CASE.2/Bの消滅
CASE.2-01
「会長、なにとぞお聞きください。わが社の経営に大きくかかわる重要案件です。このままの構造ではわが社だけでなく、国内産業にも大きく出遅れる事態になりかねません。ここは提案をしっかりと健闘していただいて、転換の機を指示していただかないと…」
東郷会長の取り巻きにもまれながら立花景興は必死に訴えていた。
東郷平時は全く耳を傾けることなく歩を進めていた。
取り巻きたちは優秀であった。立花の接近を防ぎ、東郷の進行を確保した。
「少しでも良いのです。お耳をお貸しください。赤字は無視できないところまで来ているのです。グループ全体で方向転換できないと全社はおしまいです。ここは主体である自動車産業を見直しを図り、新たな方針を打ち立てるべきです。もう10年前までのような自動車だけを作っていればよい時代は終わったのです」
「しつこい。会長はお前の意見などには耳を貸さない」
取り巻きの一人が立花の胸倉をつかんで突き飛ばした。
「お前の地位で会長に意見するなど身の程をわきまえろ」と突き飛ばしたついでに唾をかけた。周りの取り巻きも薄ら笑いを浮かべては、それにならって唾を吐き付けた。
「地位の問題ではないでしょう。会社の問題だ。社会の流れは数年前の都心事件から大きく変わったのはだれもが知れたことでしょう。今や日本の産業は世界各国に苦戦を強いられている。私はこのまま見て見ぬふりはできないと言っているのです」
依然として会長は無言を貫いた。それどころか目線すら向けない。
「とっとと離れろ。それほど会社を思うのなら、もっと必死に働いたらどうだ。お前ひとり、こうしてさぼっている間にも機会損失が発生していると自覚したらどうだ」
別の取り巻きが立花の首をつかみ壁に押し付けた。
「俺が止めていますから、会長はお先にお上がりください」
窒息までもいかないがより強い力が首を絞めた。
立花は意識が遠のきそうになりながらも東郷会長とその取り巻きが会社を出て行く様を見つめていた。会社正門前にはすでに高級車が横づけられており、東郷が悠々と乗り込むとすぐに走り去っていく。
「苦しい」と息も絶え絶えに何とか訴えた。
声を聴いた男は手を離し、
「さあ、働け。せめて俺たちの手を煩わせただけの働きはしろよ」と苦言した。
「パワハラだ、クソ」
死語になりつつある単語を発した。パワーハラスメントという言葉は数年前までは効力のある訴えだったが、近年はすでにパワハラ自体が蔓延していて、訴えるだけ無駄ということに世間は気が付かされた。
とある企業の暴力事件が一時世間で取り立たされ問題視されたことがあったが、すぐに鎮静化したのだ。マスコミの報道は企業に配慮し、事実の真偽が捻じ曲げられ、事件を取り扱うこと自体がタブーとされた。追い打ちをかけるように訴訟へと発展した本件を裁判所は無罪とし、原告側のパワハラ被害者は名誉棄損で訴えられるという残酷な結末を迎えた。
人手不足と人件費高騰の相対する矛盾が同時に発生し、労働者の価値が大きく下落した。日本企業は自らの意見を発する労働者を嫌い、従順な人材を重用していった。
「パワハラってのはこういうのを言うんだよ」
男が思いっきり鳩尾に膝蹴りを食らわせた。
「なんでこんな…おと…」
既にそこにはない東郷の足音が立花を置き去りにするように耳の奥で響いていた。そしてそのまま気を失うとその場に倒れこんだ。
『お前の意気がなかなかよかったって会長が褒めていた』
そう内線電話で連絡があった時には肩透かしを食らった気分だった。
立花は思わずその場を立ち上がった。
電話口の相手は福田と名乗った。そして聞き覚えのある声である。それは不思議な感覚であった。
そう胸倉をつかみ唾を吐き付けた男に『褒められていた』と言われてもどのように受け取るべきか困るものだ。
『会長がおっしゃられるには会社の方針にテコを入れようか考えあぐねていたところにあなたのような会社を憂う社員がいたことに感銘をなさったとのことです。しつこく直談判なさったあなたに少し興味を持ったようで、意見というものを聞いてみようとのことです』
「はあ」
立花は茫然と電話口に答えた。
ついこの間の行為とは別人のような意気のなさが際立っていたが、福田は構わずに要件を述べた。
『どうでしょうか、ぜひともあなたの意見をお聞かせいただけませんか?会社の方針の抜本的改革も視野に入れたいので事前の打ち合わせというのを行いませんか?』
「事前と言いましたが、それは会長抜きということですか?」とおかしな誘い方に立花は疑問に思った。
『いえ、すみません。もっと具体的に言うべきでしたね。会長たっての希望です。当然会長はご出席なさいます。事前と申したのは全体会議に先んじて意見をいただきたいということなのです』
「全体会議とは?まさか?」
立花は緊張感を持った。
『ええ、グループ全体の社長を招集した社内的な会議です。そうですね、株主総会とは違いますね。ただ取締役会を含めた大きな会議になります。ですのでしっかりとした打ち合わせを所望しております』
「本当ですか!」
うれしかったわけでも、責任の大きさに驚いたわけでもなかった。それでも立花は悲鳴のような声を上げずにはいられなかった。その理由は自覚していた。
ただならぬ異様な様子に部下たちは奇異な目で立花を見つめていた。それに答えるように目の前の席の島村に合図を送り、椅子に座りなおした。
感づいた島村は受話器をじっと見つめだした。
『是非とのことです。数日先になるのですが、後程会長からの呼び出しがありますので、連絡をお待ちください』
「わかりました。こちらも是非に」
そのままお礼を言って受話器を下ろそうとしたところ、何やら要件が続いていたらしく電話口からまだ声が聞こえた。
立花は慌てて耳に戻すと、
『ああ、よかった』と安堵の声が返ってきた。
「すみません。切りかけました」
『いえ、いえ、こちらもすっかり忘れていました』
「いえ」
とりあえず立花に過失はない。それだけは保証された。
『立花さん、少しお聞きしたいのですが、会長に訴えたい内容とは経理部の総意としてでしょうか?それとも個人的な意見なのでしょうか?』
(今更おかしなことを聞くなあ)と不思議に思いながらも、思案していた。
総意と言えば違うし、個人的といえば聞いていて印象がよくない。電話を気にして業務に手が付けられないのだろう島村がじっとこちらを見つめていた。
「私と数名の部下の案です」と正直に答えることにした。
『なるほど…』
電話先の福田の様子が想定と違い、思案にふけっていた。
「あの、どうかしましたか?何か間違えましたか?」
(やっぱり部署としての総意だと建前なりに言えばよかったのかなあ)と後に続けるべきだったのか、と焦燥感が募った。
島村も心配そうに見ていた。
『いえ、いえ、もう少し早めにお聞きすればよかったですね。どうせならその協力者たち全員にも出席していただくべきか、あなたを代表にお招きするべきか、プランを考えていたのです』
「そうですか…」
そんなことか、と言い返すのは簡単だが、全体会議ともなればそう単純ではないのだろうか、と思い直した。
「数名と言いましたが、具体的には私を含めて3人です。私と部下の島村と大友です。打ち合わせにも参加するよう命じますが…」
『3名ですね。わかりました。後日また連絡します。準備だけはしておいてください』とずいぶんあっさりとした返答を後に電話が切れた。
立花は不信に思いながらも電話を切った。
高揚感はあったが、何やら気持ちの悪い違和感がのどを締め付ける。
「先輩。もしや、提案が?」
立花とは対照的に期待感が島村の表情にあふれていた。
「ああ、おかしい話だが」
「何を謙遜しますか。先輩の直談判攻撃が効いたってことじゃないですか」
「わからない。相手は俺を締め付けて唾を吐き捨てた人だぞ」
思い返すだけで屈辱的な気分にさせた。
「でも、最後に勝つのは正しいほうです。先輩はこの会社の救世主になれるんだ。下っ端に殴られて気を失ったぐらいで落ち込んでいられませんよ。先輩の勇気はこの時代に必要かもしれませんね」
島村のプラス思考はありがたかった。島村という男が後輩にいてくれるだけで立花は救われたと思えた。
「殴られていない。蹴られたんだ」
「俺が助けた。忘れないでくださいよ」
「島村と大友は見ているだけだったよな」
「それを言われれば…って話より、これから会社は変わるのですね」
「ああ、きっと。その前に全体会議に先駆けたプレゼンがある」
「大丈夫です。そんなの直談判の時にできていたんですから、心配することはありませんよ」
「そうだな」
不信感を上回る期待感で満たされていることをその一言で自覚した。
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