CASE.2-21
「すると今回の事件はサカキグループの不正と内部抗争が絡んだ自殺事件だったということか。複雑な真相だったのによくぞ解決してくれました」
豊坂本部長は老眼鏡を折り畳み机に置いた。片手には支給用電子ボードを持ったままである。
事件発生から5日ほどが経ち最終事件報告のため一同は本部長室に集まった。
「今回は本当に運が良かったと思っています。関係者の一人である立花景興の協力や大友宗介の安全確保、寺浜龍悟の早期の逮捕が功を奏したわけです。立花に至っては到着が少しでも遅れていたら立花は亡くなっていたかもしれませんでした」
報告の代表を預かった倉本が誇らしげに報告書には記載されていない補足事項を付け加えた。ただの自慢話に聞こえるかもしれないが、これは過程を求める豊坂のたっての希望である。
「立花はなぜ死なずに済んだのだね?寺浜に殺されかけたそうじゃないか」
「仮死状態を作ったそうですよ。もともと東郷平時のために用意していた薬で寺浜を欺いたと言っていました。その薬というのが厄介で危険を伴う成分が含まれています。寺浜からの殺人をまぬかれたとしても立花は死にかけていました。現場に着いた時には呼吸が困難で一刻の猶予もありませんでした。ですが、死なずに済んだのは何と言っても薬を飲んだ立花の起点でした。
薬に関して非合法薬物であることは褒められることではありません。ですが今回の薬物は依存性がなく、緊急事態に即したものであるので、全面協力を約束する司法取引にしたこと本部長も知っていると思います」
「もちろん許可を出した。だが、入手先については結局わからずじまいだったそうだね」
豊坂の目が一瞬少し引きつって見えた。あまり嫌な顔を見せたことがない豊坂に限ってと誰もが気のせいだと思い目を疑った。
「インターネットを通じて取引されているらしく、すでに古いURLとして立花の経路はつぶされました。ですが、梱包材や発送元から販売元をたどれないか現在調査中です」と碓井がすかさずフォローした。
豊坂の顔はまたいつもの仏顔になり「それは期待できそうだ」と碓井を見て言った。そして思い出したように続けた。
「それにしてもあの時は不思議だった。一社員にすぎないはずの男がどうして会社の会長を救おうなど大それた考えを抱くのか。だが、彼は跡継ぎだったわけだ。それなら納得がいく」
「記載した情報から読み取れるほど彼らの関係は簡単ではないようです。あくまでも次期会長候補であった事実を本人が知ったのは遺書が出てきてからです。それまで立花は自分が候補に挙がっているどころか、義理の父に嫌われていると思っていたそうですから」
報告書によると遺書が見つかったのは寺浜が逮捕される直前のことである。立花の元部下である大友宗介が真鍋に差し出したとされ、それ以上のことは記載されていない。
「嫌われていた男がなぜ?」
「奥様との約束」ぽつりと智沙はつぶやいた。
「なぜそう思ったの?」と渕上が不思議そうにして言った。
渕上だけではない一同が智沙の呟きに耳を傾けた。
これには智沙自身も不思議に思った。なぜそのような推理を口走ったのかわかっていない。智沙は立花景興という人物には一度もあってはいない。記憶の療養として数日休んでいた智沙に立花という男の本質を見出すことは難しいはず。また人となりを理解できるほどの詳細な内容は報告書に記載されていないはずだった。
「東郷氏の娘さんが望んだから立花さんはあきらめなかった。きっと亡き妻の願いあっての義理の父への愛情であって、行きつく先は愛社精神だったのかもって思えました」
「確かに。そうとも考えられますね。立花は僕らに本音を言わなかったのかもしれない」と桑原が納得して続けた。
「なにせ、彼は役員らに脅されて仕方なく偽装計画を立てたと言っていましたから。脅迫から逃れるために危ない橋を選ぶには無謀すぎる。本当に嫌なら途中で会社を辞めることだってできたはず。跡継ぎ候補どころか昇給すら望めない組織で長年会長の娘を死なせてしまった罪悪感に耐えながら生きてきた、立花景興という男の精神には脅迫など些細なことだったのかもしれない。それ以上に会社の行く末が気がかりで、会長の身を案じた。その理由は義理の父への愛と社愛精神。その根底にあるのは亡き妻への想い…」
「結構。結構」といつも以上の上機嫌だった。ほくほくした笑顔が特徴的な豊坂は満足げに書類を見返した。
「サカキ上層部はこれから一掃されるだろうね。脅迫以外にも産業スパイ指示や横領、脱税も噂されていたからね」と本部長室でも相変わらず口調は変わらない。
渕上は経済関係の新聞をテーブルに広げた。
大企業の会長自殺から始まる一連の騒動が一面に躍り出ていた。
こうして犬養班が扱う自殺事件は寺浜龍悟を含む数名の役員関係者の殺人容疑および殺人未遂容疑での逮捕により幕を閉じたのだった。
だが、ここに言う真相というのは智沙の思うそれとはどこか違う気がしていた。事件当時を語る立花の供述に満足できないでいた。真相に何かが欠けている。寺浜が東郷会長を突き落としておしまい。そんな単純な話ではない気がしてならないのだ。
智沙は新聞を見つめて冴えない表情を浮かべていた。数日前に読んだ手紙の内容が頭をかすめていた。いまだに封を切れないでいる手紙はいつも持ち歩いている。読むべきだという思いと後悔が潜む恐怖の中、結局そのままになっている。
「犬養さん。大丈夫?」
智沙は我に返って状況把握に努めた。目の前で豊坂本部長が不安そうにしてじっと見つめていた。
いつの間に移動したのか、智沙は錯覚に思えたがすでに二人以外誰もいなかった。
「襲撃犯のことなんだけど聞いていた?」
智沙はハッとして、豊坂を見た。
「犬養さんや真鍋君を襲った犯人のことだよ。いまだに男は自分が何者か名乗らないし、指紋照合やDNA鑑定を試みても前科者情報に一致する人物はいないらしいんだ。男に襲われたとき何か聞いていないかな」
「すみませんが、何も覚えていないのです。申し訳ございません」
智沙は小さくなった。
「いやいや、謝らずに。ただなあ…」
豊坂はばつが悪そうに顎をさすった。
「何か?」豊坂の様子があまりにも切れが悪く、もじもじとしていて気味が悪く思えた。
「これまでに3人の捜査官が被害にあったと報告があってだね、この3件共に今回の男と同一人物ではないかという説が濃厚なんだよ。それで被害にあった捜査官のだれもが男からあることを聞いているらしいんだよね」
『渕上は撲殺、犬養は刺殺、真鍋は銃殺』
智沙は思わず生唾を飲み込み、背筋に悪寒を覚えた。
「呪文のように繰り返していたそうなんだよ」
「なんで今になって教えたのです?事前に話していただかないと、こちらとしても自己防衛がおろそかになります」
声を上げそうになる自分を抑えて、何とか冷静を装った。
「本当に申し訳ない。だが違うんだ」豊坂は小さいハンカチで汗を拭った。
すぐに謝るところは豊坂らしい性格が出ていたが、注意が遅れることはなんともらしからぬ対応だった。
「訳を聞いてほしい。けがを負った捜査官はいずれも重症で見つかったのだが、彼らが目を覚ましたのはどういうわけか犬養さんや真鍋君が襲われた日の夜なんだよ。捜査官はそれまでずっと意識不明だったんだ。なのに彼らはまるで示しでも合わせたかのように同じころに目覚めたそうなのだ」
言い訳としては全くもって嘘くさい。そもそも、智沙は署内で捜査官が襲われて意識を失っているという話自体初めて聞くことなのだ。
「犬養さんほどの優秀な捜査官に冗談は通じないことは私でも心得ています。報告が遅れたことをこれ以上弁解する気はありません。ですが、事実として聞き受けてほしい。得体のしれない老人が君たちを殺そうとしていたことは確かであり、男は無事につかまった。結果的に良かったとは言わないけれど、何事もなくてよかったと心から思っている」
確かに事実だけ並べると事件はすでに解決している。だが、それだけで済む話なのだろうか。智沙には原因不明の解決事件として割り切ってしまえるものとはどうしても思えなかった。
だが、真相を知る日はそう遠くはない。
「渕上君についてはどうするか決められたかな?」
「何のことです?」
「今回の捜査で真鍋班を取り込んだ方法を試みたのは渕上君がどういう人物か気になったからなのだろう?彼には何か我々常人にはわからない隠された力を持っているような気がするよね」
「力ですか?」
頭の片隅でうずうずと奇怪な感触が蠢くのを感じたが、その正体にたどり着く前に戻されてしまう。この数日間ずっとこんな調子だった。どうしても記憶の最深部にたどり着かない。まるで意図的に憚るかのようにだ。
「…すみませんどうしても記憶があやふやで…病院で目覚める前の数日間が断片的に表れては掴み損ねる感覚なんです」と前置きをした智沙はまっすぐに豊坂を見据え、嘘偽りのない心から感じた思い語った。
「確かに先月合同調査についてお願いしたのは覚えていますが、今となっては個人的な思いはなかったと思います。ですが、私を含めて5人での体制はとても頼もしいものだと実感しました。今回の捜査の後半部分は私抜きでみんなよく頑張ってくれたと思います。おかげで捜査に行き詰まることなく解決できました。班合同を許可していただきまして本当にありがとうございました」
豊坂は拍手した。拍子は早くもなく、別段遅すぎることもない、ちょうどいいテンポの手の音で称賛を示した。だが、その拍手は一人のものが発するそれではなかった。
呆気にとられ目をパチパチと瞬かせた智沙の視界に何者かの姿が現れた。豊坂の隣の椅子に現れ、やがて人の形を成した。
ぎょっとした智沙を襲に豊坂は隣のそれに気が付いていなかった。智沙の驚いた表情にも気が付いておらず、何事か会話を続けていた。
人の形を成した影は見る見るうちに老人の男の姿として輪郭をはっきりと縁取り、頭髪、顔の皺、まつ毛に至るまでくっきりとある人物をなしていた。
「やはり、3人体制は見直すべきですよね。前々からやりずらいという意見もあったんだよね」と豊坂は事の異常性をまったく気にしていない。不思議と独り言のようにすべての言葉は質問と回答を自己完結的に済ませており、相手が一切話していなくても会話として成り立っていた。
困惑する智沙は「本部長?」と呼び掛けてみるも、相手からの返答は返ってこなかった。
「私を覚えていないのか?」
影だった老人が突然話しかけてきたことに驚き、智沙は思わず身を引かせた。誰がどう見ようと今の彼女の姿勢を見れば何事かと思うはずなのだが、目の前の豊坂は全く気にせず同じような一人会話を続けていた。
「不思議なものだ。死後のだれかと話ができるなどあるはずはないと思っていたのだが、案外迷信も火のないところに煙は立たないというものなのだろうなあ」
智沙には確かに見覚えがあったが、思考が相手の存在の受け入れを拒み続けた。
「誰なんですか?」
「やっと話す気になったようだが、私を覚えていないのか?」
豊坂が気になったが、相変わらず気にする様子はない。
「数日前でしたら、申し訳ありませんが記憶がないのです」
「それはおかしい。記憶がないと言っても全部ではないのだろう。先ほど断片的だとこやつに言っていたではなか」と隣で自己完結に浸っている豊坂を指した。
「やっぱりわかりません。お気に障るようでしたら謝ります。この通りです」と智沙は恐る恐る頭を下げた。
「構わん。犬養智沙よ。今日は私が頭を下げに来たのだ」
智沙は訳が分からず頭をかしげた。
「私の自殺できっと多くの闇が明るみになったであろう。責任は私にあるのだ。あの自殺も責任を背負っての飛び降りだった。義理の息子が迷惑をかけたであろう。だがあいつはお前さんも分かるが悪い人間ではない。すべて私の不徳のなさが招いた結果なんだ。
もう少し早くに職を降りるべきだった。自らの晩年を語るには不思議な気持ちだが、言わせてもらおう。癌が脳に転移してから私には決断力はなかった。周りの太鼓持ちどもが会社のために勝手に計画したのがスパイ行為や事業拡大だった。
まあ、そのことは部外者である犬養さんにはどうでもよいことだろう。
だが、聞いておいてほしい。息子がいてくれたから私は晩年でも尽力で来た。気力をもって働けた。決して正気を失っていたわけではない。とても幸せだった。息子が事業計画を必死で考えてくれたことがとてもうれしかった。だから息子に経営の極意を少しでも残せるようにしたのだが、どうやら息子の手にそれが渡っていないらしい。だからどうかその虎の巻のありかを息子に教えてほしいのだ」
智沙は息をのんでうなずいた。
男は貸金庫のある銀行とパスコードを教えた。
「なぜ、私なんですか?息子さんに直接には…」
「わかるだろう。いくら息子と言ってもお前さんのような力は持っていない。それに今更気恥ずかしいってものだよ」
智沙は男の優しそうな口調に気持ちが揺さぶられるのを感じながら、静かにうなずいた。
「最後に余談なのだが、捜査上に浮上していなかったから話しておこう。寺浜龍悟が固執した理由だよ」
「わかっています。こちらも親子関係ですよね」
「なぜそれを?」
その問いに智沙は自分でも驚いた。どこから入手した情報なのか見当もつかない。口をついた真相に不気味さを覚えた。
「まあ、いいさ。息子どもがお世話になったよ。本当に」と男は頭を下げると輪郭と空間の境目がぼんやりとあいまいになっていった。
「待って、せめて息子さんにお会いしてからでも…」
智沙の声に男は顔を上げるとにっこりとほほ笑んで言った。
「手紙を読みなさい。記憶を取り戻せるはずだよ」という言葉を最後に影は光へと薄れて行った。
もうかつての剛腕ワンマン会長の異名はなく、ただの優しいおじいさん、本来の東郷平時の姿が浮かび上がった。
智沙は心臓が高鳴るのを感じながら消えゆく男の姿を眼球に焼き付くほどに目でとらえていた。
「本当に大丈夫?」
そこには豊坂が不安そうに智沙の顔を覗き込んでいた。デジャヴのように何度と会った状況に智沙も思わず苦笑した。
「涙出ているよ」
「本部長。これからも5人体制で組ませていただけませんか?真鍋さんのこともありますし、人手が固まるに越したことはありませんから」
「聞いていなかったの?」と豊坂はありありと残念な顔をして、気まずそうに言った。
「今私が提案したことなんだけど…うまくやれそうかな…」
車に乗り込んだ智沙はエンジンをかけることなくゆっくりと深呼吸をした。
カバンの中にポケットに手を入れ、目的のものに触れた。
数日間入れたままの手紙。カバンの形に合わせて少し曲がっており、幾度も手にしてはしまい込んだために角の部分は少し折れていた。だがそれらの汚れもみすぼらしい程のではなく、一定の上品さを保っていた。
智沙は意を決してその刻印が押された封筒を開け、中身の便箋を取り出した。
好奇心と不安感が気持ちを高ぶらせた。
『二度のタイムトラベルを経験した君へ
ようこそ新たな世界へ、なんて書いても伝わらないかもしれない。この場合のようこそってのは不思議体験をしたこと自体とループを飛び越えた先の時空に関しての二つの意味でのことだけど、普通は伝わらないよね。
ところで君はどうしているのだろうか?別の世界にきて何か違和感を感じているだろうか?もしかすると別世界への移動や時空修正で記憶があいまいになっているかもしれない。それとも数日間の記憶がすっぽりと抜け落ちていることにも気が付かず事件を解決しているかもしれない。残念ながらこれらの疑問の結果を知るすべは僕にはない。もう事情を知らない別の僕に頼んだからね。目の前の彼と僕は同じであっても経験が違う。こと、今回のことに関しては無知だし、絶対に話してはいけない。これは先に忠告しておく』
『タイムトラベル』という言葉にとんでもない不安感を覚えた。以前の手紙にはそこまで具体的な単語は出ていなかったはずなのだ。それに『別の世界』や『ループ』という単語には以前も感じた不思議な感覚がじわじわと胸の奥底で沸き立つ感覚があった。
智沙は一度手紙から目を離すとバックミラーを見た。目元が真っ赤に腫れていた。
情緒不安定な体質はどうにかならないものかと自分をあざ笑い、目元をこすった。
『覚えているだろうか、渕上Bの存在を。それがもともとの元凶だった。Bは突然君の前に現れ君を脅した』
智沙はハッとした。この先の道路。そこで倒れていた渕上。そして病院を探し回った過去の記憶。
『脅したというのは客観的にだが、君にとっては未来のお告げだっただろう。だが、今回Bという存在がいたからこそループは限りなく君をとらえ、君が七夕の夜に死ぬ世界が確定してしまったわけだ。
そこで打開策。ループは簡単に脱することはできない。それは君も2度目の経験から理解したことだろう。過去を変えることへできたとしても、それは過去に歪みを放つことになるが、時空はほとんど変わらない。もし本当に過去を変えるほどの大確変を起こすとなると、簡単に結果は変わるだろうね。でもこの場合、僕らにとってはただ、時間軸、つまりパラレルワールドに移動しただけであって、元の世界には戻れないことになるだろう。
例えば、地球滅亡を防ぐためにタイムトラベルしたとしよう。成功したトラベラーにとっては地球滅亡したように見えたとしても、それはトラベラー自身が別の世界に、つまりパラレルワールドに移動しただけであり、元の世界のトラベラー以外にしては一人の人物がいなくなった、それだけのことではないか。つまり、過去を変えるタイムトラベルは地球滅亡を防ぐ手段にはなりえない。本当に滅亡を防ぐには全員で別の時間軸に移動する。つまり逃げるしかないということが結論だ。
また、どうでもいい話を書いてはきっと君のことだ長いとか、簡潔にとか文句を言うだろうね』
読んでいて渕上らしいとなぜか思えた。それにどうしようもない切なさにが込み上げてきた。
『まあ、勉強だと思って読んでよ。
ただのパラレルワールド移動ではない、ループを抜け出す方法。それはループの二重併合化と言ったはず。簡単に言うと二本の軸をかき回して一本にすること。
解決する方法はとても簡単だ。君が死ねばループは脱することはできる。身もふたもないとおもった?でもこれはしっかりとした理由がある。君にとっては死だけど、僕にとってはループを脱したことになるんだよ。こんな説明でわかるかな?』
智沙はその部分を三度読み返してみたが、結局次の記述から意味を理解した。
『渕上Bの存在を抹消すること。そうすることで今度は君自身がループを脱することができるんだよ。
幾度となく繰り返された無限時空の中で僕だけが助かる道を選び続けてきた。なすべく手段に挑むことなく君は死ぬ。ループは君が死に、僕が君を助けたいと思うことで保ち続けてきた。
もうわかったかな?実は君にうそをついていた。渕上Bはあの日君が死ぬことで生まれる僕自身。Bを抹消することは僕自身が消えるしかないんだ。
観測者である僕らの内どちらかが消えればループを脱する。こう言えば簡単なことだろ』
智沙はハンドルにもたれかかりうなだれた。
すべてを思い出した彼女は大粒の涙を流し、声をあげて泣いた。
「確認だけどBってことは私が死ぬと忠告しに来た未来のあなたのことよね」
「そう。忘れたの?」
これは二人が交わした最後の会話の記憶。無機質なコインパーキングで静かに真鍋を待ち続けていた車内での記憶。
エンジンもかけず静かにその時が来るのを待っていた。
「再確認よ。Bの忠告を無視して本当にいいのよね」
「拳銃は持ってくるなって話だよね。それで、持ってきてないの?」
「あるわ。無視していいって言うから」と腰ベルトに触れた。
「そうか…」と渕上は何か考え込んでいた。
「本当に無視していいのよね?せっかく有益な情報を教えに来たのに…」
「そう。それこそがループを脱する方法。考えてみてよ。渕上Bは君の死を予言する死神。ループになぞった結果の権化。僕らにはBは必要ない。そこでBを抹消しようというのが僕の考えさ。なにも殺すわけではない。簡単なことだ。Bを無視すればいい。それだけの事」
説明があまりにも飄々といつもと変わらぬものであったのは渕上自身の意図だった。この時智沙はそこにある嘘に気が付いていなかった。
「来た!」智沙は小さく叫んだ。
「提案なんだけど、先に僕一人で接触して、この紙を渡してみるよ」と後部座席に置いたジャケットから東郷の遺書を取り出した。
「どうして?」
「疑っているんだろ?真鍋さんのこと。あの人がどういう反応をするか見てみたいだろ?」と笑った。その笑みにいたずら好きの子供を思わせる無邪気さが垣間見えた。
「本当に破られたらどうするのよ」
「大丈夫。ループから離れた先にはこの紙も復元しているはずだから」というと彼は智沙の非難を聞くことなく愛車を降りた。
『あの時、君一人で対決に向かわせた理由。それは僕自身に理由があった。僕は絶対にBにはなってはいけない。君の生死について知ってはいけないことが大事だったんだ。万が一失敗して命を落としてしまった場合、僕はBになるだろう。これはゆるぎないと僕は思っていた。だからこそ無知が大事だった。
でも僕はその自らに課した掟を破った。君を助けに行ってしまった。これを時空の運命、ループ上の定めというのだろうね。意志をもって車で去ったはずの僕はいつしか現場に戻ってきていた。犯人は現場に戻るという心理だろうか?この場合は違うね。冗談。冗談。
予防にと真鍋さんの拳銃をゴム弾にすり替えたことが良かったのか、君の持っていた拳銃がモデルガンであったのが良かったのかわからない。結果的に君はあの場では死ななかった。だが、矛盾が生じた。僕はどうしてもBにならなければならない。僕が君をあの場で殺すことが矛盾を解消する手段だった。そうでないとBは生まれず、あの時間軸の僕らは過去に向かわない。
僕は救急車を呼んだ。大船常盤救急病院。そこで手術を受け、長期入院の見込みから蝶の森林記念病院に移った。そうさ、君が病院だと言った更地に。驚いたことに立派な病院じゃないか。あの日が懐かしい。依然として君は目を覚まさない。こんな状態が一体何年続いただろうか?すべては僕らの存在による矛盾。病院ではパラドックスが起きていた。僕らの元居た世界には病院はなかったそうだが、原因はこれだ。矛盾した僕らの痕跡が残っていたのだろう。
医師によると君の命はもう持ちそうにないのだそうだ。
そしてこの手紙を残し決意した。僕はbになる。Bではないbとなる。bはどんな過去の時間軸にもそれぞれAはいる。そしてこのままではBもそうだ。
Bを完全に消滅させるため僕はあのBではなく、bになる道を選んだ。具体的には7月7日の夜を際限なく繰り返すことになるだろうね。Bを出現させないためには真鍋を救い、あの男を止めること。これで事件は大ごとにならず、君は過去に戻ることはなくなるだろう。後に続く渕上Aはループがあったという事実を知らずに済む。これでBは完全に生み出されることはなくなるはずだ。
僕らが出会ったことはきっと奇跡という運命によるものだっただろうね。結果的に君を助ける形になったけどさ、逆なんだよ。ずっと僕は君の死を犠牲にしてきた。どうだろうか、Bは幸せそうだったかな?君を救えなかった彼らはおそらく心に空いた穴を埋めるのに必死になって君のもとを訪れたのだろうさ。Bを敵視して書いたけど他人事のようには思えない。もしかしたら僕に後ろめたさを感じたかもしれない。罪悪感を感じているのかもしれない。でもそんな風に感じる必要はないんだ。なぜなら僕はその世界にもいるだろ。そいつは僕と何も変わらない』
便箋4枚にも及ぶ手書きの文字は最後にこのような言葉で締めくくられていた。
『僕ら名コンビだったと思わないか?』
智沙は車を路肩に停めてひと呼吸就いた。
いつだっただろうか?聞き覚えのある音楽がラジオから流れてきたのだ。
映画のテーマソング、その答えが頭に浮かぶ。
あの時は確か途中でラジオを切ってしまって冒頭部分しか聞いていなかったはず。
なぜそのようなことをしたのか?
助手席に置かれた4枚の便箋に智沙は思わず膝を曲げ頭をうずめた。
『また朝が来る』と明るく繰り返されるその曲がどうしようもなく愛しく思えた。
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