし何かを顔に寄せた。

 突如として心臓が張り裂けんばかりの脈を打つ。雷に打たれたような衝撃で思わず上半身を床から引き起こした。

 「智沙!死ぬな!」

 意識を取り戻し我に返った彼女は渕上の頭をつかんでいた。

 「戻ったぞ!」

 渕上は安心したように周りに報告した。

 「何があったの?」

 寝ぼけ眼の彼女は頭を動かした。首が少し痛む感覚がまず初めに訪れた。

 「首、少しケガしちゃったね」と渕上は優しく体を支えて言った。

 手で触れてみたが首筋に一本線が入ったように切り傷が刻まれていた。血はそれほど出てはおらず、せいぜい毛細血管程度の出血だった。大げさな夢を見たようだと、ホッとして様子を確かめてみると、床に押さえつけられた阿部力男の姿があった。

 倉本と桑原の二人掛でうつぶせになった阿部を取り押さえていたのだ。両手を後ろ手に手錠で拘束されている。

 「どんな状況?」智沙はさらに確認を要求した。

 「覚えていないの?君がこの男につかまって窒息させられそうになったんだけど…。どこまで覚えているんだ?」

 智沙は不安を覚えながら記憶の限りをたどった。

 「あなたを追って階段を駆け下りたけど、結局たどり着かなくて…倉さんが…」

 「俺が?」とベッドの下で本人が反応した。

 智沙は渕上の頭をぐっと近づけた。はたから見たらキスをせがむ恋人同士のじゃれ合いにしか見えないだろう。

 「タイムトラベルしたかも」

 「え?夢だよね」と渕上が冗談めかしてすぐに返答した。

 小さな声で囁いたつもりが部屋中に響き渡った彼らの会話がたまらずおかしく、倉本は高笑いを始めた。

 「班長、どの時代に行ったんだ?」とツッコミを添えた。

 「きっとフラッシュバックみたいなものですよ。一瞬でも心停止していたんですから走馬燈でも見たかもしれませんね」と碓井は自分なりの解釈に見解を述べた。

 「不思議体験は大歓迎です」と桑原も楽しそうに参加してきた。

 「夢よね」と智沙も冗談めかしてみたが、渕上を見る目だけは真剣だった。

 「ちょっと、いつまでこうしているの?もういいかしら」と体を抵抗させた。体に触れられたままで落ち着かないのだ。

 「どういたしまして」と渕上は体を起こす手伝いをしてあげた。

 少し貧血気味なのは否めないが、立って歩けないほどではない。

 「いい加減放せ!」

 一人不機嫌に阿部がもがき苦しんでいた。

 「じゃあ、立て」と倉本は阿部の体を強引に引っ張り上げた。

 「待ってください、どうするんですか?」

 阿部を拘束したまま横を過ぎ去る倉本に碓井は問いかけた。

 「決まっている。もうこいつをここで保護する必要はない。本部に連行するのさ」

 「あ、じゃあ応援呼びます」

 碓井は急いで携帯電話を取り出した。

 「桑原、病院の事務処理頼んだ」

 「はい!」と倉本の指示に桑原は阿部の監視から離れると、ナースステーションへと駆け込んでいった。

 「それでは班長は休んで言ってください。結構危険な状態だったんですからね」と智沙の肩に優しくしがみつくと碓井も倉本の後を追って病室を後にした。

 残された智沙は椅子に座りなおし、もう一度首筋に触れてみた。

 渕上はベッドに腰を下ろして足を組んだ。ついでにその膝に頬杖をついて正面の彼女を見つめていた。

 「何よ。私が可笑しいの?そうなんでしょ?」

 「違うよ。ますますわからなくなってさ。君という人間が」

 「何?やっぱり喧嘩売ってるんじゃないの?」

 「感覚が鋭いだけじゃなく、おかしな夢まで見たんだろ?それもタイムトラベルなんて。僕は一切かかわっていない」

 「今だって信じられないんだから。時間移動が起きたんだって感覚をつかんだはずなのに、あり得ないことが起きたんだから。あれはきっともう一つの時間軸。私がいた時間軸では起きなかったことが起きたんだから。それも別の私だって出てきたのよ」

 「何だって?いったい何があったんだよ?」と頬杖をついた手と組んだ足を戻し体を前に傾けた。

 「倉本さんが死んだんだ。それを私が阻止するようにあなたに求めていたの」

 「まったく君には驚かされることばかりだ。それを僕がしたから今があるというんだな」

 「そう言うことね」

 智沙はカバンからペットボトルを取り出した。カバンの中には例のファイルが垣間見える。すっかりぬるくなったミルクティーは甘く、舌に糖がざらついた感触がした。

 「ついでに相談しておこうか」と渕上は改まって立ち上がり智沙の向かいに備え付けられている椅子に移った。

 「君にしか言えないことなんだけどさ」

 「変な話なら聞かないわよ」

 「まあ、そう言わないで…話と言うのは阿部のことなんだよね」

 「よし、続けたまえ」

 「じゃあ」と渕上は座りなおして改めて本題へと移った。

 「僕は阿部を過去に戻そうと思う。いつかと言えば27年前の5月になるだろうけど」

 「なんでそんなことを?そもそも誰かを連れて行くことなんてできるわけ?」

 「今まで君にしか僕の能力について知る人はいなかった。正確に言えば、そんな試みをしようなんて考えたこともなかったんだ。これは僕にしか作用しない力だと思い込んでいたし、もしできたとしても過去が大きく変わってしまうリスクを気にしただろうね」

 「そうよ。27年も前にあんな何も知らないような危険人物を放ってしまったらこの世界がどうなってしまうのか予想なんて立たない。それは私にだってわかる」

 「でもそうすることが必然だとわかっていたら?」

 「それはやらないとならないことなの?」

 「どうだか?でも未来の僕はそうしたみたいだ。君も予想は経っているのだろう?察しの良い君なら、例のドッペルゲンガーと呼んでいた老人、もう一人の阿部力男が未来から送られてきた阿部と同じ存在だという考えに及んだはずだ」

 真鍋と智沙を殺しかけ、その存在のすべてが謎だった男。その老人のDNAが阿部力男と一致したのはまさに奇妙な結果だ。

 「やっぱりそうなのね。だとしても思い通りに動くかしら?過去の自分や私たちに影響を与えないとも限らないでしょう?」

 「予想通り動くはずだ。老人の阿部がどこにいたかはすでにつかんでいる。そうでなければ今こうして僕らが話している状況だってなかったはずだろ」

 少なくとも未来から来た阿部は過去の智沙や渕上らに何の影響も与えていない。過去がそうだったのだから、対象を過去に戻したところでそのような影響は与えないことは確定済みなのだ。

 「でも、容疑者が突然いなくなるのよ。後処理はどうするのよ」

 「それは後で…」

 「大変です!」と突然病室の戸が開かれた。外から血相を掻いた桑原が飛び入ってきたのだった。

 「どうしたの?」と智沙は上半身を浮かせて反応させた。

 「阿部が逃走しました!」

 「さやと倉さんは?」

 「倉本さんからの連絡によると、阿部は車ごと逃走したそうで、碓井さんを人質に取っているそうです」

 「応援連絡は?」

 「これからです」

 「ちょっと電話」と渕上へ手を差し伸ばした。ことによっては警察無線のほうが速い。それは私用の電話機にはない。支給用の電話なら電子ボードと同期しているため緊急時には重宝できる。

 「本部長、お久しぶりです。ええ、その話はあとです。阿部力男被疑者が逃走しました。はい。車は?」と智沙はスピーカーにして桑原に表面を差し向けた。

 「倉本さんのバンです。ナンバー○○‐○○」

 『わかりました。他に言いたいことは?』

 「碓井が同乗しているようです」

 『何?わかった。すぐに関係課に対応願おう。それと君たちは覚悟しておきなさい』

 とんでもない失態だった。仏の豊坂が厳しい言葉をぶつけるのも仕方のないことだ。

 「そんなに怒ることないのにね」と相変わらず渕上はのんきに感想を述べた。

しかし、豊坂の怒りはもっともだった。

 聴取映像のリークに始まり智沙の辞表、被疑者の逃走と続いている。いつになく風当たりは強いのだ。そこにきて新たな要因がテレビ画面で報じられていたのだ。

智沙は思わず備え付けのテレビの前で立ち止まった。

 『速報です。本日の夕方、当時五歳女児誘拐殺害事件に関する隠ぺいの疑惑に際して記者会見を開くという政府からの通知がありました。いったいどのような見解を語るのかは定かではありませんが、捜査ミスを認めるのでは、という見方が一部関係者から語られたという情報もあります』

 「僕らもついに解体だね」

 「勘弁してくださいよ」と桑原は渕上の背中を押して先を急いだ。

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