第28話

「おい、哲平。お客さんだぞ」


 倉庫で白バイ磨きとメンテナンスに励む乗務停止中の哲平に、白バイ隊長が声をかけた。油で汚れた顔を上げると、隊長の横に明るい紫を基調とした上品な身なりの女性が立っている。後から聞くとその色はラベンダーというそうなのだが、被った帽子から哲平をのぞく瞳がきらきら輝いていて印象的だった。


「隊に差し入れを頂いたぞ。お前からもお礼をしとけよ。…それでは、失礼します」


 敬礼をした隊長は女性を残して署内に戻っていった。

 女性の年齢は無骨な哲平では計り知ることは無理な話だが、強いて予測するとしたらたぶん自分と同じか、もしかしたら年上かもしれない。

 しかし、なぜこんな貴婦人が俺を訪ねて来るのか?腑に落ちない表情で見つめる哲平に、女性が口を開いた。


「私は清野ミカと申します」


 ミカから発せられた声は透きとおっていて、しかもその声に香りすら感じた。声にもかけられる香水なんてあるのだろうか。


「はじめまして、自分は桐谷哲平です」


 哲平は、姿勢を正して敬礼の挨拶をした。敬礼はしたものの、ミカから馴染みの無い上流階級の女性のオーラを感じて押され気味だ。言葉もなくもじもじと立っていると、ミカが口に細く美しい手をあてて笑い始めた。


「何がおかしいんです」


 少し抗議口調で言うと、ミカは顔に笑みをたっぷり浮かべて哲平に言った。


「ごめんなさい…うちの子どもとおんなじお名前だったのですね」


 いかん…。香りに酔い始めた脳下垂体に鞭打って、哲平は官の口調を取り戻す。


「それが…それがそんなに可笑しいですか」

「いえ…今日はお礼に伺ったのに失礼しました。改めまして、先日はありがとうございました」


 しばらく記憶をたどった哲平は、乗務停止となった原因の母子を思い出した。


「…ああ、あの時の切符を切り損ねた…」

「どうします?ここであらためて切符をお切りになりますか?」


 ミカの笑顔が眩しかった。


「今となってはもう遅いですよ…。でも、よくここが解りましたね」


 哲平は倉庫のベンチを無造作に進めた。女性は埃にまみれたベンチを見て、座ることをちょっと躊躇したようだが、ハンドバックからハンカチを取り出すとベンチに敷いて腰掛けた。女性に対して、そんなちょっとした気遣いができないところが、哲平に彼女ができない理由の一つでもある。


「苦労しました。叔父が警察関係におりまして、助けてもらいました。あの時の件で、乗務禁止になっているそうですね」


 一介の警察官では調べられない。その叔父が警察でもそれなりの地位の人間であることは、哲平でも容易に想像できた。


「ええ、始末書と乗務禁止。普通は1カ月のところ情状酌量で1週間に短縮になりましたが…」

「そうですか…本当に申し訳ないことを…」


 だらだらと礼を言い続けられても難儀なので、ミカの言葉を遮って哲平は話題を変えた。


「ところで、お子さんの具合はどうですか」

「テッペイは、生まれた時から心房中隔欠損という持病を持っていまして…。動脈と静脈を分けている心臓の中の壁に穴が開いている病気なんですが、それで時々呼吸困難や強い動悸に襲われることがあるのです。あの時は、お陰さまで対処が早く出来てダメージも少なくすみました」

「その病気は治らないんですか?」

「いえ、血管内カテーテル手術で穴を塞ぐ医療機器をつければよくなるんです。今まで手術に耐えられる年齢まで待っていて、いよいよ手術の時が来たのですが…」


 ため息をつくミカを見つめながら、哲平はそのまま彼女の言葉を待った。


「急に手術を嫌がって、言うことを聞かないんです」

「危険な手術なんですか?」

「それなりのリスクはありますが、心臓にメスを入れるのとは違って、ダメージは少ないんですよ」

「そうですか…。お父さんは何と…」


 ミカは急に曇った顔をした。


「父親とはテッペイが生まれてすぐ離婚いたしまして…」

「す、すみません。立ち入ったことをお聞きして」

「いいんです」

「でも手術は本人が嫌がっても親の了解があればできるでしょう?」

「法的にはそうなのですが、本人が納得せず嫌がっていると、手術もいい結果が出ないそうで…」

「そうですか…難しいもんですね。で、テッペイ君は今どうしてます?」

「ダメージが回復するまで、病院に入院しています。早く家に帰りたいと言ってすねていますけど…」


 しばらく倉庫の隅に咲く雑草の花を見ていたミカだが、ようやく顔を上げて哲平を見た。


「でも、最近のテッペイったら変なんですよ」

「変?」

「『迫るー、ショッカー、地獄の軍団。我らをねらう黒い影。世界の平和を守るため~』なんてヘンテコリンな歌を繰り返して歌うようになって」


 哲平は姿勢を正してミカに言った。


「清野さん、ヘンテコリンな歌だなんて言ったら、悪と戦うヒーローに失礼じゃないですか」


 真顔で返す哲平を、ミカはキョトンとしながら見つめていた。

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