CASE.2-07

 「こっちへ」

 不意にかけられた声で智沙は我に返った。声の主はすぐに誰のものかは理解できた。

 「早く」

 視界がぼやけていたが、感覚のずれは瞬時的に分かった。

 「今、何時?」

 つい先ほど屋上にたどり着いてそれほど時間は経っていないはずなのだ。時間の認識に大きな開きがある。智沙は眠っていたのか、気を失っていたのだと結論付けた。

 いつしか刺すような太陽の日差しはなく、夜が天を占めていた。

 (あれは夢だったの?)

 自分はこのベンチに座ってから幻覚を見ていたのではないか。そう考えてみたが、順番的にあり得ない。影の恐怖に抱いたからこそこうしてベンチに腰掛けたはずなのだから。

 「9時10分ぐらいだ」渕上は腕時計を見ずに答えた。

 智沙は渕上をぼんやりと見るとハッとしたようにその身を引かせた。

 「あんた誰よ?」

 渕上はため息をついて電子ボードを見せた。それは職務身分証明を示す電子証明記録であった。そのようなものを今更見せつけられても智沙にとっては意味が違う。捜査上の手続きの一環にすぎない行為である。

 「あんた人間なのかって訊いているの」

 「僕が何に見えるんだ?」

 「わからない」

 「わからないって、どういうつもりだよ。君の方こそどうしてここにいる。こんな事態は初めてだ」

 智沙には当然ながら相手が何を言っているのかわかっていない。ただベンチに座って時を過ごしていたのかもしれないこと以外に、結局何もわからないのだ。問いただしたいのはこちらのほうなのだ。

 「とにかく時間がない。急いで、こっちへ」

 「ちょっと」

 智沙は抵抗する間もなく渕上に手首をつかまると引っ張り上げられた。不思議と まったく力が入らなく、無防備と言ってもいいほどであった。

 何処へ連れて行くのだろうなどと考える間もなく、座るように促された。

 「どうしてここ?」

 感覚的にはつい数分前に身を潜めていたガラクタ置き場であった。ただ、ガラクタの位置に違和感を覚えた。一人の時に身を隠したはずのブルーシートがない。さっきは確かにブルーシートの陰に隠れて渕上を観察していた。

 「これを使おう」

 渕上は一つのエアロバイクにブルーシートをかぶせた。

 「さあ、この後ろに」さっきまでの自分の姿と重なった。

 「いったい何があるっていうの?」

 「時間通りならこれから東郷がやってくるはずだ」

 「東郷会長?」

 渕上の言葉は意味不明であった。まさか、自殺した東郷会長の遺族でもやってくるというのだろうか?言葉の真意に頭を抱えた。

 「君は本当に犬養さんだよね」渕上はまっすぐと智沙に問うた。

 その瞳に智沙は不安感をあおられた。率直に肯定できない自分がわからなかった。つい先ほどまでの自分が信用できない。目を疑う事態は言葉通り、己を疑った。職務中の居眠りなどもってのほかだ。

 ふと、心細さに泣きそうになった。

 「犬養班長、僕との勝負はどちらが勝ったか覚えている?」とこの期に及んでおかしなことを訊いた。

 「私」

 「安心して。帰れるから」

 渕上は電子ボードを取り出すと画面を注視した。

 「倉さんたちは大丈夫かしら」と電話を取り出した。確認すると着信は碓井からの連絡14:33以来連絡は来ていない。

 「ちょっと、あまり声を上げないでよ。もうすぐ来るはずだから」

 「もうすぐって…?」

 智沙は目を疑った。疑った目を再三疑っても、もう疑いきれない。時刻は《14:38》を示していた。電話上の画面だけではない。腕時計も同時刻を示していた。

 「今、9時って言ったよね」

 「そうさ、もうすぐ例の時刻だ」と渕上は智沙に画面を見せた。

 画面は監視カメラの映像だった。二つ割の映像が映し出さされていた。一つはベンチ側からのもので、自動販売機の上あたりだろう。画面したが明るい。そしてもう一つがこちら側、つまり倉庫側からのものだ。渕上は何かを撮ろうとしていた。

 目をきょろきょろしていると渕上は画面の右上の隅を指した。

 《21:19》

 なんだ、ただ単に時計がズレているだけか。単純なミス、デジタルの不具合か。どこかで予感していたある仮説が脳裏を支配していたせいで、そんな小さな錯誤にも敏感になっていたのだ。騒ぎ立てそうになった自分が愚かではないかと思ったつかの間、事件が起きた。

 ドスンという鈍い音の後、女性の悲鳴が聞こえてきたのだ。

 智沙と渕上はお互い顔を見合わせると騒ぎとなっている方角へ走り出した。

 地面に男性が倒れていた。

 「大変、救急車」

 智沙は慌ててポケットを探った。だが、あるはずの携帯電話がなかった。

 ついさっきブルーシートの裏に置いてきたのだ。とっさに身を翻し元居た場所に戻ろうとしたが、渕上に腕をつかまれた。

 「何するの?」怒りより困惑が滲んでいた。

 「あの人が連絡しているから僕らの出る幕ではないよ」

 目線の先で女性が倒れた男性に声掛けしていた。

 「先に一報入れるべきよ。私のほうが早いわ」

 「変な意地は張らない。おそらく救急連絡は彼女の仕事だ。僕らが介入するべきではない」そういった渕上は何処か悲しげであった。

 かと思うと突然渕上は身を引かせて、

 「やばい。目が合ったかもしれない」と動揺していた。

 智沙も連鎖的に身を引いては再び地上を見下ろした。救急連絡をしている女性の周りには多くの人でにぎわいつつあった。倒れた男性の様子は暗くて見えなかったが、すでにぐったりとして反応がないようだった。数名の男たちが必死に心肺措置を施しており、辺りは騒然としている。

 「なんで死んだ?いや、どうやって死んだ?」

 渕上は姿勢を低くし、なるべく地上から目立たないようにして騒然としている現場を見下ろして言った。

 「どこから飛び降りた?事件の発生時刻は間違えていないはず。そもそもなんで君がここにいる?」と言うと訝し気に智沙を見た。

 「それは…」

 自分が居眠りしていたことは弁明の余地はない。そもそも居眠りしていたという説も怪しい。得体のしれない人型、蠢く影その時点から相手には説明が難しい。

 智沙は言い淀んでいると階段を上がってくる足音が聞こえてきた。無意識の足音だろう。やけにドタドタと音が響く。

 智沙は何気なく階段口を見ていた。騒然とした中での屋上への訪問者だ、きっと野次馬か何かだろう。そう思っていたが、再度渕上に引っ張られブルーシートの裏に連れていかれた。

 「僕たちはここに存在してはいけない。わかっているよね」

 「いったい何言っているの?」

 (また何か冗談でも言いているのだ、渕上は悪い冗談で私を翻弄しているのだ)これは智沙にとって最終的なオチである。そうでもないと自分の精神を置く居場所がない。

 渕上は口元に指をあて「シー」と子供に言い聞かせるように無言で示した。

 一人のスーツ姿の男がドシドシとこれまた大きな足音で歩いていた。片手に何やら添えていた。

 智沙も思わず唾をも飲み込んで食い入るように男の様子を見つめた。

 男は事件のあった、騒ぎになっている側面のフェンスを一瞥すると、そこから下を見下ろした。時間にしてたった3秒程度だろう。何かを確認するには十分な時間だったようで、フェンスから離れると片膝をつき、手にした何かを置いた。そして上着の裏ポケットから封筒を取り出すと置いた何かの下に滑り込ませるようにして隙間に収めたのだった。

 一連の行為を終えた男はもと来た通りに階段口へと向かって歩き出した。足音は変わらずドンドンと重たい足取りだったが、突然何を思ったのか、その場に立ち止まった。

 直後である。緊張感に包まれた空間にガタンと少し大きな音が響いた。音の主はまぎれもなく渕上である。緊張感から手元のスプレー缶を倒した音だった。

 渕上は慌ててポケットにあったビニール袋を風に乗せた。

 男の側からはうす暗いガラクタ置き場からビニール袋が風に舞い、スプレー缶がコロコロと転がって見えただけである。

 男も音に驚いたようだが、騒ぎ立てる気はないらしい。

 智沙は今にも飛び出しそうな心臓の鼓動を抑え、男が去っていくのを待った。

 だが、男はしぶとかった。そのまま階段を下りればよいものを今度は自動販売機のほうに足を運んだ。

 このまま屋上の全体を歩き回り安全を確認しようとでもいうのだろうか?

 二人の心配は的を外れた。

 男は単に飲料水を所望しただけであった。音の様子から、2つ買ったことが分かった。

 何にせよ、男はその足取りのまま階段を下りて行った。

 二人は深い深呼吸をすると、急いで何をしたのか確認した。

 そこには封筒を踏みつけるように黒い革靴が置かれていた。

 そう、まるで「自殺現場の再現」

 智沙はつぶやいた。

 「そうか、どうりで来ないわけだ。別の階から飛び降りたのだからこの場に現れないわけだ」

 渕上ののんきな推理を蹴散らすようにして智沙は走り出した。どうしても解決しなければならない問題がある。

 「どこに?」

 息の詰まる空間が時間の感覚を麻痺させていたのだと冷静に受け止めた。男が屋上を離れてからそれほど時間は経っていない。今すぐ動けば追いつくはずだと。

 思い立った彼女を渕上にはすでに止めることはできない。

 屋上から4階までは階段のみだが、それ以降はエレベータが完備している。エレベータを待つ時間が惜しい。一段飛ばしで階段を駆け下りた。

 屋上までやってきて、前日の自殺現場を再現した男の正体を知る必要がある。ここで男の正体を知っておかなければならない。なぜか智沙の脳裏には責任感の裏で見え隠れする虚無感がよぎる。

 2階から1階の間、何者かが階段を下りているのが見えた。

 すぐさま智沙は「待て」と大声をかけ、制止を促した。

 だが、その者は逃げるようにして階段を駆け下りた。見れば細身の男が懸命に息を切らして走っているのである。

 智沙も負けじとその姿を追いかけた。

 男はビルの裏口に向かった。その先は駐車場から抜ける表通りへとつながる。自殺現場の通りとは反対側の通りである。

 こちら側の通りはほとんど人気がなく二つの足音だけが大きく響いた。

 「どうして逃げるの!」

 智沙のすさまじいタックルに男は顔面から押し倒された。スタミナで智沙は男に勝った。

 男は息を絶え絶えと呼吸が荒い。男の体力負けと言ってもいいかもしれなかった。

 「どうして…は……こっちの…言葉だ…」

 「逃げるからよ」

 逃げるから追う。つまり逃げるものを追わないと気が済まない、これは彼ら捜査官の単純な先天的本能なのだろうか。それとも逃げるものを追うべしという訓練からの後天的習慣からのものなのだろうか。どちらとしても智沙も例外なくその機能が染みついていた。

 「そんなの…当り前だ。上の階から…ものすごい…音を立てて降りてくる女に、わかりました、って抵抗しないほうがおかしいだろ」

 若干落ち着いた様子の男は呼吸を整え始めた。肩で呼吸をやめないのはこの男の特徴だろう。

 それにしても男の言い分はもっともだと、少し反省した智沙だった。この男はどう見てもついさっき屋上に現れた男とは体格的に似つかない。

 とっさに拘束を解くため腕を離すと、手を差し伸べた。

 男はその手をやんわりと拒絶すると腰を下ろしたまま立ち上がろうとしなかった。

 「申し訳ありませんでした。実はあの事件の捜査で人を探していまして」と昔ながらの捜査員証明章を提示した。

 男は見せつけられた証明章を見てポカンとしていた。

 男がポカンとした理由は何の事件のことかを具体的に示していないからだと思った智沙は仕方なく両膝を合わせてしゃがむと、表通りの方角を示した。

 「事件というのは知っての通り飛び降りの件なんですが…」

 今も表通りでは人が数名群がっているのが見える。表と裏とでは騒がしさに大きな差があった。

 「なんでまた?」

 男は相変わらず目がテンになっていた。これが智沙にはたまらなく不振に思えた。鈍感を通り過ぎてわざと目をそらしているような確信的な態度にとれた。

 「いい、あなたはあのビルにいた。ビルの関係者なら飛び降りた男性と面識があっても不思議ではないでしょう。たまらずビルを飛び出したとあればこっちも話を聞かないわけにはいかない。どうかわかってください」

 「なんで二度も私を詰問するのか聞いているんです」

 男の言った「また」とは智沙の理解した意味とは違うものだった。だが、この状況で再びという意味の「また」であると理解するほうが難問ではないだろうか?

 「私はあなたと初対面ですよ。なぜそんなおかしなことを訊くのです?」

 「どうかしているよ。もしかして二重人格か?」

 その問いに自信をもって否定できない自分が情けなかった。人格どころか性格、存在じたい怪しい。お昼以降どうも自分の感覚がぶれているとしか思えないことが続いている。

 「覚えていないみたいだから、言うけど、俺をあの場から引き離したのはお姉さんだよ。ものすごい勢いで階段を追いかけるから気でも変わったのかと思ったが、そうか、記憶がないってことはやっぱり二重人格もありえるなあ」

 (会っている?引き離す?)

 智沙は男の言っていることを全く理解できていなかった。まさに目がテン、ポカンと茫然自失なのは自分のほうであった。

 (ひょっとするとひょっとするかも)と二重人格説を受け入れつつもあった。

 お昼からこの時間まで記憶が全くないのはそれで説明がつく。その前に遭遇した渕上の皮をかぶった奇妙な物体も、足から延びる黒い影も多重人格により引き起こした脳の障害ということならば説明が付きそうだ。

 「お姉さん、確かイヌなんとかさんだっけ。大丈夫?本当に病院を紹介しようか?俺の父がかかりつけにしている総合病院なら紹介してあげられそうだけど」

 男は案外優しい面があるようだった。本気で心配してみてくれているようだった。口だけではない、心に訴えかけるような、不思議な力を感じるのだ。

 「といっても、父は精神科にかかっていたわけではないから、そこは保証できないけど…。お姉さん若いみたいだからさ、もしかしたらそういうの抵抗あるかもしれないけど、若いからこそ体を大切にしないとさ…」

 智沙は男の叱咤に落ち着きを取り戻した。聞きようによっては馬鹿にされている、皮肉に貶されているようにも思えるが、それが気づかいであることは何となくわかっていた。

 「あなたは誰なんですか?」

 顔を上げて男の顔を真剣に見据えた。

 視線を向けられたその男は瞬き一つせず智沙を見入っていた。まるで蛇に睨まれたカエル、心を奪われたように固まった。それは熱視線というものであった。

 男勝りの性格の性分であまり女性として見られない場面が多少あった。特にこの管轄地に転属してからは地位も上がったせいか顕著だった。碓井さやかをうらやましく思うこともよくある。テキパキこなす彼女は少し前の自分に似たところがある。しかし容姿だろうか、魅力だろうか、細部に至る仕草というものなのだろうか、どこか自分とは違って女子力があふれている。そんな碓井を最もかわいがっているのは智沙自身だと自負しているし、何より碓井もそんな上司を慕っている。

 智沙は気が付いていなかった。彼女自身が醸し出す魅力の強さに。女性である碓井でもその魅力に魅了されてしまうことがあった。それが顕著に表れるときこそが相手をじっと見据えた瞬間である。この熱視線を向けられた人は無自覚に魅了されてしまうのだ。

 「二夜続いた飛び降り事件に関与していませんか?」

 「知らない。二夜というのも初耳だ」男はぎこちなく答えた。

 智沙は視線を外し、ため息をついた。

 「昨日の事件ですよ。サカキグループの会長がお亡くなりになった事件です。ビルの関係者なら話ぐらいは知っているのではありませんか?」

 男の顔が明らかにひきつっていた。生唾を飲み込むと智沙の耳元に口を近づけた。

 何かを伝えたいのだと男の声に集中した。

 「……」

 「え?」智沙は思わず男を見た。確かに聞こえたその内容に目を丸くしていた。

 「つまりあなたは…」と問い詰めようとしたかった時である。

 腹部に鈍い衝撃が走った。そして間髪入れずに今度は頭に強烈な痛みを覚えた。

何者かが智沙の腹部を蹴り、頭を殴ったのだ。

 激痛に耐えきれずその場にうずくまった智沙は加害者の姿をとらえようとしたが、もうろうとする意識の中でしっかりと首が上がらない。視界がぼやけて見える。

 閑散たる通りの一隅でオレンジ色の電灯が彼女を照らしていた。

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