CASE.2-13
目が覚めた渕上の鼻腔には甘い香りが漂ってきた。見慣れないベッドの感触と香りは心地よさを感じた。だが、すぐ後には全身の痛みが伝って心地どころではない。
「起きたの?」
智沙は心配そうに渕上の目を見た。一応、昨夜慣れない作業に四苦八苦しながらも軽い処置だけは施してみたのだ。見える部分には湿布薬や絆創膏、包帯などでごまかした気分だった。不格好な自分の出来に苦笑してしまう。
「今日は何日?」
「心配しないで、昨日から一日しか経っていないから。今日は…7月7日ね。七夕か~」
渕上ははっとしてベッドから起き上がろうとした。だが、うまく状態を起こせずにその場でよろめいた。
「ちょっと」と智沙はすかさず渕上をサポートした。
「迷惑かけたみたいだ」
「そんな、言わないでちょうだい。こっちだって抵抗あるんだから」
智沙は今更ながら自分のパジャマ姿を意識した。職場のクールさから想像つかない、かわいらしいパジャマを愛用しているなどと思われるのは恥ずかしい。
智沙はふと両腕を前でクロスさせ自分の肩をつかんだ。
「ベッド借りてしまったみたいだ。もしかしてソファーで寝たの?」
「ええ」とぎこちない返事した。
「本当にごめん。あとでお礼しないと」
智沙は冷蔵庫で冷やしていたアイスティーを注いだ。
「お礼はいいけど、訳を聞かせて。どうして道の真ん中で倒れていたの?」
パジャマ姿ではあったが、実は昨日から心配で眠れていなかった。長い一日の出来事があまりにも濃縮されていて、脳の興奮が冷めやらなかったのだ。
「これから出勤だよね」
「ええ、あなたはどうするの?」
智沙は継いだ紅茶のカップを渕上に渡した。
「僕は行かない」渕上はきっぱりと言った。
「その怪我ですもの、病院に入ってもらわないと」
「必要ないよ。僕は君に言うことがあってこっちに来ただけだから」渕上は一つ一つの傷の位置に触れながら感触を確かめながら続けた。
「僕の能力を知っている君だからこそ言える。僕はこの時の僕ではない」
紅茶を口に含ませた智沙は頭をひねって理解に苦しむ仕草を見せた。
「つまり、僕は君にとって未来の僕なんだ」
智沙はむせこんでしまった。
「大丈夫?」渕上は他人事のように訊いた。
抱いた違和感は服装だ。昨夜、警察署本部で別れた時と今のシャツの柄が違った。血が付いたシャツは昨日の無地ではなく、うっすらとストライプが入っている。
「なんで私を巻き込むの?昨日言っていたじゃない。過去には干渉しないって」
「緊急事態だよ。昨日の僕、つまりこの場合は君にとっての昨日の僕はそう言った。けど、ことは重大なんだ。どうしても君に伝えなければならないんだ」
普段へらへらしている渕上から真剣さがにじみ出ていた。それだけことは大切であるということを智沙は感じ取った。
「いいかな?僕がこの時代に来たことは絶対にいまの僕には悟られないでほしい。もし僕がこの過去に来たと知ったらまた別の作用が働く可能性が出てきてしまう」
「混乱してきた」智沙は正直だった。
「つまり、こういうこと?今、現在あなたは2人いて、あなたではないあなたには話すなってこと?」
「理解力が早くて助かるよ。君が協力者でよかった」
そう面と向かって褒められると智沙も照れてしまい顔を背けずにはいられなかった。再び紅茶をすすって気を紛らわせようと努めた。
「単刀直入に言う。今日君は死ぬ」
「私死ぬの?」智沙は思わず聞き返した。言葉の響きをなぞらえただけで、言葉の意味を認識していない。自分でも何を訊き返したのかわかっていなかった。
「そう、だから絶対に犯人逮捕の前は銃を携行しないこと」
「え?私今日死ぬの?」智沙はじわじわと恐怖と覚え始めた。得体のしれない未来に対する恐怖だった。これはまさに未来からの悪い予言というものである。
「聞いて、絶対に銃は持って歩かないこと、そして行動する者たちの銃の携行も控えた方がいい。とにかく現場には銃がなければいい」
「銃?普段から持ち歩かないわ」
「でも、あの日の君は君の所持していた拳銃によって殺された。携行しなければならない理由でもあったのだろうさ」
携行しなければならない理由などあるのだろうか?少なくとも聞いてしまえば簡単な選択肢である。
智沙は肩の力を抜くと、食事をベッドまで運んだ。
「僕はいいよ」
「食べて。せっかく二人分作ったのだから」
トーストとコーンスープ、目玉焼きでもと思ったが卵が切れていたので、焼いたベーコンがテーブルに並べられていった。
「きっと僕は消えるから」
「消える?」
「ああ、気にしないで、やっぱりいただくよ。美人の作った食事なんて、そうありつけないだろうから。ちょっと遠慮しただけだよ。でもせっかく作ってくれたものを断るのは紳士としてあるまじきものだしね」
(照れているの?)
智沙はさして渕上の一言を気にしなかった。久しぶりのだれかとの朝食は少しぎこちなく、不思議を含めたものとなった。
「さっき犯人逮捕って言ったけど、今のサカキ事件のことよね」とスープをすすりながら訊いた。
「そう、犯人は…」
「言っちゃうの?そこはもっと、じらしたりとか、考えさせるとか、ヒントを渡すとかで、なかなか教えてくれないものじゃあ…」
智沙は自分で言って訳が分からなくなった。なぜかセオリーや演出というものを気にしているのだ。
「面倒だよ。こんな事件なんかさっさと終わらせてしまった方が効率的じゃないか?」と紅茶をすすりながら答えた。
渕上の言い分はもっともだ。犯人の目星がついていない今、犯人特定の手助けになるのならそれだけで十分時間短縮になる。
「わかるけど、なんか悔しい。未来から来たあなたから謎を教えてもらえるのなら、今まで調査したことって、とっても無意味に思えてくる」
「寺浜龍悟」
口惜しさも何もなく渕上は名前を挙げた。
智沙はその名前が誰だか分らなかった。資料となる電子ボードは手元にない。
「わからない?サカキの幹部」
「そう言われても、会社にはいっていないから…」
智沙の悔しんだ顔や驚く顔を想像しいていた渕上は残念がった。
「誰のことだかさっぱり。どうしてその人が犯人だってわかったの?」
「さあ、そこまでは知らない」
「どうして?未来から来たのならわかるでしょう。現場にいなかったの?」
「僕が知っているのは寺浜を逮捕しようって時に君が何者かに殺されたってことだけ。それで、僕は急いで前日に戻っただけだから…」
聞いていておかしなことばかりで智沙は今一つ理解に苦しんだ。
「待って、まず私を殺したのは誰?」
「わからない」
「なんであなたがボロボロなの?」
「昨日の夜に襲われた」
「誰に?事件に関係あるの?」
「事件との関係はわからない。昨日老人が僕を襲ったってことだけはわかる」ひりひりするのだろう、目元の傷を揉みながら言った。
智沙は聞き返したかえそうとした。
「わかるよ。老人にケガさせられて情けないって言いたいのだろ」と渕上に先を読まれた。
「見た目が老人だったから手を出すのをためらうだろ。それに老人と言ってもとんでもない力だった。あれは僕を本気で殺そうとしていた。幸いにも車のヘッドライトで助けられた。君の車だよ」
聞きながら智沙は昨日の出来事を思い出した。
あの場で渕上を救ったことは自分にもつながる重要な出来事だったのではないかとも思えてきた。もし渕上を見つけることができなければ今の情報すべてが知る由もないのだ。
だが、それは渕上が過去に来たことで生じた結果のようにも思えないだろうか。渕上が過去に来たことでお互いに命の危機にさらされる結果になった。知りえた情報をもってしても殺されることになる、と考える方が時間原理に則したあるべき形のように。
智沙の目には渕上が死神に見えた。
「行かないと」
智沙は急いで食器を片付けて身支度を始めた。
「どうしたの?焦ってさ」
のんきな口調がやけに恐ろしく聞こえてきてしまう。
「だって時間よ。早くしないと遅刻しちゃう」
「そんな慌てなくても、僕の話はまだ…」
「大人の女は準備がかかるのよ。食器はそこでいいから、あなたももう、元の現在に帰りなさい」
「そうする」渕上はさみしそうに返事をすると玄関に向かった。
「玄関のカギはそのままでいいから」
「ああ」と小さな返事がした。
「そういえば、あなたってどうやって元の時間に帰るの?」
智沙はふと浮かび上がった疑問を口にした。洗面台から玄関までは距離はない。返答はすぐ帰ってくると思った。
「やっぱり秘密なの?」
(静かすぎる)智沙は飛び出して様子を確認した。
玄関には渕上の靴はなくいつもの質素な靴数点のみである。カギはしっかりと施錠されていた。
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