時の観測者
サシガネ狸
序章 始まりの時
あたり一面が地獄と化していた。目に映るすべてに真実味がまるでない。誰もが目を疑い、絶望に打ちのめされていた。そこには針山や灼熱のマグマ、恐ろしい鬼などはない。
現代の地獄。
倒れかけた信号機、歪んだ歩道橋、地面に沈んだ高層ビル、そして横転したトラックは今にも炎が上がりそうであった。
「だれか!助けてください!」
悲痛の叫びは行き場をなくし、そのまま消える。
がれきの下にはたくさんの遺体が埋もれている。生者が歩くということは、否応なしに遺体を踏みつけることになるのだ。
「未夏!めぐみ!」
この地獄の中に渕上直夜はいたのだ。
がれきに埋もれながら幸運にも大事はなかった。しかし渕上にはその幸運に感謝する気にはなれなかった。動かなくなっている足をかばい、腕を駆使して必死にがれきの上を這いまわった。
何が起こったのか事態を把握できないながらも、渕上の本能は家族の安否確認のみであった。
「未夏!未夏!」
渕上の目に変わり果てた妻の姿をとらえた。仰向けの彼女は上半身がかろうじてがれきの外に出ている状態であり、多量の血が頭から流れ出ていた。
渕上はすぐに妻の呼吸を確かめたが、息は絶え絶えであった。
「未夏!しっかりしろ!」
渕上は何度も声をかけた。もう一つの心配事を抑えつけてはいたが、気が気ではない。声をかけながらも目の端ではあたりを見てしまう。
「あなた」
耳にした声は今にも消え入りそうであった。
「未夏!」
「ごめんね…」
「何言っている。未夏が謝ることなんてない。そばに入れなかったのは僕だ」
「違うのよ、わかっているでしょう」
当然ながら渕上には言われなくても分っていた。だが、口にするのは阻まれた。
楽しいはずの休日は訪れなかった。仕事の電話で離れただけだったのだ。その一瞬に気をとられた自分が許せなかった。その電話も大したものではなかったのだ。 早いこと電源を切っていればよかったのだ。
「私はいいから、めぐみを探して」
妻に言われないと行動できない自分が情けない。妻を置いて娘を探しに行くにも妻からの大義名分が必要だなんて。
一見してそこにはもう、もとの駅のホームはない。コンクリートのがれきと、むき出しになったケーブルや金属片、そして無数の遺体。だが娘と思われる姿態は見つからない。
渕上は妻が見えるすぐそばでがれきを持ち上げようと躍起になった。
「ねえ、近くには…」
今にも消え入りそうな声はさらに弱々しくなっていた。
渕上は急いで妻のもとに駆け付けた。
「一人でトイレに…」と絞り出す声にもう力はない。
「未夏!しっかりしろよ!」
未夏の吹き返す呼吸は調子を失い、生気は一秒ごと、一息ごとに、力を…。
渕上は両手についた妻の血の匂い、そして絶命した表情をじっと見つめていた。そしてそっと目をつぶった。
息を吹き返すのではないか、そしてまた今朝のような馬鹿を言い合うことができるに違いない。その前に一人でどこかに行った僕たちの娘を一緒に探そうか、今頃どこかで迷子になって僕たちを探しているのだから。
つぶった瞼の隙間からほこりの涙が滴る。涙の感触が輪郭上に伝って地に落ちた。
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