CASE.3-22
阿部のもとに父俊久が現れ、阿部を連行して行ったのは土曜日の午前中だった。萌絵は不安に駆られながらもどこか楽天的だった。
一度目に父が現れた時は阿部と喧嘩しているようで見ていられず席を立った。例の事件以来、阿部とはぎくしゃくしていた。なので阿部の肩を持つ気にもなれなかった。
それでもあの場所にいた理由。それはストーカーから逃れたかったからなのだ。
父と別居し母とともに暮らすようになったが、母は帰りが遅く心もとない。ストーカーの件は話していないからわがまま言うつもりもなかった。なんで別居を促すようなひどいことを言ってしまったのだろうと何度か後悔もした。
そして、流れ着いた先は阿部のもとだった。オーナーの敷島は遺体遺棄から妙に信頼を寄せていたから何も言わなかった。
実はストーカーは今も続いているなどとは言えず、転がり込むようにして萌絵自身もこの状況に甘んじていたのだ。
この奇妙な関係性は阿部の任意同行の日、大きく崩れ去ったのだ。
「やっほー」
『すみません。徹子のお友達?』
その日の午後、徹子の携帯番号から着信が届いた。相手が徹子ではないことに間の抜けた返事を挙げた自分が恥ずかしかった。
『徹子の母です』
電話口の相手はまず初めにそう言った。
「ああ、初めまして。お世話になってます。一時萌絵と言います」
何とか体裁を取り繕って相手の空気感に合わせてみた。
『徹子。そちらにいますか?』
「いいえ。数日間会ってませんが…」
考えてみればここ数日、学校ですら声をかけていなかった。バタバタしてたというのはまさにそうだ。友達に助言を求めることすら考えていなかった。
「どうかしましたか?」
『ずっと帰ってきてないの。うちの子が行きそうな場所に心当たりありませんか?』
「そうなんですか?私の方でも探してみます」
それは簡単な申し出だった。すぐに見つかるだろうと高を括っていたのだ。
萌絵はまず片っ端から友達に連絡した。だが、徹子の行方を知る人物はだれ一人としていなかった。それぞれが思い出したように彼女を語るさまは友達として悲しい気持ちになったが、かくいう自分も人のことは言えない。
萌絵は罪滅ぼしにとばかりに外へと繰り出した。誰かに見られているのではないかという恐怖を抱きつつも徹子の居そうな場所を片っ端から探し回った。
カラオケ店、喫茶店、ファストフード店、ショッピングモール。
そしてバイト先のファミレスでは徹子の先輩女子大生からある話を聞いた。
「石原さん、イメチェンしたから化粧の違いだけで見つかりにくくなっているかもしれないわよ。ほら、彼女のシンボル的なガングロメイクなんかすっかり落としちゃって、今のあなたのような感じですっかり見違えちゃったのよ。絶対そっちの方がいいって、褒めたらまんざらでもない様子だったし、友達を驚かせるんだってワクワクしていたわ」
「それいつですか?」
「先週だったかな?あれ以来、石原さん来てないわ。シフトすっぽかしているのよ。おかげで人手が足りないくて忙しいわ」
口調こそきついが彼女なりに心配しているようだった。
「失礼します」
萌絵は先輩に頭を下げて走り出した。
「ねえ、ちょっと」と彼女が背中に声をかける。
「ただの家出よね?」
萌絵は返事せずに店を出た。彼女の中ではその説はすでに希望的可能性へと地位を下げている。
焦燥感に苛まれ彼女は走り出した。ある仮説が脳内を占領していた。
久方ぶりの我が家は闇に包まれていた。俊久は今頃は取り調べ阿部と対面しているはずだから突然帰ってくることは考えにくい。
カバンから鍵を取り出してそっと玄関を開けた。すると中は暗い。住人を2人失った我が家からは住居としての生命、存在感というものの息を感じられなくなっていた。
萌絵は意を決して備え付けの郵便受けを調べた。しかしそこには何もなく、目的を果たした達成感から一瞬息を漏らした。
そして闇を落とした空間を萌絵は荒くなる呼吸を抑えながら足を踏み入れる。父一人で生活するには広すぎる空間だろう。
リビングのテーブルの上には目当てのものはなさそうだった。代わりにビールの空き缶と新聞紙の束、吸殻の詰まった灰皿がおかれたままになっている。
母が数日家を離れた割には意外と言っていいほど散らかっていないことに気が付いた。キッチン用品も食器類もきれいに並べられていた。仕事人間の父が自ら家事をこなせるとも思っていなかっただけに、不本意ながら感心してしまった。
そんなつまらない感情に戯れていた萌絵を衝撃が襲う。
それは二階の自分の部屋に向かった際である。階段の明かりを点けて愛しのマイルームへと足を運んだ際である。そこで見たのだ。扉の隙間に挟まったままのあの茶封筒を。
それは母のいつもの手法。彼女に届いた郵便物はすべてそのようにしておいた。決して部屋には入れようとしない。そして父はそのルールを知らないはずだった。現に、不在期間中に届いた郵便物はすべて別居先にまとめて返送されてきた。つまり家に届いたものはすべて父を介して本人に届いているはずなのだ。
萌絵は震える手で茶封筒を手に取った。そして恐る恐る部屋の扉を開けた。
しかし何もない。出てきたときのままの様相を呈していた。特に荒らされていたりだとか、変わった様子は一切なかった。
萌絵は机に向かって封を切る。差出人はやはり不明だが、あて先ははっきりうちの住所の一時萌絵宛だった。
中身は変わらず数枚の写真だったが、対象者が違う。それは明らかに自分ではなかった。
「徹子なの?」
確信はなかったが、彼女しか考えられなかった。イメチェン話を聞かされていなければ見分けがつかないほど見違えた姿の徹子の身なり。まるで自分を意識したような変わりようにも思えた。
右下の赤字の日付はすべて月曜日、そして朝の登校風景だった。
月曜日の朝を思い出したがやはり彼女と話した記憶はない。それどころかここ一週間しっかりと授業を受けた記憶すらない。遅刻常習犯だった彼女にはよくあることだった。
『マモリたいけど、ドコにいるの?イエにいないみたい。サガシタヨ。そしてミツケタ。カワイイきみ。でもミマチガイ。カンチガイ。こんどアソボウ。テツコとボクと萌絵ちゃんと』
並べられた定規で引いたような直線ばかりの文字のなか、名前の部分が不気味に手書き。
すぐにでも叫びたかった。野性的遠吠えを吐き出したかった。だが、それ以上にすぐにでもこの部屋を逃げ出したかった。
間違いであってほしい。ストーカー犯は確実に家に侵入している。母しか知らない郵便物のシステム。父が受け取っていたなら差出人不明に感づいて中身を確認していたに違いない。父のことだから騒がないはずはないのだ。
誰かが部屋の前まで来ている。
呼吸が乱れ、萌絵は部屋を飛び出した。危うく階段で転びそうになりながらも、なんとか玄関を抜ける。
焦って家を飛び出したものだから人とぶつかった。ぶつかった拍子にバランスを崩して道に腰を着いた。その時くるぶしのあたりがピキッと変な音がした気がしたのだが、痛みよりも何よりもまず相手がストーカー犯ではないのかという恐怖が勝りその違和感は一瞬にして忘れ去った。そして瞬時的に彼女は目をぎゅっとつぶっていた。
「あなた、確か倉本君が連れていた」
色気のあるその声に萌絵は呼吸を忍ばせて目を開く。そこには見覚えのある女性の姿があった。それが誰であるか記憶を巡らせた瞬間に不快感を抱く。それに彼女が倒れていないのは不公平であるようにも思った。
「あなた、一時さんの娘さんだったのね。結構かわいい子だと思って見てたけど、まさか彼の子なんてね」
色気のある唇と真っ赤な口紅、髪型はゆるふわロング。それは父とキスをしていた女のそれに違いない。
「私急いでいるので」と萌絵は立ち上がりお尻に着いたかもしれない埃を払った。
それでは、と立ち去ろうとした萌絵に彼女は「待って、謝らないと」と声を投げかけた。
(今日はやけに呼び止められるな)と皮肉に感じながらも相手の出方をうかがった。
「家庭のことは知っていた。壊す気なんてなかったの。責任は私にある。お父さんは寂しかったのよ。寂しそうだった彼に私は惹かれていた。あなたに構ってもらえないことが相当つらかったのよね。いくら弁解しても仕方ないのは分かっています。本当はきっぱり分かれるべきなんだってもわかっているけど…放っておけなくて…」
萌絵は振り返り女の顔を見た。
女はドキリとした表情を見せた。
「いくら好きだからって、相手に迷惑かけるのはよくないですよね」
それは彼女を責めたいわけではなかった。そして不倫について言及したわけでもない。
女は「そうね…」と一言呟くとそれ以上悟ったように家の塀にもたれたまま動こうとしなかった。
既に七時ごろ、一刻も早く敷島ジムに帰りたかった。頼れる人間は阿部しかいない気がしたのだ。これが間違いだったのかもしれない。本来なら警察に届けるべきだったのかもしれない。事情を知る緒形巡査長に頼るのも手だったはずだ。
もし別の世界でその選択を選んでいたらまた違ったのかもしれないと思うと、この直後に訪れる悲劇は免れたかもしれない。そう悔やむことだってなかったかもしれない。
しかし世界は〈モシ~だったら〉や〈カリニ…だとしたら〉は存在しない。それは誰もが抱く現実逃避にすぎない。
萌絵の目の前に突きつけられた現実。それは疑心暗鬼からの崩壊だった。
ジムに帰るとすでに阿部の姿があった。警察の追及をかわしたらしく、のんきにほかの寮生たちと談笑していた。
萌絵はその様子に苛立ちを募らせつつ自室へと籠った。
「おい、萌絵。もしかして俺のこと嫌いか?」
阿部はノックもなしに唐突に部屋に押し入るとそう質問した。
「なんでそんなこと聞くの?」
「いや、ほら、俺たちの関係って未だ進展しないだろ。あの夜まではとってもいい間柄だったじゃないか。でもほら、いろいろあってさ、なんかうまくいっていないみたいでよ…」
「何?要するに私を抱きたいわけ?」
萌絵の投げやりの発言に阿部は急に手を取りかしこまった。
「この通りだ、頼む。俺は萌絵の親父とは違う。あんなクズ気にするな。あいつは萌絵が言った通り痴漢について自覚していなかった。あんな野郎のことなんて忘れて今から思い出を作ればいいじゃないか」
萌絵は思いっきり阿部の体を引くと振り子のようにして頬にビンタを食らわせた。
「イテェな」
阿部は反射的に萌絵の右頬を殴った。
「最低!」と貶し、負けず体を突き飛ばした。
「ごめん。本当に済まない」我に返ったように阿部は膝をついて懇願するように彼女の足元にすり寄った。
「どうして父にあのこと言ったのよ!」
「どうしてだって?それは、決まっているじゃないか。萌絵のためだよ。わからずやに思い知ってもらうために…」
「デリカシーがないって言っているの」
「何だよそれ?」
萌絵はバッグから例の写真を取り出して膝をついたままの阿部の目の前に投げ捨てた。
「何だよこれ?」
「ストーカーから送られたものよ。あなたのやったことはこれと同じよ」
「ちっともわかんない。何が同じだ。この子は萌絵じゃないだろ」
萌絵は畳みかけるようにして怪文書を突き付けた。
「アンタが殺した女はストーカー犯じゃなかった。同一犯がわざわざ部屋の前までこれを置いて行ったんだから。それに写真はこれだけじゃない。あの後も2回、変な写真と手紙は送られ続けていたのよ。でも今回は今までとは違う。私のせいで徹子にまで危険が迫っているのよ!」
「徹子?」言われて初めてその写真の女性がファミレスの店員で萌絵の友達だということに気が付いた。そしてその写真と手紙の意味するところと彼女に突き付けられている事実について今までの自らの主張に無理があることを思い知った。
「そんな…汐里はストーカーじゃなかったのか?」
「そう言っているじゃない。どうして彼女を殺したのよ」萌絵は肩を落としてうつむいた。
「見ただろ、写真の数々。それに俺をつけ狙っていたのは確かだったんだ」
「証拠がないじゃないの。写真は全部捨てたんだし、遺体だってもう土の中よ」
「それにオーナーだって付け狙われていたみたいだったし…」
「何よそれ!あの子を殺したのはあなたなんでしょう?変に言い訳しないでよね!」
「何だと!」
阿部は癇癪気味に机を叩き、立ち上がった。
「まるで俺だけが悪者みたいな言い方するなよ!ストーカーに困っているって頼ってきたのはお前の方じゃないか。触らせてくれないくせにえらそうなことばかり言いやがって!そもそも、写真の件なんで言わなかったんだ。もうそんなの知るかだ!馬鹿!この女だって俺には一切関係ない」
「ひどい言い方しないでよね!」
萌絵も立ち上がり再び阿部の胸元を突き飛ばした。
阿部は勢いのままベッドに腰を着く。
「何だお前ら!」
あまりに騒がしく喧嘩していたものだから敷島が鬼の形相で部屋に入ってきた。この分だと今までの会話も全部筒抜けに違いない。遺体の処理のこともすべてだ。
阿部は慌てて廊下を確認した。だが、外は他に人の気配が一切なく、がらんどうとして静かだった。
「あいつらはランの時間だ」
スケジュール的にはそんな時間だったか、と安心した阿部だったが安堵するにはまだ尚早なのだ。
「オーナーはいつから?」
「お前らがうるさくするからあいつらを走らせてすぐだ。どうしてお前らはあの話を蒸し返そうとする。これが聞かれるということがどういうことなのかまったくわかっていないようだな」
「わかっています。殺人は事故だったんですよね。どういうわけかあの子がここにきて、事故で亡くなった。それで十分だったじゃないですか。どうして私たちに死体の処理なんかさせたの!」
「事故じゃないからだ。あれはどう検証してもこいつが突き飛ばして殺したと思われたに違いない」
堂々とした敷島の話ぶりだったが、どこか探りを入れた迷いのようなものが感じられた。
萌絵はバッグを抱えて部屋を出て行こうとした。
「待ってよ。どこへ行く」阿部が後ろから手をつかんだ。
一日の内の呼び止められ方の中で他のどれよりも狂気と切迫に満ちていた。
「決まっているじゃないの。ストーカー被害を相談しに行くのよ。そうしないと徹子の身が危ないのよ!」
「それじゃあ、これまでのことはどうやって説明するんだ。俺はさっき警察に汐里にストーカーされていたって説明したんだぞ。お前が警察に相談でもしたら一緒に書いた届け出だって知られてしまう」
「おい、何だ?届け出だと?」
敷島が知らないのは当然だった。5月の被害届の件は二人と交番の警察官しか知らない秘密なのだ。
「ランニング中に知らない男に追いかけられたんだ。そして交番に行ったんだ」とめんどくさそうに端折って簡単に説明した。
「もういいでしょ、離してよ」萌絵は阿部のつかんだ手を必死に振りほどこうとした。
「ダメだ。俺たち全員逮捕されるだろ!」
「もういいのよ。そうでもしないと徹子が!オーナーも言ってください。指導者らしく自首しろって言ってよ。私たち二人はせいぜい遺体遺棄で減刑されるかもでしょ!」
すると敷島は阿部の胸倉をつかんだ。力の加減を失った阿部はその手を放し、そのまま萌絵は体をひねらせ廊下に腰をぶつける。
そして敷島は大きな張り手で阿部の頬をぶった。頬が真っ赤に腫れあがるほどの勢いを持った張り手に阿部は転げまわった。
敷島は萌絵の前まで行くと彼女に手を差し伸べた。
素直に右手を差し出した萌絵だったが、彼女は敷島を誤解していた。
「帰り道の事故は覚えていないのか?」
引き上げた腕の勢いのまま萌絵を胸まで寄せて耳元でこう聞いたのだ。
「何のこと?」
萌絵には敷島が何のことを訊いているのかわかっていなかった。
敷島は形相をさらに強張らせ彼女の首をつかみ、ゆっくりと力を入れながら質問の意味を解いた。
「しらばっくれるな。遺体を埋めた帰り道だよ。俺たちが乗った車は事故を起こして子供が死んだだろ。お前が警察に相談したら阿部が殺人に問われるだけじゃすまない。俺だって事故の件があるんだ。お前が良くても俺は許さない」
首に絡みつく手を爪でひっかいて抵抗したが、びくともしなかった。
するといきなり体が横倒れになった。敷島が倒れたことで彼女も一緒に横倒れになったのだ。
「力男、何する!」
阿部が敷島に蹴りを入れたのだ。
「萌絵を殺すな。俺が絶対に説得するから」
「ダメだ。今すぐ殺す。時間をおいたところで逃げられる。それに今みたいに裏切られでもしたら堂々巡りだ」
「説得する。俺は今も彼女が好きなんだ。だから頼む」と敷島の足元にすがった。
敷島は阿部を蹴飛ばした。
「わからないか?こいつはお前のことなんて何とも思っていないんだ。説得するだけ無駄だって理解しろよ」
そのあとも敷島は何度も阿部を蹴り続けた。
そして呼吸が乱れ机の上に腰を乗せた時である。ここぞとばかりに萌絵は逃げ出した。敷島は蹴り疲れて瞬発性には欠けているはずだし、蹴られ続けた阿部も満身創痍に違いないのだ。隙をついた萌絵の駆け出しはまたとないほどに良き頃合いだった。
だが、次の瞬間には阿部に取り押さえられていた。
部屋を出てほんの10メートルもしないところで足をくじいたのだ。
(そういえばあの時)
足から漏れた不気味な音を思い出した。
廊下に押さえつけられた萌絵は両手両足をバタバタともがき、足の痛みに悲鳴を上げた。
するとそこに大勢の声とともに建付けの悪い戸口を開く音が聞こえてきたのだ。
ランニングに行っていた寮生たちが帰ってきたに違いない。
萌絵は千載一遇のチャンスに思いっきり声を上げた。
「助けて!」
しかし、その声はかき消されていた。寮生たちには全く聞こえていなかったのだ。
敷島がほとんど同じタイミングで寮生たちを叱りつけ始めたのだ。
「遅い!クズども!もう一周だ!さっさと行かないと晩飯抜きにするからな!」
スパルタ教育も甚だしい。
寮生たちはてんでんに文句を言って騒いでいた。
チャンスを逃すわけにはいかないと、萌絵は再度助けを求めたのだが、二度はうまくいかなかった。阿部が彼女の口を力強く抑えていたのだ。
何としてもこの危機を救ってもらうべく萌絵は必死に声を上げようと努めたのだが、阿部の手は一瞬ごとに力がこもっていった。
そのうちにして阿部は自らが犯した最大の罪に気が付いた。口元を押さていたと思っていたその手は彼女の鼻ごと包み込んでいたのだ。数分間塞がれた呼吸器官の異常により、萌絵はすっかり意識を失っていた。
阿部は急いで萌絵の頬を叩き、彼女を起こそうとした。こんなまさかの事態など想定していない。阿部は自らの震える手と揺れ動く瞳を懸命に押し堪えて彼女の小さな体を揺さぶった。しかし、一向に彼女は反応しない。
阿部は彼女の体を引きずって、部屋へと連れ戻した。体の力が抜け無防備となった彼女は呼吸をしていない。だから人口呼吸を試みた。経験はなかったが、どこかで見たことがある方法を試してみたのだ。
口を付けてみても息は吹き返さない。胸を押し付けてみても心臓が動いているのかわからない。
途方に暮れる阿部の前に再び敷島が戻ってきた。
「おう、やったか」
殺人を喜ぶ敷島に阿部は怒りを覚えながらもコクリと頷いた。顔色が次第に悪くなっていく彼女の姿が見るに堪えない。
「さあ、服を脱がせ」
「は?萌絵に何するんだ!」
「遺体をもてあそぶつもりはない。山野と同じだ袋に詰めて埋めるのさ」
そう言って敷島は急いで部屋を出て行った。手慣れたもので必要なものはすでに頭の中にあり、それらをかき集めるだけなのだ。
阿部は言われるがままに彼女の衣類を剥いでいく。それが本来どれだけ男として、彼氏として興奮させることかは知っている。だが、下着を脱がしてもまったく快楽を感じさせることはなかった。阿部は泣きながらすべての服を剥ぎ終えると彼女を強く抱きしめた。
「触らないでって言わないのかよ」と言い胸を触ろうとしたが、胸元のネックレスに目が行った。どこかで見た気もするが、彼女のお気に入りのものだからだろう。
阿部はそのネックレスを自ら首にかけてみたが、サイズがきつい。女性ものだからだろう、萌絵のように胸の位置には届かなかった。
二人で彼女を袋に詰めて車のトランクに押し込めた。
トランクを閉じた終えたとき再び寮生が帰ってきた。
二周目のランニングは体に応えたようで呼吸が荒く、早々に寝っ転がる者もいた。
さすがにもう一周という指導はしない。時間稼ぎは十分だった。
「このままっすか?」
阿部はトランクを指して言った。
「明日でいい。すぐに腐ることもないだろう」
そう言って敷島は何事もなかったように寮生の指導に戻っていった。
晩飯時だった。とある人物がジムに訪問してきたのだ。
「誰っすか?」と代わりに中学生の寮生が客を迎えた。
彼はすぐに敷島を呼んだ。
敷島はいつものように苛立ちつつ、客の姿を確かめに行った。
食卓から向かったと思うとすぐに戻ってきた。いつになく血相を掻いた表情で阿部をつかみ上げると別室へと連れ込んだ。
そして敷島はポケットから取り出したあるものを阿部に手渡した。
それはカギだった。
「辛峠町の覚えているな?」
「オーナーの故郷ですよね」
「行けるな?」
「行けるって、なぜ?それにこれって車のキーですよね」
「いま、トランクの中を開けられるとまずい。すぐに行って埋めてこい」
「行けって、俺だけですか?免許だって持ってないのにまずいですよ」
「仕方ないだろ。警察が来たんだ。大丈夫オートマだ」
「野郎もしつこいな」と浮かんだのは萌絵の父だった。
「違う。ストーカー事件の担当だってんで、男が来たんだよ。時間がない、いいか、こっそり出て行って遺体を埋めてこい、いいな」と敷島は急いで部屋を出て怪しまれないよう装い警察の対応に及んだ。
無免許運転や山へのルートはネックではない。問題は彼女を一人で埋められるかだった。袋から彼女を出して土を掛けるのだ。その行為が自ら許せるだろうかということだけが彼にとっての重要な問題だったのである。
阿部はゆっくりと部屋を抜け外を目指した。他の寮生たちも早々に食事を済ませるとそれぞれの余暇を満喫するのだが、緊張感のあるオーナーの様子が気になるようで野次馬のごとく顔を覗かせていた。
敷島と警官は運動場の隅で押し問答を繰り返していた。
いない、知らないを繰り返す敷島といるはずだ、では何処だ、と繰り返す警官のやり取りが水掛け論のごとく永遠と続いてお互い一歩も引かない。
阿部は目立たずに車まで足を運んだ。車のキーをエンジンに突き刺して深呼吸。始めて動かす車体の鼓動に少なからず興奮した。
何処をどう動かせばこのマシーンは動くのかの見当はついていた。阿部は自ら落ち着かせるために首のネックレスを助手席のダッシュボードの上に置いた。そこに置くことで萌絵が守ってくれるようなそんな安らぎを求めたかったのだ。
意を決してアクセルを踏み込んだ。突然の勢いに慌ててブレーキを踏む。しかしそれは加減の知らない無免許運転手。勢いよく向かった先は別の車に衝撃を与えてしまった。
衝突音が鳴り異変に気が付いた警官が駆け寄ってきた。
焦る阿部は思いっきりアクセルを踏み込もうとするが、それは失敗だった。彼が踏んだのはブレーキである。車体はブレーキと徐行を繰り返す。
「今すぐに降りなさい」
警官は拳銃を運転席に向けた。
阿部は思わず両手を上げた。その反動で車体は勝手に前進を始める。
「レバーをPに!」
警官の助言に阿部はすかさず言われた通りにパーキングへと押し込んだ。大きな事故はなく済んだが、ぶつけられた車体の表面は大きな傷がついていた。
「まったく、どうしてくれる」
そのぶつけられた車は警官のモノだったらしく大層ショックを受けているようだった。
阿部が運転席から降りるとその警官に覚えがあった。
「警察ってあんたか」
それは緒形秀昭だった。
「一時萌絵はここに来たのだろ?」
「何のことか?」
「じゃあ、これは何だ」と緒形は堂々たる仕草でトランクの前に立った。駆け付けた敷島の目の前でそのトランクは開かれた。
袋に包まれた全裸の女の子が姿を見せる。この男ははじめから知っていて敷島や阿部の前に現れたのだ。
阿部は覚悟して両手を突き出した。もはや言い逃れはできないと観念したのだ。敷島は激昂して緒形を殴ろうとした。
だが、緒形は阿部の覚悟を裏切り敷島の怒りを打ち消す取引を持ち掛けてきたのだ。
「連れて行くつもりだった場所を教えろ。俺が代わりに埋めてきてやる」
「なぜ肩代わりしようとする?」
相手の上着の肩の部分をつかんだ敷島の疑問はもっともだった。
「決まっている。見返りのためだ」
「見返りだと?ふざけるな。この悪徳警官め」と阿部が怒る。
「何が欲しい?」
取引に食いついた敷島はつかんだ上着から手を放した。
「まずは車の修理代と100万円それでいい」
「そんなもんか?後からせがんだりしないよな?」
「当然だ。こちらも危ない橋を渡るんだ。これ以上せびる気はない」
はした金でもいいから欲した警察官の小銭稼ぎとぐらいしか思わなかった敷島は、分かったと言ってさっそく金の用意を始めた。
「おい、小僧。彼女を移すのを手伝ってくれ」
指示された阿部だが一切従う気はない。
緒形は舌打ちし自ら神聖な彼女の体を抱きかかえ、側面が少し凹んだ愛車の後部座席へと押し込めた。
「おい、これでいいか」と敷島は現金の入った封筒を相手に差し出した。
「多いようだが?」
緒形はつかんだ感触だけで中の金額を察した。
「200万ある。せめてもの謝礼だ」と言いつつも敷島は封筒をつかんで離さない。
「これ以上の接触はしないことだ」と付け加えるとやっとのことで封筒から手を離した。
緒形が謝礼を受け取る前に素早く車に乗り込む影があった。
「俺も行く」と阿部は窓越しに主張した。
下車するつもりは一切ないらしく腕を組んで微動だにしないのだ。
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