CASE.3-20

 これは一時萌絵が事件に巻き込まれる4カ月前のこと。

 出会いは誰にも予想できない出来事から始まった。

 夜の11時過ぎ、いつものように友達とカラオケに興じて遅くなった帰り道だった。

 街灯の明かりに照らされながら萌絵はのんびり帰宅していた。というのも手元の携帯電話でメールに夢中になっていたのだ。

 ちゃんと周囲に気を配っていなかったものだから、交差点で何者かが走ってくる姿を目視できなかった。

 相手の勢いのままに突き飛ばされた萌絵は幸い擦り傷一つで済んだ。被害者である萌絵は威勢よく相手の顔をキッとにらみつけた。

 そこにいたのが阿部力男だったのだ。

 「悪い」

 それだけ言って阿部は走り去ろうとした。

 「待ちなさいよ!」

 萌絵はすぐに彼を追いかけた。

 すでにヘトヘトになっている阿部を捕まえるのは容易だった。

 「離せ。奴が来る」

 阿部の抵抗に素直に従う萌絵ではなかった。

 「もっと言うことあるでしょうが!」

 「本当に悪かったって。この通り謝るから」と軽く頭を下げて手のひらを合わせた。ほんの数秒の合掌スタイルをそこそこに弁明を続けた。

 「へんな男に追われているんだ。頼むから見逃してくれよ」

 「男?」

 萌絵は彼が飛び出してきた道の方角を眺めてみた。だが、人影らしき姿は見えない。

 「それなら、付いてきて。こういうことは警察に相談するべきよ」

 「警察?いいよ」

 「じゃあ、さよなら」萌絵はあっさりと相手を解放した。

 無理強いは主義ではないのだ。既に謝ってもらったのだから許そうかと、そこにこだわりはない。そして変に正義感を燃やした自分を笑い、再び家路に足を向けた。

 「待ってくれ。俺を疑っているな」

 「そんなつもりはないって。それより乱暴にしないでよ」

 ふいに腕をつかまれたので彼女はその手を振り払った。

 「本当なんだって、突然俺の名前を呼ぶ男が現れて」

 「はいはい。わかったから」

 萌絵は阿部をあまり相手にしていなかった。阿部の話していることの真意についてはどうでもよかったのだ。うまくあしらう方法を模索しながらも手元の携帯電話では石原徹子の電話番号に標準を合わせていた。

 「阿部力男!」

 「なんでフルネームなんだよ!」

 己の名を呼ぶ得体のしれない声に阿部は一目散で逃げだした。

 「どうして君まで?」

 隣を走る萌絵に阿部は問いかけた。

 「あんなのいたら怖いって」

 恐怖は伝染し、本来なら部外者であるはずの萌絵にすら畏怖は及んだ。

 「お前は萌絵だな!」

 「どうして私のことも知っているのよ!」

 萌絵は泣き出しそうになりながら必死に腕を振った。体力には自信のある方ではなかったが、死に物狂いの速さで男から遠ざかる。幸いにしてスカートの下は見せても良いパンツを穿いていたから動き心地にゆとりがある。懸命に足を動かし何とかして隣を走る阿部に続いた。

 「左よ」

 萌絵の単調な指示に阿部は従った。

 いつしか後ろを追ってきているはずの男の気配は消えていることに気が付いたが、油断は見せない。目的地まで走り切ると大粒の汗を流し床にしり込みを着いた。

 「君たち、こんな時間まで何をしている」

 細身のおじさんが突然の訪問者たちを対応した。

 「すみません。俺たち不審な男に追われてまして」

 阿部は立ち上がり備え付けの椅子に腰を下ろした。萌絵はだらしなく床に尻を着いたまま動こうとしなかった。

 「君もこちらに座りなさい」

 「ごめんなさい。一生分のパワーで逃げてきたものだから動けなくって。少ししたら自力で座るから」

 「そうか。それは大変だった。お茶でも出そうか」

 「いや、結構です」と阿部がすぐさま拒否した。

 「そう言わずに、こちらとしては少し聞きたいことがあるから」といって彼は奥へと引っ込んでいった。

 「何?緊張しているの?」

 萌絵はからかうような無邪気な笑顔を見せてお尻を払った。その足の付け根からは健康的な太ももが伸びていた。

 「当たり前だろ。こんなところとは無縁なんだから。こっちからしたら、どうしてそんなに落ち着けるんだよ」

 「警察官が家にいるから」とあえて誰がという主語を飛ばした。初対面同士でも 『パパが』とか『父が』という名詞を出すのに抵抗があったのだ。

 「何?身内に警察官がいるのかね?」

 奥からお盆を抱えたおじさんが戻ってきた。お盆には3つのグラスにお茶が注がれていた。

 「まあ、父が」その単語を口にするのも気恥ずかしかった。

 「そうか」と盆のグラスを机に配った。このおじさんにとっては会話のとっかかりにすぎない。

 胸元の身分証には自身の顔写真とひらがなで『おがた』と記されていた。よく見ればおがたは父よりも少し若いぐらいの年齢のようで、顔に皺がほとんど見受けられなかった。おじさんという表現は改めるべきかもしれないと萌絵は密かに非礼をわびた。

 「オッサン。俺いらないって言いましたけど」

 阿部は手元のグラスに文句をつけた。

 「ただの麦茶だ。疲れているだろうから飲みなさい」

 萌絵は遠慮なくすでにお茶に口を付けていた。ことさらに拒否するものでもないのだ。

 「俺、減量中だから飲み物を口にするのも」

 「減量?ダイエットか?」

 「今度ボクシングの試合があるからさ」

 「そうなの?その割にはヘトヘトだったね」思いもしなかった相手の事情に萌絵は単純に驚いた。

 「結構な距離を走ってきたからな」

 「へ~」萌絵は阿部の顔を見つめた。この時、阿部に少し興味を持ったのだ。

 「ちょっと先に聞きたいんだが、二人の関係は?」

 おがたは調書の書類をテーブルに添えながら尋ねた。

 「他人です。さっき知り合ったばかりです」と萌絵は即答した。

 「じゃあ、不審な男に追われたというのは?」

 おがたはボールペンの先で頭を掻いた。

 「本当です。いつものトレーニングの道を走っていたら急に声を掛けられました。知らない男の人から名前を呼ばれて、最初はオーナーの知り合いかなって思ったんですけど、その人妙に怪しくて無視したんです。すると奴は急に俺を追ってきました。だから怖くて逃げた。そしたらこの人にぶつかって…」

 「私はただ巻き込まれただけです。あいつ、私の名前も知っていた。本当に怖かった。あいつを捕まえてくれますよね」

 「手掛かりがあればいいんだけど。男の特徴とかわからないかな?」

 「特徴っすか?」

 「例えば顔のほくろや傷だったり、髪型、体つきなんかは?」

 「暗かったからわかんないけど、どこかオーナーにも見えた。体つきはすっごくがっちりしていた」

 「そのオーナーって方の写真があるのなら見せてくれないか?」

 「いや、ふつう持ち歩きませんよ」

 「それもそうだな」

 おがたは書き込んだ書類をひっくり返してペンを置いた。

 「あとは二人の名前と住所を書いてもらうけど、いいかな」

 「あの、このこと親に話しますか?」

 萌絵の頭に心配が宿った。もし知れたら両親が過剰反応するに決まっている。以前友達の一人が救急で運ばれたという出来事を聞かれただけで心配された。終いにはお小遣いをもらえなくなる可能性だって考えられる。

 「困るか?」

 「俺も困る」

 「じゃあ、名刺を渡しておくから、男が現れたら電話できるようにすること」と二枚名刺をポケットから取り出して各自に手渡した。

 「はい」二人は素直に応じ、書類に必要事項を書き込んだ。

 名刺には『緒形秀昭』の名前と肩書は巡査長と記されていた。

 「ただいま戻りました」

 自転車の音とともに一人の制服警官が姿を現せた。常務巡回で署を出ていたらしい。

 「いいとこに来た。タケ。これから二人を家まで送る。留守番頼むな」

 緒形は身支度を整え始めた。

 「わかりました」タケと呼ばれた警官は特に詮索することなく気兼ねなく返答した。

 「オッサン、付いてくんの?」と書類を書き終えた阿部は嫌そうにした。

 「当然だ。不審者に追われたばかりなんだ、最善を尽くさないと」

 帰り道はいつもと変わらない暗い夜道だった。しかし特別な夜になりつつある。

 住所を盗み見した萌絵は阿部の住所がここよりも遠いことを知った。トレーニングの話は嘘ではないらしいことを確認でき、少しほっとしたのだった。

 自転車を転がす緒形の後ろを二人は並んで歩く。

 不思議な縁で出会った二人は気付かぬうちに互いを知ろうとしていた。

 「ねえ、今度ボクシングの試合、観に言っていい?」

 萌絵は緒形に聞こえないよう声を潜めて阿部に問うた。

 「いいぞ。勝つところ見せてやるさ」

 二人は静かに笑い合った。

 偶然出会った二人が、実は必然かつ偶然にあるトラブルから生まれたことを知る由もない。突如現れた間違った歯車によって歴史は現在のあるべき世界を築き始めた。


 不審者との遭遇とはいったい何だったのか?すっかり忘れていたある日、自宅に茶封筒が届いた。普段家にない萌絵宛の郵便物は母が扉の隙間に差し込んでおく。いつもは化粧品のチラシや会員登録したカラオケのはがきなんかが挟まっているのだが、その茶封筒は見るからに異質だった。

 その差出人不明の封をゆっくり破く。想像を絶する内容物に萌絵は思わず絨毯に投げ捨てた。

 数枚の写真を包むようにして手紙が一枚入っていた。

 その全ての写真の被写体が自分だったのだ。右下の日付と記憶が一致する。

 あるものは阿部力男とのデート風景であったり、またあるものは石原徹子らとのゲームセンター風景、登校中のあくび、帰宅直前の様子まであるのだ。その枚数50枚。期間にしておよそ3カ月分が記録されていた。

 彼女は震える手で封書を広げた。

 まるで定規で引いたようなボールペンの文字でこう書いてあったのだ。

 『ボクがキミをまもる。どんなトキも』

 戦慄が走りその手紙を破り捨てた。

 どうするべきかわからず、布団にもぐりこんだ。萌絵の頭には例の不審者の声がよぎる。本来は親に相談するべきなのだが、あの日のことは両親は知らない。まして口にするもの嫌だった。

 次の日学校を休んだ。母には適当にごまかし、ずる休みを図ったのだ。母は特に疑いもせず仕事に向かった。

 一日いっぱいは眠って居よう。初めはそう思っていた。だが誰かに見られていると考えると寝付けなかった。思いがけないストーカー被害に心が大きく動揺した。

 目が覚めたのは夕方の5時ごろ。すっかり眠っていたようで、携帯電話の着信にも気が付かなかった。

 徹子から一件、心配がる留守番電話が残されていた。

 いくら友達だからといって相談できる内容ではなかった。とりあえず徹子にお詫びの電話を入れた。体調が悪かった、それ以上の話を避け相手の話に乗った。いつもと同じような学校での愚痴話にすっかり時間を忘れて会話が弾む。

 気付けばすでに1時間。現実逃避には成功したがあくまでその場しのぎ。バイトだからと電話を切る友にさみしさを覚えた。

 萌絵はベッドから降りずにカバン掴み取ると中のものすべてをひっくり返した。

 出るわ出るわの小物類のなかに一枚の小さな紙を探す。

 緒形秀昭の名刺だった。例の警察官。頼れるのは彼しかいない。

 名刺を片手に番号を打つ。

 早々に男が出た。萌絵は身分を名乗り緒形を出すように願い出た。

 要件を言わなかったが取次の担当者は不安を感じさせまいとする配慮のためか、優しく内線をまわしてくれた。

 「あの、一時萌絵というものなんですけど、5月に一度そこに行ったことがありまして…」

 言葉遣いも内容もぐちゃぐちゃだった。

 『5月?どんな用件で?』

 当然の反応だった。用件も言わず、名前だけ聞いて何があったのか思い出せるほど人の記憶力は優れていない。だからといって具体的に何があったか口にしたくはなかった。

 「ボクシングの男子と一緒だった高校生のこと覚えていませんか?家まで送ってくれた…」

 『あ~あ、たしか父親が警察官だっていう』

 ひとまず話がつながってほっとした萌絵は声を明るくして「そう、そう、そう」と相槌を打った。

 「あれから事件がどうなったのかなぁ~って思いまして」

 『事件は進展なし。あのボクシング少年からも何も連絡はきていないよ』

 それは知っている。緒形はあの後二人が恋人関係になったことを知らないのだから仕方がない。あえて言うことでもないので萌絵はその言葉を聞き流した。

 「そうですか、よかった」

 『何かあったんだな』

 本心ではない萌絵の感想を見透かすように緒形は鋭く言葉を打ち込んだ。

 「いえいえ、そんなことは…」

 『わざわざ電話してきたくらいだ何か被害でもあったのだろう?』

 「例えば?」

 『そうだな、付きまとわれたり、無言電話だったり、家に押し入られた形跡があったりかな。こんなところが一般的だろう』

 緒形の指摘したことはまだどれも実感していない。

 『何か思い当たるのかな?』

 「写真が送られてきまして…」些細な告白だったがとても大きな勇気がいた。

 『写真?どんな?』

 「私が写っているものです。50枚ぐらい。それと手紙も一緒に…」

 『なんて書いてあったの?』

 「守ってあげるってことです」

 『そうか…一度持ってきて見せてくれないか?犯人を特定する手掛かりになるかもしれない』

 「わかりました」と言ったが内心は焦っていた。

 『何かあったらまた連絡するように…それと』

 挨拶をそこそこに萌絵は電話を切ろうとしたところ、緒形は拳銃の話をしたが萌絵にどうでもよかった。話半分に受け流し電源を落とすと、急いでごみ箱を漁った。自分としたことが証拠の書類を破り捨ててしまっていた。

 今度はごみ箱を床一面にひっくり返した。散らかったごみクズの中から手紙の欠片を探し出した。すべての欠片をパズルのように組み合わせテープで修復を試みた。もしかしたら指紋が付いていたかもしれないと思い浮かぶと焦ってしまい欠片同士が歪み不細工に仕上がってしまった。

 そんな時、思いがけない着信が入った。

 阿部からのデートの誘いだった。彼の声に萌絵は思わず声を上げて泣いた。悶々として一人で戦っていた辛さに阿部の声が心地よく、一気に緊張の糸が切れたのだ。

 当然阿部には泣き出した理由を聞かれ、それを抵抗なく白状した。事情を聴いた阿部はある申し出をした。

 『今から家に行く。俺が守ってやるよ』

 「いいって、もう7時よ。あの人が帰ってくる」

 『どうしても萌絵が心配だ。すぐに行くよ』

 「じゃあ、外で待ってる」

 『外じゃ危険だ。せめてファミレスだ。どこか近くにないか?』

 萌絵は一駅ほど離れたファミレスを指定した。そこなら徹子もバイトで働いているから安心であることを説明し、電話を切ると急いで家を出た。

 両親がまだ帰ってこない家にいるよりもファミレスのほうが明るい。思わぬ提案をしてくれた阿部に感謝しつつ店内のボックス席を陣取った。

 徹子を見かけて手を振った。業務中だというのに変わらぬメイクのいでたちで接客を任されている。萌絵に反応し徹子はすぐに駆け付けた。

 「どうしたの?」

 「彼氏が来るって言うからさ」

 わざと明るい話題を作った。繰り返すが本当のことなど言えるはずもないのだ。

 「彼氏?うっそ!」

 徹子は目を潤ませた。話はしていたが姿を見せたことはない。仕事を忘れて声を上げるほど徹子の好奇心は頂点に達していた。

 「石原さん」

 仕事の先輩らしき女性に注意を促され渋々仕事に戻っていく徹子の背中越しに阿部力男の姿が現れた。ジャージ姿の阿部はまさに走ってきたとばかりに息が荒い。

 阿部は萌絵の顔を見つけるとすぐに椅子に腰かけた。

 「ごめん遅くなった」

 「そんなことないよ。まだ20分ぐらいよ。早いくらいだもん」

 阿部は店員を呼んだ。来たのは徹子ではなく、先ほどの女子大生だった。

 阿部はメニュー表を開いて「このケーキ持ち帰れますか?」と聞いた。

 「それはちょっと…」

 「お願いしてもらってもいいっすか」

 「少々お待ちを」と女子大生はバックグラウンドへと消えて行った。

 萌絵には意図が分からず阿部を不審に見ていた。

 気が付いた阿部は「お土産」とだけ説明した。

 最終的に四切れ箱に詰めてもらったケーキを抱えて店を後にした。もの言いたげにしていた徹子は渋々バイトに励んでいるという様子だった。

 「これ、お土産です」

 母と話す阿部は新鮮だった。挨拶する彼氏を連れてきたものだから母は完全に舞い上がりいつも以上に饒舌だった。

 帰りがけに数枚の写真を手渡した。例のストーカー写真である。その中のデート写真を見てもらうことにしたのだ。もしかしたら何かを思い出すかもしれないという阿部の提案に従いそれだけ手渡すと彼はまた走って帰って行った。

 「よさそうな子じゃないの」

 母のお眼鏡に適ったらしかった。それはあくまでも副産物。問題は未だ解決していない。


 一週間掛けて記憶を探った結果はやはり記憶にないというものだった。

 写真のどれもが記憶にある瞬間だったが、肝心の撮影者については視界の外、完全な死角を狙ってのものだからお手上げだった。

 ファミレスで秘密の会議をしていたがどうも徹子が会話に加わりたくて仕方がないらしく、本題は途切れ、身のない話が中心になった。バイト終わりの後も徹子は話したりないらしく二人の間に居座った。

 この日に限っては気が付けば11時を回っていた。三人は切り上げ各自の帰路に就く。そこにあらかじめ決めていた作戦を実行に移した。

 徹子を帰した後、二人が合流する算段を会議の合間に決めていた。

 難なく二人は萌絵の家の前にて合流を果たす。場所は萌絵の部屋だった。

 父親の姿があったが、いつものようにしていれば問題ない。部屋は少し散らかっていたが、ストーカー写真被害の名残だとして弁解した。

 萌絵は全ての写真をベッドに日付順に並べてみた。部屋ならだれの干渉もなく事件について相談できる。そう思ったのだ。

 いつしか二人の気持ちは高ぶっていた。自分の部屋に男性がいる。そう思っただけでドキドキしてしまう。阿部も同じ気持ちだっただろう。今日こそはとも思っただろう。

 二人はベッドで自然と服を脱いでいく。口づけをかわし、抱きしめ合った。

 だが、萌絵の脳裏にあの事がよぎる。すぐに手を突き出して体を引いた。

 不快に思った阿部は反射的に無理に抱きつこうとした。

 「ダメなの」

 「なんで」

 身を翻した萌絵は泣いていた。

 それを見た阿部は彼女を責める気になれず背中を向けた。

 「体を触られるのが怖いの。小学生の時、あの人に胸を触られた時の恐怖が今でもよみがえってくるの。それなのにあの人はそれを悪いことだと思っていない」

 「あの人って元カレか?」

 振り返り彼女の顔を覗き込むと震えているのが分かった。

 少しの無言の後、萌絵はぼそりと犯人を告げた。

 「いま下にいる人」

 「下って、まさか父親か?」と問い詰めるように彼女の肩に両手を置いた。

 萌絵は小さくうなずくき自ら身体を強く抱きしめた。

 するとそこに足音が迫りくる。リズミカルでない不規則的な振動は明らかに部屋の前で止まったのだ。

 緊張感をあらわにした阿部は急いでベッドのシーツに潜り込んだ。このままではまずいような気がしたのだ。

 「どうせ、あの人よ。部屋に入ったことは一度もないわ」

 萌絵の予想を裏切りドアは開かれた。


 「さあ、俺の部屋は廊下の最初の角、手前の部屋だ…。え~と、扉が3つ目の階段の左の部屋」

 「部屋番号はないの?」

 「そんなしゃれたものはない。俺は救急箱持ってくるから先に入っていて」

下宿していると聞いていたが、どんなところに泊っているかまでは想像がつかなかった。

 ジムの先に確かに廊下があって、少し抜けたところに部屋が並んでいるのが分かった。

 阿部に教わった通り、階段のすぐ隣には部屋があり、その場所のドアは確かに3つ目だった。ドアのあたりを注意して見ても確かに部屋番号らしきものも、名前も掲げられていないのだ。

 不便を感じつつ、萌絵は恐る恐るドアを開いてみた。

 中は二段ベッドと机だけのシンプルな造りで古臭い木造の香りが漂っている。部屋の電気をつけてみた。

 第一印象としては悪くなかった。これぐらいのこじんまりとした部屋にあこがれていた部分もあったので、気分は決して悪いものではない。

 阿部が俊久を殴った直後、二人は逃げるようにして家を出た。父親の存在について思い知らされたことによる。また阿部の助言もあった。

 「嫌な親父となぜ一緒に住む?」

 阿部の意見はもっともだとして思い切ってついて来たのだ。

 一息ついてとりあえず机の横で壁に寄りかかり膝を抱えて座った。机上の置時計は12時を過ぎていた。

 心細さはあったが、阿部力男を少しは信用できる男子としての認識は十分だった。彼がいるのならどこでだって生きていけるような気がしていた。

 ふと時計を見てみるといつの間にか20分が過ぎていた。いつの間にかうとうととしていたらしい。それにしても阿部の姿がない。救急箱を探すのに戸惑っているにしても遅すぎる気がした。

 萌絵は部屋を出た。もしかしたらケガで動けなくなっているのではないかと思ったのだ。

 土地勘ならぬ、部屋勘のない彼女はひとまず歩いて来た道を引き返すことにした。廊下はうす暗く外からの明かりだけが頼りだった。

 すると廊下の向こう側から明かりが漏れている部屋を見つけた。引き戸はすりガラスで明らかに電気が点いてた。

 ここにいるに違いない。そう思った萌絵はゆっくりとその戸を引いてみた。

 中から思いがけない光景が目に飛び込んできた。

 倒れている女性の足が見えたのだ。それを佇み見ていた二人の影がこちらに振り返る。

 阿部ともう一人知らないおじさんが立っていたのだ。そのおじさんこそがここのオーナーの敷島洋次だということは後から知った。

 「誰だ?」

 敷島が萌絵の気配に気が付くとすぐさま警戒した。

 「私は…」

 「俺が連れてきた」

 慌てふためく萌絵をかばうように阿部がそれに答えた。

 「女連れ込むとはいい度胸だ」

 「待ってくれ、彼女にも事情が…」

 「それより、彼女は?倒れているみたいですけど…」

 二人の会話を遮るようにして口をはさんだ萌絵だったが、その異常性に気が付き思わず息をのんだ。よく見ると女性の頭を中心にして血の池ができていたのだ。頭を大きくケガしたことは一目でわかった。

 「救急車!」周りを見回し電話機を探した。そしてこの時その部屋がキッチンだということに気が付いた。

 「余計なことするな」

 敷島は怒声を浴びせた。

 「なぜですか?このままじゃ、彼女死んじゃいます」萌絵は果敢にも正論を振りかざした。

 「もう遅い。そいつは死んだ」

 萌絵は絶句した。そこに倒れている人物が遺体であるという事実に遺体から醸す不気味さを感じずにはいられなかった。

 「こいつがやったんだとさ」と阿部を顎で示して言った。

 「どうして?」

 阿部はぎこちなくポケットから何かを取り出すと食卓台の上に投げ置いた。それは写真だった。

 「まさか…」

 テーブルの写真の束が自宅のベッドに並べたそれを連想させた。

 だが、複数枚の写真の被写体はまちまちだった。目の前のおじさんだったり、阿部だったりしている。他にも車の写真やこのボクシングジムの写真、生徒たちと様々だった。

 「こいつは俺たちを付け回していたらしい」

 「この人だれなの?」

 「元カノだ」

 驚愕の事実に萌絵は身震いした。数か月間付け回していたストーカー犯がまさかこんな形で終焉するとは思っていなかった。

 「お嬢ちゃん、関わったからには手伝ってもらうよ」

 「いったい何を?」

 萌絵は恐怖で震えた。

 「小僧、ごみ袋持ってこい」

 阿部は指示のままに無言で動き始めた。

 「お嬢ちゃん、この子の服を脱がせてくれ」

 「え…?」

 「聞こえなかったか?服を脱がせるんだ」

 敷島の口調は明らかに厳しいものになっていた。それは拒否を一切認めない威圧的なものだった。

 真っ裸になった彼女は化粧っ気がない。年齢は自分と変わらないように見えた。

 世の男性にとってはあられもない彼女の姿に心奪われるかもしれないが、胸を一突きにした傷口が何とも痛ましい。もはや彼女はそんな性的対象からかけ離れた肉塊にすぎないのだ。

 萌絵は込み上げてくる吐き気を抑えて敷島の指示に従った。それから10分かけてようやく、三人で丸裸の遺体を袋に詰め込み、車のトランクに押し込んだ。

 他の寮生はいないのかというぐらいに寮内は静かだった。

 「早く乗れ!」

 敷島に言われるがままに萌絵は後部座席に乗り込んだ。泣き言は言っていられない。逃げることもできたはずだが、その思考はとっくに消えていた。

 3時間以上を揺られ、やっとのことでたどり着いた山中で穴を掘る。雨が降っていようが中止を宣言する者はいない。

 こいつはストーカー犯だ。そう自分に言い聞かせ、無心で女を埋める。

 存在してはいけないはずの歯車は本来の形を大きくゆがめ始めていた。そしてすでに歯車は必然的となり、常態化を保持しつつある。

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