CASE.1/証拠即席スタイル

CASE.1-01

 竹中未希は玄関へと向かった。家のインターホンが鳴ったわけではない。ガサゴソとしたのち鍵が開く音がしたのだ。

 まだ昼前、デジタル時計は10時を少し過ぎた頃であった。未希は家事を済ませ、これから出勤の支度に取り掛かろうとしていた。

 「どうしたのよ、こんな時間に。今日はやけに早いじゃないの」

 未希はすぐに緊張感を緩めた。

 そこには腰を落として靴ひもを触っている夫の姿があった。見方によってはこれから出かけるようにみえる。

 未希は夫の様子にグキリとした。

 「まさか、リストラされたの?」

 未希の反応は当然であろう。夫はつい数時間前に仕事に出かけたはずなのだ。出かけたのち朝から妻に見つかることなく家にいたとは到底考えられない。濡れた黒い傘が静かに否定を助長させた。

 だが夫竹中勇哉は妻の不安をよそに鼻歌とともに靴ひもをほどいて見せた。脱いだ靴をいつもの位置に寄せると口笛を吹きながら居間へと向かった。

 夫の様子に未希は怒りを覚えた。妻の心配をよそに傍若無人にふるまう様は相手を挑発しているようにしか見えてこない。だからと言って彼女はその怒りを表さないように努めた。よくないことがあっても気丈にふるまうのが夫の特徴だ。長年の付き合いから竹中勇哉という人間の扱いは十分心得ていた。

 彼女もまた結婚で忍耐強くなった女性の一人だった。

 妻の想いとは裏腹に勇哉はソファーにどっかりと座り込むと腕を組んで目をつぶった。

 なんにせよ事情が見えてこないとどうしようもない。「何があったかだけでも話してよ」とだけ、できるだけ問い詰めないようにと努めた。

 「まあ、何でもないよ」

 歯切れの悪い夫の返答にしびれを切らしそうになりながらも、できるだけ優しくと心掛けた。

 「クビにあったのなら次の仕事を探しましょう。あなたをクビにするぐらいの会社よ。大してみる目のない会社だったのよ」

 「俺はそんなクビになるような人間じゃねえや。上だって俺のことが頼りだろうよ」

 「そう…」

 未希は夫の扱いを迷った。昨夜までの様子とは打って変わって、というほどではないが、言葉や態度の棘が際立っているのだ。そっけない態度であっても、それは彼の性質だとはわかっていた。だが今の竹中勇哉は度が過ぎていた。

 「お昼、何喰う気だったんだ?」

 「え?」と話題の急変に未希は戸惑った。

 「俺はいつも通り社食になるだろうな。毎日、定食だよ。毎日肉か魚を選んで、結局幕の内だとか、選択肢がないんだよな。何のために昼飯食ってんだか、時々うんざりするよ」

 勇哉はとつとつと話した。

 「よかった。仕事に戻るのね」

 言葉ではそうは言ったが、勇哉の言動に不気味さを覚えずにはいられなかった。

 「仕事には戻るさ」

 そういうと勇哉はすっと立ち上がり、ネクタイをほどいた。

 未希は夫が何か考えがあって、こうして家に帰ってきたのだと、気に留めることをやめることにした。ふと時計に目を向けるとすでに数分が経っていた。いつもなら既に化粧を終えてもよい時間だ。

 未希は慌てて洗面所へと向かった。普段はゆっくりしていても余裕が持てるだけの時間は確保してた。時間のロスではあるが、必死になるほどでもない。

 「あ、そうだ、これからまた会社に行くんでしょ」

 未希の声に勇哉の返答は帰ってこない。それでも未希は夫を気にしている素振りをやめなかった。

 「今日は遅くなりそうなの?夕飯ならもうできているし…。なんだったらお昼にでも食べてもいいし…」と身支度しながら声をかけた。

 ガサゴソとビニール袋をあさる音がしていた。

 その音に何しているのだろうかと、気になって覗き込むように音のする居間へと首を向けた。勇哉の手元にビニール袋などなかったはずなのだ。

 「俺に黙っていることあるだろ」

 未希の耳に先ほどの感じた不気味さとはまた違った、冷徹で狂気の含んだ声が聞こえてきた。その声にどきりとした。

 未希には最近思い当たる節があったのだ。そのことを夫に相談せずに勝手に行ったことを言っているのではないかと心音が高まった。

 「サインのこと?」

 数日前に保険の勧誘とかなんかでサインを迫られたことがあったのだ。当然契約を結ぶとなれば夫には相談するべきなのだが、そういったサインではなく、ただのアンケートに書いたサインのことだ。

 聞いたこともない保険会社の男が家に来た。男は夫とは違ったカッコよさがあった。穏やかそうでいて、とても爽やかな印象であった。それでも顔に騙されまいと拒否したのだが、せめてアンケートだけお願いしますと玄関前に立たれてはどうしようもなかったのだ。それに身分証明書も見せると言ってきかなかったからしっかり確認したのである。保険の男は簡単なアンケートとともにサインだけを要求するとすぐに姿を消したのだった。

 未希の返答が勇哉に届いたのだろうか、納得のいく返答ではなかったのだろうか。舌打ちだけが聞こえてきた。

 ほんの数秒間であろう不穏な空気が居座った。

 「もう行くのか」

 ぼそりと聞こえた夫の声に未希は思わず唾をのんだ。

 「ええ、仕事に行かないと」

 そう返事すると急いでバックに携帯電話を詰め込み玄関へ向かった。

 「待てよ」

 勇哉は未希の右肩を背後からつかんだ。

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