CASE.2-06

 昼食会議を終えた二人は再び戸崎熱鐵工に向かうべく、車を降りた。外は相変わらず太陽の光が殺人的に肌を焦がす。

 熱気と湿気の外気にさらされ二人とも思わず悲鳴を上げた。

 「こんな暑い日に事件を起こさないでほしいよ」

 「こちらの都合を気遣うぐらいなら事件なんて起きていないわ」

 「それもそうだね」

 (文句をぶつけたい気持ちは事件の張本人に残しておこう)

 などと智沙は流れる汗をぬぐいながら歩を進めた。

 碓井らの情報によれば、戸崎熱鐵工には立花の部下であった男が転職しているという。しかし、一度訪れた際にはそのような話は一切話に上がらなかった。仮にも元下請けとしてサカキと関係があったのだから、そこから出向してきた人物を話題に登場させないのは不自然というものではないか。

 「大友って男だけど、今日出勤していると思う?」

 「何?また勝負するの?」

 「まさか。もうしないよ」

 おどけて手にしていた扇子を閉じた。

 「ただ、騒ぎが大きくなることはわかっていたはずだから、きっと来ていないんじゃないかって思ったんだよ」と扇子を差し出した。

 智沙はありがたく扇子を手に取った。

 「憶測から言うといないと思うわ」

 「そうだろ。だから思うんだよ。君一人でも十分じゃないかって。僕は必要ないんじゃないのかい」

 仰ぐ手を止めた。

 「さっきからそうだけどさ、どうしてそんなに一人になりたいの?」

 智沙は耐えきれずに言葉を荒らげた。

 「そんなに怒らないでよ」

 とても穏やかで、弱腰でいて、社交的かつ友好的なものの言い方はもはや挑発的と思われても仕方ない。

 「そんなにこの事件に興味が持てないの?」

 「そんなつもりはないよ。僕だってできるだけ早い事件の解決を望んでいるよ」

 「じゃあ、一人になると何か見つけられるって言いたいわけね」

 渕上は考え込むように黙った。次の一言を考えあぐねているようだった。

 「もう、さっさと大友を探して、事件解決に努めましょう」

 怒りをぐっとこらえ、智沙は前向きを心掛けた。彼女なりの仕事に対するポリシーみたいなものだった。

 「ほんの3分もあれば解決の糸口が見つかるかもしれないんだ」

 前を行く智沙に渕上は意を決した。これが渕上が出した答えであった。

 「いいわ。戸崎熱鐵工が終わったら3分と言わず、1時間ぐらい上げる。きっと真鍋さんもあなたのやり方に従っているのでしょうね」

 「本当にごめん」

 振り向くと渕上は頭を下げていた。渕上なりの反省だった。

 「僕のやり方や考え方に君はきっとたくさん我慢していたんだろうね。でも決して君たちを馬鹿にしたり、無下にしたりするつもりはないんだ。もしそう感じていたんなら本当にこの通りだ」

 「そんなに追い詰めることないわ」

 「今まで誰かと組んで行動していなかったから、僕も戸惑っているだけなんだ」

 「真鍋さんは?」

 「僕らは単独行動が基本だから干渉はほとんどないよ。班なんて名目だけのものだったから僕には新鮮で…つい気を悪くさせたかもしれない」

 当の真鍋はいまだに現場に現れていない。極秘の実験をしている犬養班にとっては好都合だが、一応管理側のものとしてこれはいささか問題があるように思える。

今回の事件でも、渕上と桑原は真鍋班長の不在は日常茶飯事として、彼らなりに仕事に取り掛かるべく準備をしていたところであった。

 犬養班と真鍋班の合同捜査をすると嘘の提案を信じた桑原はある秘密を暴露した。

 「実は口外禁止なんですけど、真鍋さんなら、大体、僕らの事件解決の判断材料が固まったという情報が入るまでは現場には来ないことがほとんどなんですよ」と声を潜ませた。

 桑原なりに嫌気がさしていただろうことが口調から感じ取れた。

 今までの待遇を思えば渕上の要望も仕方のないことかもしれない。

 智沙は考えを改めたのだった。

 「絶対に成果につながる証拠品なり、推察だったりの成果を上げて見せるよ」

 渕上は自信にあふれた表情をした。


 「どうかした?」と智沙は慌てて電話に出た。

 電話先の碓井からかすかながら動揺が感じられ、胸騒ぎが伝播した。

 「先ほど立花のアパートに到着したわけですが、すでに亡くなっているところを発見しました」

 「そんな…」予想していた最悪の事態に言葉を詰まらせた。

 「首吊り自殺のようです。テーブルの上に遺書らしきものも置いてありました」

 「自殺が続いたわけね…」

 智沙は小声を努めた。実は今、身を潜めているのだ。

 「はい。詳しいことが分かり次第、また連絡します」

 そうとだけ伝えると碓井は電話を切った。

 智沙が極端に口足らずの小声であったことを碓井は察したのかもしれない。彼女もまた簡潔な報告に努めたのは明らかだった。

 地上の暑さに比べると、ここはほんの少し、気持ち程度に涼やかだった。地上の無風と照り返すアスファルトの熱が熱気を際立たせていることは身をもって実感できた。

 第二恒産ビルの屋上で智沙は身を潜めていた。

 屋上には自動販売機が2台とベンチ、貯水槽、物置小屋一棟が定置してある。物置小屋周辺はお世辞にもきれいとは言えない。さびれた大型機械やブルーシートで覆われた運動器具が乱雑に置かれていた。腰ぐらいの高さのフェンスが周囲を覆っていたが、その一隅に赤の三角コーンとポールで囲われた箇所があった。

 渕上はその前に立つと何やらじっと足元を見つめていた。

 智沙は屋上入り口すぐわきのブルーシートの裏で腰をかがめて身を預けていた。

 戸崎熱鐵工での聴取を終えた後、約束通り智沙は別行動を許可したのだ。渕上は足早に屋上に向かった。それを智沙は気づかれないようにそっと追ったのだ。

 当然、これでは約束を守ることにはならないが、極秘任務は別である。初めから、極秘任務の遂行上やむを得ない建前というものだと割り切っていた。だが、極秘任務とはただの名ばかりのものにすぎない。そもそも正式な任務などではない。組織を思っての任務であると自ら申し出たものなのだから。少なくとも豊坂本部長は渕上直夜のスカウトされた経緯も警察上層部との関係性も隠れた才能も気にしていなかった。どのような経緯で所属したかにせよ、どのような思想の持ち主であるかにせよ、成果は十分に出ている。今更とがめる気はなかったのだ。

 今や智沙にとってこの極秘任務はすでにただの興味本位でしかなかった。渕上という男の素性をただ知りたかった。空き巣偽装事件の解決につながった証拠品の出現、できすぎた偶然、それだけはどうしても自分には納得できなかった。

 渕上という男は何かが違う。不思議と智沙の第六感はそう反応している。

 忍び足で屋上へ向かう階段を上がった先に渕上の姿が見えた。ただ休憩していた。

 (やはりただ怠けたいだけなのだろうか?)

 そう思ったのもつかの間であった。

 ほんの一瞬だが目の前を暗闇が襲った。視力、光を失う意味での失明とは違う、目に映る光景が脳へ行き届かないような症状、めまいに近いものだった。本当につかの間の、一瞬の出来事であった。本人の感覚としては一瞬の違和感程度のものだった。

 その一瞬のあと、渕上は立ち上がると現在の状態、三角コーンの囲いの前ちょうどベンチからまっすぐ向かい側まで来ると、じっと沈黙したのだ。それから碓井からの電話が来てから1分と経っていない。

 あまりにもぼんやりとしている渕上にしびれを切らして智沙は隠れることをやめた。

 (私も何をやっているんだろう?)と我に返った気分だった。

 「ねえ、何かわかったの?」

 渕上の右横から声をかけた。きっとぼんやりしている者にはどっきりさせるような唐突な声掛けだったはずだ。

 智沙の声掛けはむなしく地上のエンジン音に吸い込まれたかのように吸い込まれ、反応が返ってこなかった。

 「そう、だんまりね」

 二言目にも言葉は返ってこなかった。

 智沙はきっと渕上の背中を見据えては、大股に近づくと、右腕を一振りし渕上を正面から掴みかかるようにして投げおろした。右腕が右脇から相手の左方にかかるような状態で、これを食らった相手はバランスを失う。

 そのはずだったが、渕上は微動だにしなかった。相手の体幹を甘く見ていた。初めのうちは不覚にも思ったのだが、そうではなかった。

 「あんた誰?」

 決して返ってくるはずはない質問を投げかけていた。

 今掴みかかっている男は渕上ではない。背格好こそ先ほどまで見張っていた男そのものであっても、そこには生き物としての存在感は全くなかった。そう、実在してはいるものの、存在はしていない。まるで幻像であるかのようだった。

 腕を離した智沙は本能的に体を引いた。

 渕上とされたはずのそれの足元に黒い影が蠢いているのが見えたのだ。

 足を中心に小さな影がどんどんと大きく広がっていき、やがて人が入るには十分の大きさにまで成長した。

 智沙はおののき後ずさりした。得体のしれないそれをどうするべきか、自分には見当がつかない。

 (これは幻覚でだ)と自分に言い聞かせ静かに後ろ背にして下がっていった。ベンチまで下がると勢いのままに腰を下ろしてしまう。

 落ち着くべく何度も深呼吸を試みた。手の震えは一向に収まらない。

 これほどの恐怖を経験したのは二度目であった。その一度目とは言うまでもなく都心事件、日本国内最大の事件の渦中にいたことだ。手の震え以上に思考力、判断力が欠けるほどの恐怖であった。この経験に比べるとそこまでではなかったが、不意を突かれたことで、その振り幅は大きいものであった。

 腰を抜かした智沙はベンチに据えられた生け花のように不釣り合いな存在となり下がっていることに自覚できていない。黒い影を呆然と眺めている。そう自覚しているつもりだった。

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