第66話

 翔子の一報から達也の動きは素早かった。


 まず院長に連絡。あいにく父親は学会で不在だったが、兄である副院長が電話を取り、達也の報告内容に愕然として受話器を取り落とした。次に、事務長、そして防災室長に連絡を取り避難の指示を与える。

 動ける患者は、とにかく病院から遠ざかることとし、風向きを考えて避難エリアを指定した。


 問題は動けない患者への対応だ。達也は事件以記憶していたレポートの隅々まで思い起こし、ソマンは空気より重いことに思いついた。そうか、ソマンは地を這うように広がる性質があるんだ。病院のどこにソマンが仕込まれているか解らないが、とにかく達也は動けない患者を、下の階から最上階へ避難するように看護師たちに指示を与えた。この時達也はプラスティック爆弾の存在を知らなかったのだ。


 神経ガスの恐怖に、さすがの医療スタッフもパニックに陥っていた。患者の避難誘導に猫の手も借りたい現状では、看護師だけでなくドクターや看護師以外のパラメディカルスタッフ全員の力が欲しい。医療スタッフを統括してもらおうと副院長を探したが、その姿が見当たらない。


「副院長先生は、もう病院から避難されました…」


 みずからの身の危険に震える秘書の返答に、拳を握りテーブルを叩いた達也だったが、すぐに表情を和らげ秘書に言った。


「恐ろしいとは思うが、事務の皆さんと一緒に、事務長について患者さんの避難誘導に協力してくれ」


 秘書は顔を恐怖で引きつらせながらも、事務室へ飛んでいった。


 その後達也は、病院内の各階を走り回りながら、指示の徹底を図る。病院に患者が残っている以上、白衣を着ている者は、何人たりとも病院から離れることを許さない。そんな彼の気迫に押され、パニックに陥っていた医療スタッフも、やがて自分達の使命を取り戻していった。

 その動きの素早さゆえに、警察から通報があった時には、もうすでに避難誘導はスムーズに進行していた。そして、警察が到着するより早く、翔子が赤いヘルメットに白バイと言う雄姿で、病院に到着したのだ。


「達也」


 透明の大きな密封袋を抱えて右往左往する達也に翔子が声を掛けた。


「翔子さん…なんでここに?」

「あんたはいったい何してるの?」

「患者さんの非難はとりあえず進んでいるから、ソマンを探そうと思って…。なんとか見つけてこの密封袋に入れ込めれば、液が漏れだしてもガスを防げる」

「そんなことしているうちに漏れだしたらどうするの?」

「前の例では、荷物を受けって液が漏れだすまで1時間半かかった。その例で類推すると、もし犯人が本当に病院にソマンを隠したとしたら、準備や自分が持って移動する時間を前回同様の時間として差し引くと、犯人が病院から出た時間から1時間半、つまりあと10分程度はある計算になる」

「そんなこと単なる予測でしょう。達也も避難しなくちゃ…」


 その時、翔子の携帯が鳴った。


『おい翔子、病院へ着いたか?』


 哲平の声だった。


「ええ今病院にいる」

『そうか、ペケジェーは近くにいるか?病院に連絡しても、誰もでやしねぇ』

「哲平?ええ、いるわよ」


 翔子は自分の携帯を達也に渡す。


『ペケジェーか?』

「そうです」

『犯人のやろう、一回溺れそうになっただけでゲロしやがったぜ。情けねぇ』

「溺れる?」

『いや…とにかく、こいつやっぱり病院にソマンを仕込んだらしい。しかも、あと10分後くらいにガスが発生するようだ。お前ら早く逃げろ』


 達也は自分の計算が正しかったことを知った。


「で、どこに隠したんですか?」

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