第44話

 翔子がひとつシフトダウンすると、バイクの人格が変わった。


 それまでも決して遅い走行ではなかったが、それでもスタート時はフロントが浮きそうなほどの爆発的なスタートだ。翔子のエンジンの雄たけびを聞いた瞬間に達也はゾーンに入った。達也のバイクも、追うと言うよりも、翔子に引っ張られるようにかっ飛んで行った。


 アクセルを開ける度合い、ブレーキのタイミングと強さ。バイクを傾ける角度。翔子のそれと一分の違いもなく達也はバイクをコントロールした。前のバイクの操作を見て真似てのことなら、多少のギャップが生じるはずだが、そのギャップが無い。

 つまりゾーンに入った達也は、翔子と同化していたのだ。以前タンデムで翔子との同化を体験したことが、そんな芸当ができる基礎を作りあげていたのかもしれない。

 達也は気付かなかったが、その時スピードメーターを見たら度肝を抜かれていただろう。まったく未知なスピードで直線からコーナーに突入し、そして抜けていたのだ。


 突然に爆発的な走りを始めた獲物に驚いたものの、邪悪な狩人達はしつこくその後を追った。最初は、恐れを知らぬ無謀な神経と、有り余る体力で翔子たちになんとかついて行ったが、ロスの無いあるべきラインに乗って走るふたりに徐々に離されていく。あのふたりはとんでもなく速い。直線での絶対的な速さに加え、なんであのスピードでコーナーに突入し抜けられるのだ。


 獲物を追っている理由が明確ではないせいか、リーダーを除くメンバーは、追っている獲物が、自分達のライディングテクニックを遥かに超えた走りをしていることに気づく理性がまだ残っていた。するとさすがに恐怖に無頓着な彼らも、力を越えたスピードの世界にいることに徐々に気後れを感じ、スピードを落として獲物を諦めるべきだと考え始めていた。しかし、リーダーは、自分が決めた獲物を追う興奮でそんなわずかな理性すら失っている。自分とタイヤの能力を遥かに超えて右手のグリップを絞り、アクセルを開け続ける。


 相手が弾丸翔子とわかっていれば、こんな無謀なことはしなかっただろう。獲物として狙った相手が悪かった。翔子たちと同じスピードでカーブに入ったリーダーは、ついに自らのライディングの限界を越え、大きく膨らみ反対車線のフェンスに激突した。


 後ろについていた分、達也が事態に気付くのが早かった。

 追ってきていたバイクがフェンスに激突したことを察すると、バイクを反転させ事故現場に急ぐ。一方翔子は、ゾーンからまだ抜けきっていなかったので、追走のバイク事故に気付かない。同化していたはずの達也の気配が消え、心に生じたわずかな空洞化に翔子が気付いたのはかなり走ってからのことだった。


 達也が事故現場に戻ってくると、そこにはすでに他のメンバーたちが到着しており、リーダーを助け起こそうとしている。達也の姿を認めると、全員いきり立って殴りかかろうとした。


「待ってください。今はその人を助けることが先です。自分は医師ですから、安心して…」


 そう言って達也は、路上でもがき苦しむリーダーに駆け寄った。

 かなり痛がってはいるが、貧相なヘルメットにもかかわらず、頭部に外傷はなく、意識はしっかりしているようだ。痛さの基を探ると、右大腿骨あたりに出血が見られる。この痛がり方は単に外傷からくるものではなさそうだ。これは骨折か、脱臼かが予測される。

 達也は、他のメンバーたちに救急車を呼ぶように指示した。そして、出血を抑えるように動脈を絞り、右大腿骨を固定するなどの応急処置を迅速に施した。


 遅れて事故現場に到着した翔子は、黙って達也を見ながら、以前同じようなことがあったことを想い出していた。父の言うがままに医師になり、本当になりたかったかどうかわからないと言っていた達也。しかし、危うくなった命があれば、殴られる危険も顧みず駆け寄っていく自分の姿を、いったい彼自身は気づいているのだろうか。

 口にご飯粒を付けて咳こむ達也。荒っぽい青年達相手にテキパキと遠慮のない指示を出す達也。翔子は、様々な達也に遭遇して、こころの奥底にコンクリートの箱で沈めておいたはずの種が、壁を打ち破って徐々にその芽を伸ばせていくのを感じていた。

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