CASE.3/ドッペルゲンガーと父親たち

CASE.3-01

 「最近、帰りが遅いんじゃないのか?」

 足早に2階の自分の部屋に向かう娘の萌絵に一時俊久は強く言えないでいた。娘からの反応は一切返ってこない。4カ月前に近くの交番から拳銃が奪われたという話もある。帰りの遅い娘を案じていたのに娘ときたらこの態度だ。そして俊久の不安をよそに妻の凛子はすでに就寝している。

 時刻はすでに11時を過ぎていた。

 いつから娘は口を利かなくなったのだろうか。気が付けばこちらから声をかけても一切反応しなくなった。

 俊久は夜な夜な娘のことを案じては数十本の煙草を吹かし寝酒に落ちる日々。

 いつも娘の姿で思い出すのはあの頃だった。

 あれはまだ小学生になる前、今の娘の年齢が16歳だからもう10年以上も前の姿だった。娘はいつも笑顔でパパと言って抱きついてきた。誕生日には凛子と一緒に作ったケーキを自慢げに渡してくれた。あのケーキの形や味は今でも鮮明に思い出される。

 そうだ、あれは中学に上がる前だ。萌絵は急に私にそっけない態度を取り始めたのだ。

 いい具合に酒が回った脳内を場面ごとに映像が断片的に巡り始めた。

 はじめは何か些細なケンカだったはず。それがきっかけに口を利かなくなったわけだが、短い反抗期程度だと思っていた。思春期というのは何度かあると知っていたから、あまり気にしないことに徹していたわけだ。だが、いつまでたっても口を利くどころか、このごろは不規則さが目に余る。

 俊久は酔った勢いでコップをテーブルにたたきつけた。

 「今日こそはビシッと言ってやろう」

 このごろはストレス過多で気が狂いそうになった。そのうちの長年の悩みはもっぱら家庭問題。仕事も立て込みつつある。昇進のチャンスはすぐそこにある。正直これ以上家庭問題の比率を増やしたくはない。

 千鳥足のまま階段を上った。酒の勢いなく娘をしかりつけるほどの勇気はなかった。

 何度となく見て見ぬふりしてきたのだ。今日こそはと思ってもどうしても気後れしていた。だが、今夜は違う。既に娘の部屋の前まで来た。

 部屋の中でドタドタ音がした気がしたが、もはや勢いをそぐ気は毛頭ない。勢いよくドアを開けた。

 俊久は驚愕した。

 「お前、誰だ!」

 ベッドに見知らぬ男がいた。男の後ろにはだけた服を取り繕う娘の姿があった。

 「萌絵、どういうつもりだ!」

 娘は何も言わない。

 気まずさはあったが俊久は男をつかんだ。

 「クソジジイ、離せよ!」

 男の悪態は俊久を激昂させた。抵抗する男に何度も掴みかかった。男が着ていたシャツがボロボロになるまで力づくで引っ張った。娘の悲鳴と男の悪態が脳内に響く。

 この押し問答は男にしては茶番でしかなかったようだ。俊久の攻撃をまるで子供のいたずら程度のようにしか思っていなかったのだろう。ついには男の方から手が出てきた。

 酔いのせいか拳がやけに速い。まったくかわすことはできない。

 まともに腹に一発くらい、思わず吐き出しそうになる。

 痛みをごまかす間もなく今度は胸と肩に一発ずつ、よろけながらも立っていたのが俊久の根性だった。それでも、顔面目掛けて繰り出された拳は右目を直撃し、廊下に吹き飛んだ。

 鼻血が口元に流れてきた。もうすでに俊久は立ち上がることはできない。せめてもの抵抗にとケガをしていない左目で男をにらみつけた。汚らわしいその存在はあろうことか娘とキスをしていた。

 「萌絵、なんでそんな男と…」

 俊久のつぶやいた声が届いたのだろう。男がこちらを見て近づいてきた。

 「ジジイ、あとでこれ弁償しろよ」とシャツの首元を指して言った。大きく破れすでにシャツとしての原型は伴っていない。

 「冗談じゃない。そんなものに払う金はない」

 「クソ野郎が!」

 男はいわゆるキレる若者だった。沸点が非常に低い。それに手を出すのも早い。

 男は俊久の胸倉をつかみ上げるとまた拳を振り下ろす。左目、鼻、あご、頬、顔のパーツすべてを塗りつぶすように何度となく拳が襲う。

 「もういいって、ほっとこうよ」と娘が男の腕を抑えた。

 「萌絵、こいつのこと死ぬほど憎んでいたんだろ。こんな大人は痛い目見ないとわからないんだ」

 「そんなことよりも出て行こう」

 そんなこととはなんだ?

 実の父親よりも大事なことがあるのか?父親が男に殴られたんだぞ。

 俊久は耳を疑った。いや、耳だけではない。すでに現実を疑っていた。娘に限ってそれほどに己を嫌うはずはない。今は嫌われてもいずれ昔のように慕ってくれるはず。

 これは夢だ、と俊久は思い込んだ。

 俊久はそのまま廊下で眠りについた。

 翌朝、凛子に起こされてみると状況は何も変わらない。開けっぴろげになっている娘の部屋からは昨夜とは少し違って見えた。

 「萌絵は?」

 パジャマ姿の妻は彼に訊いた。まだ薄暗い廊下の影が凛子の顔に闇を落とす。

俊久は顔を拭い萌絵の部屋に入った。

 「出て行ったんだ…」

 「何ですって?」

 凛子は慌てて下に降りて行った。目当ては電話だろう。

 俊久は昨晩には部屋にあったはずのいろいろな物がなくなっていることに気が付いた。壁にかかっていた学校制服、大きなトランクケース、教科書もだろうか?昨晩の内に詰め込んで足早に出て行ったということなのだろう。

 俊久は茫然となりながら一階リビングに戻った。

 テーブルの上にはコップ一つが昨日のままだったが、あるはずの日本酒瓶が消えていた。

 「お父さん、萌絵につながらない」

 俊久はソファーにデンと座り天井を見上げた。二日酔いと殴られ頭を打ったせいでめまいがひどい。

 「警察に言わないと!」

 凛子は再び受話器を上げてプッシュボタンに指を添えた。

 「ダメだ。警察沙汰にはしたくない」

 俊久は青ざめていた。彼にはどうしても連絡されたくない理由がある。

 「なんで?こういう時はすぐに警察に頼むように、あなた、言っていたじゃない」

 「娘の将来にかかわる。絶対にことを大きくするな」

 「じゃあ、なんであなたは警察官なんてやっているの?何のための警察官よ!」

 こんな時に限って妻は正義を振りかざした。いつもは帰りが遅いだとか、公務員の割には安月給だとか文句をつける。安定した収入に魅かれて公務員と結婚した女のどの口が言っているのか、いつも腹が煮えくり返りそうになる。

 「いい?こういう事態を世間では一過性の家出というんだ。少年課にはいつもこんな相談が問い合わされてくる。その大部分は補導まではいかない。単なる家出として処理される。家出だけでは彼らはそこまで親身に取り合ってくれない」

 事実だけでなんとか言いしのごうとしたが、本心はそこにはない。

 「だからって、放っとけないでしょう。あなたのつてでどうにでもなるはずよ!」

 だんだんと妻の声が金切り声になる。頭に響き、めまいを伴ってくる。

 たまりかねた俊久はゆらゆらと体を左右に揺らしながらキッチンに向かった。

 「つてはない。少年課に手軽に特権を願い出る知り合いなどいない」

 水を一杯飲みほして続けた。

 「とにかく、一日待とう。萌絵も君になら連絡するだろうから…」

 肩を落としたがこれが事実だ。萌絵は母である凛子の言うことは聞く。娘と母の関係は娘と父の関係に比べて雲泥の差があった。

 「いったい何があったの?」とやっと凛子は俊久の顔中にある無数の傷について訊いた。

 わかるとおり、凛子は俊久に鈍感だった。最優先は娘、そのずっと後に旦那と続くだろうことが予想出来るだけさみしい。

 「萌絵の部屋に男がいたんだよ」

 男の顔を思い出すだけで怒りが沸々と湧き起こってくる。

 妻は明らかに戸惑った。それは妻にとっても思いがけないものだったのだろう。

 だが、俊久の想定とは裏腹に凛子はとんでもないことを言った。

 「じゃあ、その顔は力男君に?」

 「リキオ?」

 はじめは妻が何を言っているのか理解できないでいた。その単語の音を反芻し、何を意味するのか全く感触を感じられない。

 「阿部力男。萌絵の彼氏」

 血管がぶち切れそうになった。彼氏という単語や娘に彼氏がいるという事実だけではない。妻が認識していたということに対して最も怒りを覚えた。思わず手元のガラスのコップを投げつけたい衝動に駆られた。

 「お前は男に会ったのか?」

 詰問口調は職業病だからではない。学生時代から変わらぬ性質だった。

 「たまたま家にいたのよ。あの子、私を見ると礼儀正しく挨拶するから変に反対できないじゃない」

 「お前は甘いんだ。現にあのガキが俺に何をした?」

いまだに目は半開きで視界がぼやけ、口の中は鉄臭い。

 「しょうがないじゃない。親の私たちが反対なんてしたらますます気まずくなるじゃない。それにあなた、いないんだもの。相談しようとしても、帰ってきて早々ビールだの、酒だの。あなたにだって落ち目はあるのよ。そもそも反対する理由なんてないじゃない。力男君、とってもいい子だったんだから。挨拶もそうだけど、次に来た時は私への気づかいにお菓子持ってきてくれるんだもの。あんな好青年なら萌絵も幸せだろうなって思ったのよ。それをやめなさいなんて言えますか!萌絵を長年無視してきたあなたが今更になって口出しできることじゃないわ!」

 彼女本来の気性が発揮されていった。妻は元舞台女優。負けん気が強く主演を務めたことは何度かあった。今もあの頃と変わらぬ美貌とまではいかないが、同世代ならまだ若々しいともてはやされるに違いない。だんだんとヒステリック気味に口調が激しくなっていく。声量は確実におなかから声を出しているそれだ。

 気圧されながらも俊久は顔を洗いに洗面所に向かった。その間も妻は主に萌絵の父である俊久が悪いという主張を続けていた。

 「この顔見てもお前は奴のことを好青年だと言えるんだな!」

 あまりにしつこい妻を俊久はにらみつけた。

 「知らないわよ。あなたの態度が良くなかったんだわ」

 「なんだよ」とつぶやいた。

 この傷の実行犯がその阿部とかいう男じゃないかもしれない、という考えに至らなかった妻をあざ笑い、安堵した。もしそう仮定していたら、男に誘拐されたとして、また妻は警察に通報するとか言い出しかねない。当然娘の安否は心配だった。だが、昨晩のあの様子では男に執心していた。殴られ続ける父をかばったものの、気遣う様子は見られない。

 (俺を父と思っていないだろう)

 その思いが嫌に裏切られた気分がして許せなかった。娘を思う気持ちは昨晩の騒動で酔いが覚めた。

 「被害者の俺が通報するなと言ったんだ、絶対にするなよ」

 (今後の昇進の査定に引っかかるかもしれないからな)という言葉は飲み込んだ。

 「当然よ。あの力男君と一緒なら安心できるわ。それに被害者はあなただけなんですもの」

 妻は妻で悪態をつく始末。

 本当に浅はかな夫婦だった。

 一晩の騒動から3日後、萌絵は何事もなかったかのように帰宅した。本当にただの家出だったようだ。当然ながら怪我一つなく、至って健康そのもの。

 問いただす凛子をよそに俊久は無言を貫いた。結果的に何事もなく帰ってきたわけだが、夫婦間、親子間に大きな溝ができたことには違いない。それでも俊久は家族のために働くという意識をもって昇進を目指した。

 まだこの時は親子3人バラバラながらも一つの共同体であるということに安息があった。複雑ながらも家族は保っていけると誰もが思っていた。崩壊の日が来るとはだれも思っていない。

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